第9話 寄り添える肩
どうして、ここにいるのか。先ほど、グリゴアが朝食の同伴をやめさせると言っていたばかりなのに。
「リーンハルト、どうしてここに!?」
慌てて駆け寄ったが、急ぎすぎて腕に正面からしがみつくような形になってしまった。
「来られないんじゃなかったの!?」
そのまま覗きこんで、アイスブルーの瞳に息がかかるほど近づくが、金の髪が肩に触れるやいなや、強引に体を止められてしまった。
「大丈夫だ。昨日馬車に長く揺られたせいで、少し痛みが出ただけだ。それで、医師が心配して大事をとれと言っただけで」
「怪我!? まさか悪化したの!?」
慌てて背中の傷口を覗きこもうとするが、服を着ているせいで、よくわからない。かろうじて背中が見える襟のところから覗こうとして、真っ赤になったリーンハルトに止められてしまった。
「――本当に、たいしたことはない。周りがうるさかっただけで」
「つまり、抜け出してきたのね?」
呆れて見上げたが、リーンハルトの顔が赤いのはなぜだろう。別に服を剥こうとしたわけでもない。ただ、ちょっと顔が首に当たっただけなのに。
「でも、今日からリーンハルトは朝食には来ないって……。離婚するのだからとグリゴアはいっていたけれど。今のを聞いたら、そんなに怪我の状態が悪かったのかなって心配になったの」
「あいつ……」
ちっとリーンハルトが舌打ちをしている。
「君は、まだ俺の妻だ。第一、離婚したとしても君は俺の次の婚約者。一緒に朝食を摂るのに、なにを憚ることがある?」
「うん……」
婚約者候補という後の二文字が抜けたことには、今は目を瞑っておこう。
なんだか嬉しい。
離婚すると決めたのに、昔と変わらないように朝になったら訪ねて来てくれる。
(グリゴアがリーンハルトの指導役だったのなら、逆らいにくいでしょうに……)
なのに、優先してくれた。今はその気持ちがなによりも嬉しい。しかし、リーンハルトの瞳は、部屋の中にいる知らない男をぎろりと睨みつけた。
「誰だ、あれは」
今までの温かった光が消え、急速に冷えていくアイスブルーの眼差しに、カーテンに隠れていた陽菜の体ががたがたと震えだす。
「初めてお目もじいたします、陛下。今日より陽菜様にお仕えすることになりました神殿第六信導官アンゼル・クラインと申します」
「ああ――。陽菜の、か……」
ちらっと物陰の陽菜を見たのは、前回ヴィリ神官が引き起こした事件を思い出したからだろう。
しかし、神殿内の位が第六ということは、ギイトよりは一つ下。どうやら、神殿も前回のことを踏まえて、聖姫となったイーリスとのバランスを考慮したらしい。
「また、男か……」
だが、リーンハルトは忌ま忌ましそうに舌打ちをしている。
(うん?)
「これ以上、いらないというのに……」
(うわあ!)
呟いた瞬間、思い切りギイトを睨みつけた様子から、誰を邪魔に思っているのかがはっきりとわかる。
冷たい眼差しが明らかに不穏な光を放ったのに気がついたのだろう、ついに陽菜がカーテンを飛び出した。
「私! アンゼルさんのお部屋を用意してきます!」
ハーゲンさん、手伝ってと半ば引きずるようにして腕を掴み、部屋を駆けだしていくのは、本気で殺意を感じたからに違いない。
「あ、こら。ちょっと!」
いくら、夕べのおしゃべりで陽菜への警戒を少し解いたとはいえ、コリンナにしてみれば、まだ到底陽菜を自由にさせる気などないのだろう。
「ちょっと、私も行ってきます!」
「ギイト。お前も先輩だろう。新任の面倒をみてやれ」
促すリーンハルトが、口では親切そうに言っているが、とても言葉通りの雰囲気ではない。
さっさと出て行けと、無言でかけられた圧にギイトが礼をするのと同時に、イーリスはまだ機嫌が悪そうなリーンハルトを振り返った。
「あの……リーンハルト。ギイトの件なんだけど……」
姿を見ただけなのに、今の様子では、これからどんな罰を与えるつもりなのか。
「なんだ。俺が来たのに、奴の方が気になるのか?」
「ううん! 減刑を求めてくれてありがとうと言おうと思って!」
むっと頬を膨らませかけたリーンハルトに、どきっとして、慌てて言葉を換えた。
(言えない。本当に減刑よね? ――なんて)
ひょっとしたら、神殿より厳罰を科すつもりなのではないかとひやひやとしているのに、焦って笑うと、リーンハルトの瞳がふっと微笑んだ。
「お前にこれ以上嫌われては困るからな。あくまで、そのためだ」
「え――……」
(私のため……?)
じゃあ、本当にイーリスのためだけに、神殿までいって交渉をしてくれたのだろうか。本当は――すぐに首を刎ねたいほど、怒っていたというのに。
嬉しい。
「ありがとう……」
だから、そっと髪に触れてくる手に誘われるようにして、ことんと頭をリーンハルトの肩に乗せた。
(今度は、大丈夫よね……?)
きっと、今もグリゴアはこの離宮から署名された離婚届が送られてくるのを、王宮書司官と一緒になって待っていることだろう。
それでも――。
今だけは、リーンハルトが自分のことを考えて動いてくれたのだというのが嬉しい。その気持ちを伝えたくて、照れている体へ、そっと心の中の不安を取り除くようにして寄り添った。