第10話 夕食にて
夕方、イーリスの気分は空の天気よりもどんよりとしていた。
(ええ! 確かに今日中には、必ず送ると約束したわよ!?)
だからといって、昼前に一度。更に三時頃に、もう一度。控えめに王宮書司官が離婚届を尋ねにくるなんて誰が思うだろう?
「あの……グリゴア様から、まだ保管連絡はないのかと再三のお問い合わせがあり……」
なにぶん重要文章ですから、元老院の方への連絡義務がありましてと、頭を腰につけるようにして下げているが、そこまで離婚届を出すか見張っているのかと思うと、腹がたってくる。
思わず、目の前にあったナイフで人参をぐさっと刺した。
王妃らしくない所作ではあるが、どうせもう王妃ではなくなるのだ。
(わかっているわよ! 私だって、国民の前で約束したんですもの!)
王妃として離婚し、たった一人のイーリスとして改めてリーンハルトとの道を選ぶかを決める。これは、政略としては既に自分を王妃に持つ必要のないリーンハルトと、六年の不仲を乗り越えてイーリス自身がやり直していくためにも、避けては通れない道だ。
(私だって、なあなあにして、前と同じような関係にはなりたくないし)
リーンハルトと、お互いに個人として必要なのかを見極めるために必要な方法――には違いないのだが。
ぱくっと人参を啄んで、目の前に光景に瞼を下げた。
(それにしても、これはどうにかならないものかしら?)
朝に交わした約束の通り、リーンハルトは夕方近くにたまっていた仕事に早々と蹴りをつけると、イーリスの住む離宮を訪ねてくれた。
約束通り百日通うを実行してくれているリーンハルトには、本来ならば温かい笑顔と料理で迎えるべきところだが、今イーリスの座る食卓に広がっているのは、まるでお通夜のような静けさだ。
「また、陽菜様がさらわれては大変ですので、身の御安全のために」
どうか三人で和やかに食卓をと、ハーゲンが気を利かせてくれたのだが、リーンハルトの斜め向かいに座った陽菜は、さっきから食べ物には手をつけずに震え続けている。
「陛下と……いっしょ……。陛下……怒らせたら……」
向かいで見ていると、ぶつぶつと陽菜が呟き続けているが、これではさすがにリーンハルトがかわいそうだ。
(この間まで、あんなにまとわりついていたのに――――)
さすがにあんまりではないかと思うが、きっと陽菜にしてみれば、見知らぬ世界で自分を守ってくれる優しい人の一人だったのだろう。それが、自分の行為で本気で怒らせて、生涯幽閉される寸前までいってしまった。
(まあ、怖がるなという方が無理かもしれないけれど……)
ちらっと、リーンハルトを見る。出された食前酒をいつもと同じ優雅な仕草で飲んでいるが、眉間には僅かに皺が寄っている。
明らかに不機嫌の兆候だ。
(ああーどうしようかなあ……)
言ってみてどうにかなるとは思えないが、とりあえずこの凍った空間をなんとかしたい。
「あの……、陽菜。もう、リーンハルトは怒ってはいないと思うわよ?」
――今は。
(これ以上不機嫌になったらわからないけれど……)
「ね? リーンハルト?」
だから、今のうちになんとかしなさいという意味で声をかけると、くいっとグラスを傾けた腕がことんと机に置かれた。
「ああ」
「本当ですか!?」
がたんと、陽菜が席から勢いよく立ち上がる。テーブルマナーとしてはなってはいないが、どうやら今のリーンハルトの返事は、陽菜には信じられないぐらい嬉しい言葉だったらしい。
その姿をぎろりとアイスブルーの瞳が射貫く。
「ああ――――しかし、それはあくまでお前が、俺の信頼を二度と裏切らなければだ。万が一、イーリスを貶めたり、俺の側から蹴落としたりするようなことに加われば、即座にその命はないものと思え」
「はい……つまり、陛下に協力すれば大丈夫ということですよね……」
涙目ながらも、必死に震えながらリーンハルトの方に向かって身を乗り出している。
「そうだな。だが、俺は同じ失敗には寛容ではないぞ?」
さすが、昔の自分を重ねているといっただけあって、不寛容だ。
(うーん、リーンハルトにとっては、一番嫌いなのが失敗を取り返せなかった自分ですものね?)
おそらく、自分の過去を重ねている陽菜にも同じことを求めているのだろう。
さすがに、これでは陽菜の反応も――と思ったのだが、なぜか陽菜は目の前で笑顔になると、手早くナプキンをたたみ出した。
「わかりました! それなら、私は今から全力で陛下の応援に回りますので!」
「え、陽菜、ちょっと……」
驚くが、その前で陽菜は自分の前にあった皿をかちゃかちゃと後ろからとったお盆に載せだしている。
「取りあえず、協力の第一弾として、私はお二人のために席を外しますねー!」
「え、でも一人でいたら、またなにがあるかわからないし」
「大丈夫! 隣の部屋で、ギイトさんやアンゼルさん、コリンナさんと一緒に食べます。皆さんとならば、安全ですし」
それにと、笑顔で付け加える。
「犬も食わないというじゃないですか? だから、お食事は夫婦水入らずでー」
私は陛下のために席を外しますからと言っているが、それは夫婦喧嘩と叫びかけて、むせてしまう。
ごほごほと気管支に入ったスープと格闘している内に、上機嫌な陽菜の背中と共に、扉はぱたんと閉まってしまった。
「大丈夫か?」
「え、ええ……」
なんて、切り替えの早い――――。そういえば、聖姫試験の時に、突然謝ってきた時もそうだった。
(あの変わり身の早さは称賛するレベルだけれど……)
気がつくと、リーンハルトがむせたイーリスの背中をさすってくれている。
(――あら、さっきまであんなに機嫌が悪かったのに……)
背中に触れてきてくれる手は、ひどく優しい。
「あ、ありがとう……」
温かい手が自分の体に触れられているのに、なぜかほっとして礼を言うと、さっきまで機嫌が悪かったはずのリーンハルトがにこっと笑った。
「いいさ、やっと二人きりになれたんだ。これぐらい」
(って、まさか! 二人きりになれないから拗ねていたのー!)
側にいたのは、陽菜一人だ。それなのに、まさかそれだけで子供のように不機嫌になっていたとは。
ぷっと思わず噴き出してしまった。
「もう――!」
(そんなことを言われたら、怒っていたことさえ嬉しくなってしまうじゃない)
昔は、怒りだしたらすぐに体が萎縮してしまって、なにも言えなくなってしまっていた。でも、まさかこんなふうに笑って、リーンハルトの怒りを見ることができるようになるだなんて。
だから、自然に会話が口からこぼれた。
「リーンハルトの手って、大きいのね。それにシュレイバン地方で私を守ってくれた時――あんなに強いだなんて、知らなかったわ」
「それは、まあ……」
少しだけ照れている。
「軍の統帥権を持つのは、国王だからな。いくら兵達が守ってくれるとはいえ、ほかに侮られるほど弱くては、誰もついてはきてくれないし」
「きちんと王様としての考えを持っていたのね。そのお蔭で、助けられたわ。――ありがとう」
広い手を握ってお礼をいえば、リーンハルトの白い肌が見事なほど赤い色に染まる。
だからだろうか。今まで夫婦生活をしてきた六年の中でも、例がないほど和やかな夕食になった。
リーンハルトが軍でどんなふうに特訓を重ねていたのかという話で盛り上がり、途中で、終わった皿の片付けにお茶をもってハーゲンが入ってきた時も、「おや、陽菜様は?」と首をひねっているのに、答えるのが遅くなってしまうほどだった。
夕食を終え、静かにお茶を飲んでいると、時間はゆっくりと過ぎていく。
壁に据えられた柱時計が、いつのまにか八の鐘を鳴らした。
「もう、こんな時間か……」
ちらりと、リーンハルトが柱時計を忌ま忌ましそうに見つめている。
「もう帰るの?」
だから、隣り合ってソファに座りながら、そっと顔を覗きこんだ。
「べ、別に……! 仕事は忙しいが、絶対に今日じゃないし。居場所さえ伝えれば、宮に戻るのは、夜中だろうが明日になっても大丈夫だか……」
(うわあ、真っ赤だ)
なにかを誤解しているような気もして申し訳ないが、さすがにこれ以上王宮書司官を待たせるわけにもいかない。
「だったら、よかったわ。じゃあ」
にっこりと笑って、おもむろにペンを取り出す
その瞬間、がたんとリーンハルトが席を立ち上がった。