第32話 新しい未来
震えたまま、陽菜は青ざめた顔で、リーンハルトを見上げた。必死に視線で縋るが、陽菜を振り返ったリーンハルトの青い瞳は、今まで見せていたものとは違う。
「どこまで、この件について知っていた?」
「あ……」
凍てるような声に、へたりこんだまま、砂のついた手をゆっくりと後ろへにじらせている。逃げることを許さないように、怒りを秘めたまま見下ろすリーンハルトの瞳は、これまで陽菜に向けられたことはないほど冷たいものだ。
「俺はお前を信じていた。だが、もしお前が王妃になりたいがために、イーリスを害するのに加わっていたのなら」
きつく眉根が寄せられる。信じていただけに、許せない。そんなリーンハルトの気持ちを感じて、陽菜は急いで叫んだ。
「ち、違うの! 私は、イーリス様を殺すつもりなんてなかったわ! ただ、王妃になれと言われていただけで!」
「王妃になれ? それで、俺に親しげに近づいたというわけか? ほしかったのは、権力か」
すっと動くリーンハルトの冷たい剣先に、陽菜の体ががたがたと震えていく。喉元に突き立てられているのではない。ただ、剣の先端を向けられただけなのに、陽菜の顔は、まるで色をなくしたように白い。
「違うわ、そんなんじゃないの……」
切羽詰まった声は、陽菜の真実のものだろう。持ち上げられた剣先がこれからどう動くのか、目を離すことさえできないようにして震えている。
「ただ、この国で王妃にならなかった聖女はいないと言われて……。私が神殿の保護を受けられているのも、全ては王妃になる女だからだって……だから、もし王妃になれなかったら、知らないこの世界で、路頭に迷うしかないから、どんなことをしても王妃になれって言われたの……っ!」
「あいつ……!」
まさか、ヴィリ神官が陽菜までも脅しているとは思わなかった。叫ぶように告白したが、その陽菜の喉に、すっとリーンハルトの剣先が持ち上がる。
「ひっ!」
あと一センチ。奥に進めれば、確実に陽菜の首は貫かれるだろう。
「ならば、夜会の時に言ったお前の言葉も嘘だな。イーリスがお前を殺そうとしたと思われれば、イーリスはみんなの信頼を失う。それに乗じて、王妃になろうと」
「だって……陛下とイーリス様は、ずっと不仲だと言われていたし……それにヴィリが、イーリス様も内心では別れたいのに、責任感が強いから……王妃という立場のせいでできないって。少しきっかけを作ってあげれば、生まれた国に帰れるからって――!」
こらえきれなくなったように陽菜が身を乗り出す。
「イーリス様は、王族の生まれなんでしょう!? だったら、ここで辛い思いをするよりも、陛下と別れて元の国に帰った方が、幸せになれるって聞いたのだもの!」
だから殺さないでと、陽菜の全身が叫んでいるかのようだ。
それを見るリーンハルトの瞳は、少しだけ呆れたように歪んだ。
「イーリスの実家は、攻め滅ぼされて今はどこにもない。そんなことすら知らなかったのか?」
「えっ!?」
まさに、今初めて聞いたという顔だ。
「そんな――――……だって、イーリス様だって、あんなに陛下と離婚したいと言っていたから……! だから!」
だから――ヴィリ神官に言われたことを確かめもせずに、信じてしまっていたのだろう。考えてみれば無理もない。いくら聖女と言われていても、日本ならば、まだ高校生の女の子なのだ。それが突然別の世界に放り込まれて、習慣も暮らしも全てが違う生活の中で、側で支えてくれる人の言葉を信じてしまった。それをどうして責められるだろう。
(ただ、こちらの世界の人選が悪かっただけで)
だが、リーンハルトはその言葉に眉を寄せると、強く唇を噛む。
今も剣を向けたまま、陽菜を苦しそうに見下ろした。
「たとえそれが真実だとしても――――陽菜、お前は現王妃の失脚事件に関わった。そればかりか、未遂とは言え、お前の側近が王妃暗殺を企んだのだ。お前も無関係というわけにはいかない」
「えっ!?」
必死に陽菜が見上げるが、リーンハルトの瞳は既に横を向くと、近くにいた護衛の者達に命じている。
「聖女陽菜の拘束を。そして、誰とも接触できないように、王宮の塔に幽閉しろ」
塔――――といえば、聞こえはよいが、一つ裏返せば、貴人の幽閉先だ。
誰とも無断で接触できないほど、高い空間に作られた豪華な牢屋。
こちらの知識がなくても、リーンハルトの言葉でなにかを悟ったのだろう。名を変えた牢に押し込まれる未来に、陽菜の顔色がさっと変わった。
「ま、待って! お願い、なにも知らなかったの! 私が、陛下と話していて楽しかったのは嘘ではないし。だから、どうか」
幽閉だけはと、陽菜がリーンハルトに取り縋ろうとしているが、その体を王の命で駆けつけた兵士達が、幾人も囲んで拘束しようとしている。
「いや! お願い、助けて! 本当に知らなかったのよ!」
「陽菜……」
命じたリーンハルトも辛そうだ。けれど、決して命令だけは変更しない。
縄で縛られる陽菜を見つめながら、もうこれで決定だというように、剣を下ろしていくリーンハルトの苦しげな表情に、イーリスの方が焦ってしまう。
(待って、待って!? 本当にそれでいいの?)
背を向けて、そのまま歩き出そうとしたリーンハルトに、気がつけばイーリスは駆け寄っていた。
「待って!」
「イーリス……」
驚いたように、リーンハルトがこちらを振り返る。
急いでイーリスは陽菜の前に出ると、リーンハルトの決定から庇うように、その前に立った。
「待って! 陽菜は、あなたにとって昔の自分を見ているような存在だったのでしょう? そんな過去の自分のように感じていた相手を、幽閉だなんて……リーンハルトはそれでいいの?」
止めなければいけない。今のリーンハルトの表情を見ていれば、彼が今も陽菜に昔の自分を重ねていることは確かだ。
王の名だけは継いだのに、まだなにもわからなくて全てに無力だった即位したばかりの頃の自分。
リーンハルトの中では、強烈なまでの挫折体験だったはずなのに、今また過去の自分を重ねている者の知らないが故に犯した過ちを、許すことなく処断しようとしている。
(本当に、それでいいの!? あなたの心は!)
今のリーンハルトには、きっと辛いぐらい陽菜の気持ちがわかるはずだ。なにもわからず、よかれとおもったことで失敗してしまった――――。
どうしようもないぐらい、心を抉られているはずなのに。
しかし、リーンハルトはぐっと眉を寄せてイーリスを見つめた。
「だけど、ここで陽菜を処断しなければ、また君の命が狙われる……」
言われたことに思わず言葉を失った。
「え……、私……?」
突然の言葉に目を開いて見上げたのに、どうしてか顎が震えてしまう。驚いたのに、震えているのは、リーンハルトの瞳も同じだ。
「そうだ。たとえ今、俺が君と離婚したとしても――――俺は、君以外とは結婚したくない」
震えながら告げられる言葉に、金色の目を見張る。
その間もリーンハルトの瞳は、苦しそうにイーリスを見つめている。
「今、俺が陽菜を感情で許せば、きっとこれからも同じように陽菜を利用しようとする者が現れる。そうなれば、今度こそ、君は命を落とすかもしれない……!」
アイスブルーの瞳が、手で覆われた。まるで、今自分が行っていることが、苦しくてたまらないというように――――。
「嫌なんだ……! 俺のせいで、君が傷つくのは。だけど、俺はどうしても君を諦めて、君以外と結婚はしたくない……!」
今、リーンハルトは自分で何を言ったのか、わかっているのだろうか。
(あなたは、今――あの時抱いたコンプレックスよりも私を選んでくれた……)
そして、今度は政略ではなく自分の意志で、イーリスを選ぶという。
今までの過ぎてきた時のなにもかもを乗り越えて。
叫びながら苦悶しているリーンハルトの姿に、ゆっくりとイーリスの中で予感が芽生えていく。
――――今度は、違う未来が待っているのかもしれない。
だから、嘆くリーンハルトを見つめたまま、静かに口を開いた。ただ、その口元が微かに緩んでしまうのは、どうしようもない。
「だったら――――陽菜を私の側におけば、いいわ。そうすれば、私に無断でほかの誰かが陽菜に近づくことはできないし」
「たとえ、そうしたとしても――君が安全とは限らない……。俺は、本当に君が今大丈夫なのか、会えない時間いつも不安でたまらなくなってしまう……」
苦しそうに叫ぶと、強く瞼を閉じる。
「きっと、君を側から離すことができないほど――――。街なら街へ。君が他国へ行ったなら、そこへ毎日会いに行きたくて仕方がなくなるほど、心配にとらわれてしまうのに違いない。きっと君の無事を確かめなければ、俺の気が狂ってしまうほど――。俺は君に会いたくて、全てを捨ててしまいたくなってしまう!」
王として、それだけはできないのにと嘆くリーンハルトに、イーリスの口元に柔らかい笑みが戻ってくる。
「だったら――陽菜を見張る私がリーンハルトの側にいるしかないわよね? そうすれば、リーンハルトも私が知らない間に、誰かに殺されたりしていないか、不安になることもないでしょうし?」
イーリスの提案にリーンハルトは「えっ」と驚いて顔を持ち上げた。意味をのみこみ、慌ててイーリスの前に身を乗り出す。
「そ、それは……! 俺とやりなおしてもいいということか?」
「生憎と約束通り離婚はしてもらうわよ? だけど」
少しいたずらをするように笑みを返す。
「婚約ならもう一度してあげてもいいわ。再婚するかは、これからの百日間。リーンハルトが、毎日朝食以外でも私の部屋を訪ねてきてくれたらだけどね?」
「本当に? 百日間――本当にその条件をクリアしたら、君は俺と再婚してくれるのか?」
「ええ、でも一日でも欠けたらだめよ? ちゃんと、喧嘩しても次の日には仲直りをするつもりがあるんだという誠意を見せてくれないと」
そうだ。百日。昔、小野小町が深草少将の求婚に出したように。彼は、この約束を果たすことができなかったけれども、六年間どんなに喧嘩をしても、毎朝欠かさずイーリスと朝食を共にしてきたリーンハルトならば、そう難しい問題でもないだろう。なにしろ、たった三ヶ月ちょいだ。だから、もしリーンハルトが、百日の約束を達成してくれたその時には、自分はどんなに喧嘩をしても、またやり直せるのだと安心して、もう一度リーンハルトの側に立つことができるだろう。
「そうしたら――私は、あなたが書いてくれた離婚届をそれまで保管して、再婚届を出すか決める百日後に、神殿に提出するわ」
そのイーリスの微笑みに、やっとリーンハルトの顔にも嬉しそうな笑みが戻ってくる。
「わかった。では、百日間は再婚相手としてのお試しだな。ならば、婚約からやり直そう。そして離婚届と共に、必ず再婚届も一緒に提出させてみせる」
今まですれ違ってきた全てを乗り越えて。
(結局、なんだかんだ言ったって、私はリーンハルトに甘いんだから)
だけど、今自分の前で輝くこの嬉しそうな笑顔を見てしまっては仕方がないのかもしれない。
(私だって――。本当はあの遠い昔、リーンハルトが手を差し出してくれた時に、彼と幸せな夫婦になりたいと願っていたのだもの)
前世では、恋なんてしたことがなかったからわからなかったけれど、きっと自分が辛いと思いながらも、リーンハルトの側に居続けたのは、なんだかんだ言いながらも、彼のことが好きだったからなのだろう。
(好きだったから――、陽菜とのことを聞いた時は、目の前が真っ暗になるぐらい悲しかったんだわ)
自覚はなかったが、自分もリーンハルトに恋をしていたのだろう。
考えてみれば、似たもの同士なのかもしれない。
ふと笑みがこぼれてリーンハルトを見上げた瞬間、二人の様子を見ていた周りから、大きな拍手と喝采が起こる。
「おめでとうございます! 陛下!」
「イーリス様! 今度こそ、お幸せに!」
さっきのリーンハルトの求婚を見ていたからだろう。広場にいる全ての人々が祝福してくれている。
だから、イーリスはリーンハルトの側に並びながら、その声に応えるように大きく手をふった。
「ありがとう!」
「もう、陛下が目移りしないようにしっかりと見張っておきなよー!」
「わかってる!」
笑顔で声援に手を振り返したが、人混みの中からはどっと笑いが巻き起こる。
ただ、その中で陽菜だけが、へなへなと腰が抜けたように広場の煉瓦に座り込んでしまった。
「よ、よかった……」
どうやら、よほど幽閉が怖かったのだろう。腰を抜かしたまま、ぽろぽろと涙をこぼしている。
その姿に、イーリスは身を屈めた。
「一つだけ訊いておきたいのだけれど……本当にリーンハルトのことは好きではなかったの?」
「えっ、陛下をですか?」
言われた言葉に焦ったのだろう。しんと周りが見つめる中で、陽菜は困ったように顎に手を当てている。
「それは……確かに陛下はかっこよくて、背も高いし、正直恋人になれたらいいなと思うぐらいには、ステキでしたけれど」
(部活の先輩のノリ?)
とは表情に思うが、しかし肝心の陽菜はうーんと唇に指を当ててためらっている。
「でも、いくらステキでも、人の旦那様を横取りなんてしたら、いいねをもらえそうにないじゃないですか? だから私、イーリス様のためと言われた最初はともかく、二人で一緒に王妃になるのなら、後で向こうの世界に帰れた時でも、いいねをもらえそうだから、悪くないなと思っていたんですけれど……」
(どこまでも、いいねが判断基準?)
さすがにそれはどうなのかと思うが、ここまで徹底されると逆に感心もしてしまう。一つ大きく息をついたのを誤解されたのだろう。陽菜が慌てて、イーリスににじり寄って来た。
「だけど、陛下が私の部屋に来た時になにもされなかったのは、本当ですよ? 実際、睡眠薬入りのお茶を飲ませたら、後はぐっすりでしたし――」
むしろ邪気がなくて危なすぎる。まさか、一国の王に睡眠薬を飲ませて、意識不明にしたことを堂々と告白するとは――――。
くらくらとする頭を押さえながら肩に手を置いた。
「わかったわ。今度から私が指導役になってあげるから、くれぐれも変な話には迂闊にのったりしないようにね?」
「本当ですか? 私、イーリス様には向こうの世界の話ができるから、前から親しくなりたかったんです! あ、これは本当ですから!」
両手を握りしめながら言う陽菜の顔は、年相応の娘のものだ。明るい表情にくすっと笑ったが、その途端、急に後ろからぐいっと首を腕で抱きしめられた。
「わかっただろう? これで、俺がなにもしていないといったのは?」
なんだか嬉しそうなのがむかつく。けれど、振り返った先では、リーンハルトは、まっすぐにイーリスを見つめている。
「ここで、男としてそれはどうなの?」
まさかの据え膳宣言。しかし、リーンハルトのアイスブルーの瞳は、今は優しくイーリスを見つめている。
「仕方がないだろう。俺が、恋していたのはお前なんだ。今までもこれから先も、ずっと――」
「待って! なんで、ここで告白!?」
慌てるが、リーンハルトはイーリスに回した腕を緩めない。それどころか、正面に体を向けるとますます強く抱きしめてくるではないか。
「なぜって……物事は悪くなる前に予防するのが大事なのだろう? それなら、誤解される前に、言っておいた方がよいと気がついたから……」
(ああ、もう!)
どうして、こう失敗から学んで成長していくのか。
(それは、私がこの間壊血病の治療で言ったこと!)
とは思うが、間違ってはいないから否定ができない。だから、恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「でも再婚は、百日の約束を果たしたあとだからね?」
「わかった。じゃあ、約束として、みんなの前で口づけをしたいのだが、いいだろうか?」
どこまでも逃げ場をなくしていくつもりなのか。恥ずかしいのに、どうしてだろう。リーンハルトの瞳を見ていると、なぜか六年前にやった結婚式のやり直しな気がしてくる。あの時も、神の前で、初めてで――たった一度きりになってしまった口づけを捧げた。そのせいか、なにか神聖なことを申し込まれたような気になってしまう。
「いいか?」
まるで求婚を申し込んでいるかのような顔で再度尋ねてくる姿に、赤くなりながら頷く。
「い、いいわよ」
きっとこれは、リーンハルトからの新しい誓いだ。
これから、もう一度二人で生きていく。そっと重ね合わせられていく唇の優しい感触に、きっと二人の関係は幸せな恋に生まれ変わるだろうという予感を抱く。
「おめでとうございます! 国王陛下」
「おめでとうございます、イーリス様! そして、未来の王妃様!」
優しい口づけに、不思議なほど、これまで考えていなかった未来を予感する。きっと百日後に自分は彼の求婚をもう一度受け入れて、彼が署名する離婚届と共に、神に出すことになるだろう。
その時には、牢から出たギイトと、自分を見守ってきてくれたコリンナ。加えて、きっと今度こそ自由に生きられる場所を見つけた陽菜が、自分達の側にいる。
二通の届けを出す未来を感しながら、イーリスは新しく婚約者となった夫と見つめ合い、お互いに明るい微笑みを交わした。




