第6話 奪還
夜の食事がすんで、暗い庭から見上げる塔の鐘が、ゆっくりと八回鳴らされようとしている。どの建物でも、夕食を終えたこの時間が、王宮の中で一番ゆったりとする時間だ。
王妃ならば、急な用事や夜会がなければ、自分だけのためにすごせる数少ない時間――とはいっても、実際には国賓のもてなしや貴族から私的に招かれたりするため、たまにしかないのだが。
そのたまの時間を、イーリスはすっかり暗くなってしまった東の庭園を歩きながら、ぷんぷんと腕を組んで怒っていた。
「やっぱり! 離婚届を書くのが嫌だから逃げ出したんじゃない!」
今、イーリスが歩いているのは、昼間ならさざんかが美しい庭園だ。複雑な緑の生け垣がすべて白い花で覆われ、冬とは思えないほど華やかで優美な庭だが、そこに立っている人物が腕組みをして怒っているのでは、折角の美しい光景も台無しだ。
フードのついた外套を着込み、イーリスに付き従っていたコリンナも、それを見てくすっと笑った。
「陛下も往生際が悪いですよね」
「まったくよ! あんなに、帰るまでは王宮に着いたら書くと言っていたくせに!」
やっぱり、なんだかんだといって先延ばしにするつもりなのだ。
「だいたい、ずっとギイトを目の敵にしてきたくせに、今になって減刑の口添えだなんて――」
この間まで、首を刎ねると断言していたのは、どの口なのかと叫んでやりたい。
「陛下は、本気でギイトを嫌っていますからね」
「まったくよ! 死罪にする気満々だったのに、今更助命嘆願だなんて――」
(いや、待てよ)
吹いた夜風に金色の髪が揺れて、嫌な可能性に気がついた。
(そうだ……。死刑にするつもりだったのだ……)
ならば、減刑とは。
「まさか……これをチャンスと、ギイトに終身刑を提案するつもりなんじゃないかしら……」
頬に伸ばした指が、かたかたと震えてくる。
「え、終身刑!?」
「そうじゃなくても、死刑にする気だったんですもの。これ幸いと、減刑の名前にかこつけて、ギイトを島流しにしたり、無期の労働刑を科したり……」
やりかねない!
(昔から、気に入らないことには容赦がなかったリーンハルトですもの! これ幸いと、ギイトの王宮追放を企むのでは……!)
「あー……、確かに陛下ならありそうですが……」
俯いて首をひねったコリンナにも、やりそうな心当たりがあるのだろう。
だいたい、今回の王妃宮の全員に対する処置からしても、寛大という言葉がみうけられない。
「もし、そうなったらどうしよう! リーンハルトが、これをチャンスとギイトを追い落とすことを考えていたら!」
がばっと、コリンナに身を乗り出す。
「落ちついてください! やりかねないとは思いますが、処罰を下すのは神殿です。普通の罪人に対する刑罰とは違いますから」
「でも……!」
「それに、陛下は今は誰よりもイーリス様に嫌われることを恐れておられます。まさか、再婚前にそんなことはされないと思いますよ!?」
そうなのだろうか。
「だったら……いいのだけど……」
縋りついていた手が、コリンナの両腕から力なく垂れ下がっていく。
そんなことはない――そう思いたいのに、心の中には、重たいものが落ちていく。
言葉を紡ぐことさえできなくて、庭に八時半を告げる鐘が一つ鳴った時だった。
コンと、側に立つ彫像から軽い音がする。
振り返って暗闇に立つ女性像を眺めると、台座からまた一つこんと音がする。そして、僅かに開いた隙間から控えめに伸ばされてくる白い手。
「あっ!」
急いで駆け寄ると、大理石で作られている豪華な台座の隙間に急いで手を差し込んだ。指を入れ、石の扉を、急いで庭の暗闇に向かって滑らせるように開いていく。
台座の下にぽかりと空間が開いた途端、暗闇の中から飛びだすように白い二本の腕が伸ばされてきた。そして、イーリスを見つけると、そのまま抱きついていく。
「イーリス様!」
「陽菜!」
グリゴアによって、王妃宮に閉じ込められていた陽菜だ。しかし、無邪気な笑みで今抱きついてくる姿を見れば、どうやらハーゲンに託した手紙は無事に読んでもらえたらしい。
「よかった! 無事に抜け出せて」
「お手紙ありがとうございます! もう、最初は滅茶苦茶焦っていたんですよー、まさか王妃宮に入れられるなんて!」
本気で困っていたのだろう。必死でイーリスに縋りついてくる姿は、喜びに溢れている。
「今度こそ、本気で陛下に殺されるかもしれないと思いました!」
「その様子だと、どうやら脱出ルートは、無事わかったようね」
あまりの正直さに、くすっと笑みがこぼれてしまった。
「はい! びっくりしました! よく映画とかで、王宮に隠し通路とかが出てきますが、ここにもあったんですね」
「一応、どんな有事があるかわからないからね。嫁して来た時に、王宮の隠し通路については、教えられていたの」
ましてや、王妃宮の隠し通路だ。歴史愛魂が刺激されて、時々、忍者ごっことこっそり宮を抜け出しては、脱走の解放感を味わっていたとはいえない。
「すごく複雑で、迷路みたいになっていて楽しかったです! もし写真がとれたのなら、あの大迫力の通路の写真で、絶対に三千いいねは確実だったのに! もう、写真がないのが、惜しくて惜しくて」
あとで、絵に描いて残しておいてもいいですかと無邪気に尋ねてくるが、王宮の秘中の秘だけに、それはできたらやめてもらいたい。
「あっちの世界に帰ってからならいいけれど……」
「あ、じゃあ絶対にこっちの人の誰にも読めないように、日本語の日記で書いておきますね」
すぐに意味を理解できるあたり、頭の回転は悪くないのだろう。
「それよりも」
庭に飛び出してきた陽菜が、急にずいっとイーリスの正面に顔を寄せてきた。
「私より、イーリス様の方が顔色が悪いですよ? こちらに来てからなにかありましたか?」
前にも感じたが、回転が速いと言うよりも、どうやら勘がかなりいいのだろう。
「あ! それとも、ひょっとして私が王妃宮に入れられていたからですか!? でも、私はもうイーリス様と敵になるつもりはありませんし、陛下の奥さんになる気もありませんから――」
絶対にご免ですと震えているが、メインはそちらではない。
「いいえ、違うの。ただギイトが、神殿で今回の件での沙汰を受けるのに、リーンハルトが一緒について行ったのだけれど。重い刑を申し込まなければいいなと思って……」
「陛下が? イーリス様の神官様に?」
陽菜が、きょとんとした顔をしている。そして、次の瞬間、破顔をした。
「それはないですよー。だって陛下、都に戻る前に物陰から見ていたら、『ギイトの奴。イーリスとの喧嘩にさえならなければ、今すぐ首を刎ねてやるのに……』って、忌ま忌ましそうに呟いておられましたもの。今更! イーリス様を怒らせるようなことはされませんて!」
ひらひらと手を振って話しているが、内容はかなり物騒だ。
(やっぱり処刑する気満々だったー!)
あぶない、これでは隙さえあれば、なんとか排除したくてたまらないのではないか。
しかし、焦るイーリスに対して、陽菜はにっこりとイーリスの腕を抱きしめる。
「だから! 今更、陛下がイーリス様に嫌われるようなことはなさいません! それに、私が見たところ陛下はすごく独占欲の強い方ですもの。代わりに女性の神官が来るのでもない限り、これ以上新しい男をイーリス様に近づけたいとは思われませんよ」
本当だろうか。――でも。
「ありがとう、陽菜……」
すごく気持ちが楽になった。
「いいえ。私は、本当はずっとイーリス様と仲良くなりたかったんです」
だからと、イーリスとまだ厳しい瞳をしているコリンナの前で、暗闇の中、正式に裾を持ち上げて膝を折る。
「これまでのこと、本当に申し訳ありませんでした。私の狂言だと、皆様にすべて説明いたしますので――」
高校生ぐらいだろうに、素直に自分の罪を認めている。細い肩が小刻みに揺れているのは、もう与えられないとわかった罰ではなく、なによりも自分を守ってくれたイーリスに対して申し訳ないと思っているからだろう。
「頭をあげて――」
伝わってくる気持ちに、イーリスも細く微笑めた。
「私も――向こうの世界のお話ができる友達がほしかったのよ」
そっと手を伸ばす。
「本当ですか!?」
ぱっと陽菜の顔が輝く。
「あ、あのイーリス様は前世では、日本のどこのお生まれで……」
「私は神戸よ。陽菜は?」
「私は、神奈川です! 同じ港町ですね!」
「本当に――。また、向こうの世界の地名を聞けるなんて……」
懐かしくて。誰とも語り合えなかった懐かしい土地。大好きだった食べ物。そして、失ってしまった学生時代の風景や、部活動など。
色々と口に出したくてもできなかったからか。その日は、離宮に戻ると、夜遅くまで二人で座って話し込んでしまった。
あまりに熱中しすぎて、つい寝るのが遅くなってしまったのは仕方がないだろう。最初は、イーリスと斜め向かいに座って仲よさそうに語らう陽菜の姿を針のような眼差しで見つめていたコリンナだったが、途中からは呆れたように首をすくめて、お茶を用意してくれていた。
だから、次の日、起きるのが少し遅くなってしまったのかもしれない。
いつもならば、太陽が顔を出して、鳥がさえずる頃には起きるのに、王妃としての責務がないからか。いつもよりゆったりと髪を結い、一階に下りて陽菜に挨拶をした時。
宮を管理しているハーゲンが、慌てたように駆け込んできたのだ。
「イーリス様! 突然、元老院のグリゴア様が面会をと、今玄関に――!」
来た。最初から、陽菜を脱走させれば、なにかくるだろうと思ってはいたのだ。
だから、イーリスは怯える陽菜を背後に守り、優雅に微笑んでみせた。
「お通しして」




