第30話 聖姫
一週間後。
シュレイバン地方領主の館の前にある小さな広場には、たくさんの民衆が押し寄せていた。
「はい、こちらを飲んでください」
「これで怖い病気を防げるって噂ですが、本当ですか?」
「本当ですよ。栄養が偏って起こるので、お子さんたちも、定期的にここへ飲みに連れてきてくださいね」
簡素な机に置かれた木のカップに注がれているのは、オレンジジュースだ。領土の広いリエンライン王国でも、栽培されているのは南方の温暖な地域になるので、冬場のシュレイバン地方では貴重品だが、そこはやはり、リーンハルトが王室の力を使ってなんとか運んできてくれたらしい。
「お母ちゃん、これおいしい!」
一緒にいる子供達も、渡された初めての黄色いジュースを飲んで目を輝かせている。
さすがに人数が多いからだろう。試験を待っているだけでは手持ち無沙汰だったのか。エプロンをつけた陽菜も、コリンナや城のメイドたちに交じって、一緒にオレンジジュースを配る側に回っている。代わりに、側に立つヴィリ神官は不満そうだ。
「どうして、我々がこんな……今の王妃の人気とりに……」
「あら、いいじゃない? 私は小学校での給食当番を思い出して、懐かしくなったわ」
言いながら、子供達にオレンジジュースを注いでいる陽菜は、本当に楽しそうだ。
はいと、子供達に気さくに話しかけている姿を見ると、とても根っからの悪い子にはみえない。
(うーん。なんかこうしてると、陽菜って普通の高校生ぐらいの女の子に見えるわよね……)
リーンハルトに彼女への気持ちや見方を聞いたせいだろうか。今まで王宮や試験で見せていた姿よりも、今のように子供達に囲まれている陽菜の方が、なぜか彼女らしくて、のびのびとしているように見える。彼女を見ている間に、距離が遠ざかっていたのだろう。
「おい、あんまり離れるな」
側に寄ってきた姿に声をかけられて、隣を振り向く。
「まだ君を狙った犯人は捕まっていないんだ。危ないだろう?」
あれから、そう言っては時間がある限り、リーンハルトはいつも側にいてくれた。
(正直、結婚してからの六年の間で、一番長く一緒にいたわよねー)
そのせいだろうか。最近は、リーンハルトが側にいてくれると、なんだか安心するような、どこか心強いような気がしてしまう。
見上げた顔に思わず笑みがこぼれた時、後ろを振り返っていたコリンナが、あっと声をあげた。
「イーリス様。あれ」
言われて顔を館の方に向ければ、この間までベッドで寝ていたはずのアンナが、白い紙束を持ちながら、ツェルガー医師に伴われて、明るい日差しが降り注ぐ広場へと歩いてくるではないか。
そして、驚いているイーリスの姿を見つけて、にこっと微笑んだ。
「公爵夫人……いえ、王妃様だったんですね。たくさんの失礼をしてしまって、申し訳ありませんでした」
「そんなことはいいのよ! 体の具合はどう?」
持っていたジュースを入れる柄杓をコリンナに任せると、急いで近づいたのだが、アンナは薔薇色の頬を輝かせて、にこっと笑っている。
「はい! 毎日、色んなお野菜や果物をいただいたお蔭で、ずいぶんと良くなりました。だから、今日は王妃様に、お礼とご報告に参ったのです」
「なに? その顔を見ると、なにかすごく良いことがあったのね?」
「はいっ!」
答えるアンナは、それまで両腕に抱えていた白い紙をおもむろに持ち上げると、我慢できないように叫んだ。
「実は、王妃様と陛下を見ていて思いついた『公爵令嬢の恋人』(もしも版)が、同じ部屋の患者のお見舞いに来られていた印刷業界の方の目にとまりまして! 作者に了解を取るから、『ファンブックもしも版』で出版してみないかというお話をいただいたんです――!」
「はああ!?」
(まさか、この子本当にリエンラインで薄い本の創始者になったの!?)
自分には聖女の予知能力なんてないはず――――とは、思うのだが、この事態に開いた口が塞がらない。
「見てください! この辺り! 窓から見たお二人の表情で、『ああーこんなことを思って歩いていたら最高なのに』とか思いながら、書いたんです!」
「書いたんですって……アンナ、これ……」
見れば、渡された白い紙には、公爵令嬢の肩に手を回したいのに回せず、苦悶する『公爵令嬢の恋人』の陛下が、萌えの限りに書かれているではないか。そのまま強引に唇を奪い、腕を振り払って拒まれる。
(わあ――――)
紙の中に描かれている自分の姿に、隣でリーンハルトが顔を真っ赤にして動揺しているのが、側で見ていると面白い。
「でも、これが実在の国王陛下と王妃様をモデルにしたとわかってから、急に相手が待ったをかけてきて……」
「かまわないわよ? むしろ面白そうだから、どんどん出版してしまって?」
「イーリス!?」
隣でリーンハルトが驚いて叫んでいるが、せめてもの意趣返しだ。
「なんなら、リエンライン王国王妃絶賛と煽りをいれてもいいわよ? あ、あとできたら陛下が、とても慌てるシーンとかもほしいわね」
「わかりました! 完成原稿ができましたら、先ずイーリス様にお見せしますから」
「うん、ぜひお願い」
「ちょっと待て」
「なによ、若い女の子の門出じゃない? 言わなければ、モデルがリーンハルトだなんて誰にもわからないし」
「それは……そうだが……」
まるで書いてあることに心当たりがあるというような顔をしている。
(まさか、本当にキスをしたいと思っていたとか?)
六年も一緒に暮らしてきて、結婚式以外一度もなかったのに。まさか――とは思うが、この間のリーンハルトの告白を思い出して、頭の中がぽんと爆発しそうになってしまう。
(落ち着きなさい! 私! これは、アンナの妄想なんだから!)
慌てて頬を叩くが、目の前で国王に待ったをかけられたアンナは心配そうだ。
幼い不安そうな表情に、動揺しているリーンハルトの胸を手のひらでぽんと軽く叩いた。
「いいじゃない? これで、ひょっとしたら、神官様より王様の人気の方が高くなるかもしれないわよ?」
「原作があるのに?」
「そりゃあ、二次創作で原作の公式カップルより架空カップルの方が人気が出るなんて、いくらでもあることだから―」
軽いつもりで言ったのに、なぜかリーンハルトの目は真面目に考え込んでいく。
「そういうことならば……いい加減、公爵令嬢の神官褒めも腹がたっていたし」
「え?」
なにをするつもりだろうと焦るが、リーンハルトはくるりとアンナを振り返っている。
「わかった。俺も未来のある国民の願いを踏みにじるほど非道ではない。どうか王令嬢派を神官派より、多くする意気込みで頑張ってくれたまえ」
「ちょ、ちょっと!」
(なに、こっそり公式カップル以外を人気にしようと企んでいるのよ?)
どうやら、毎日宮廷で聞かされる『公爵令嬢の恋人』の神官に、よほど思うところがあったらしい。
「はい!」
けれど、国王夫妻に許可とリクエストをもらえて大喜びしているアンナの肩に手を置き、激励しているリーンハルトは、とても真面目な顔だ。
「期待している。君の才能に」
「はいっ! 私、これからも自分の好きに邁進します!」
答えるアンナは、とても嬉しそうだ。この様子では、とても薄い本を生み出したのが、病気のせいだとは思えない。
(テンションが高かったのは病気が関係していたのかもしれないけれど、やっぱり妄想の方は地だったのね……)
やはり、オタクはどんな時でもオタク。死んでも治らなかった自分が言うのだから間違いがない。
「イーリス様」
「マリウス神教官」
喜ぶアンナに思わず見入っていたが、イーリスの瞳は、側からかけられた声に引き戻された。
見れば、なぜかいつもとは違い、マリウス神教官は深く頭を下げて、イーリスに最高の礼をとっているではないか。
「これで、イーリス様が皮傷病――――いえ、イーリス様曰く壊血病の治療が、なされたことが証明されました」
そして、聖職者の黄色い僧服で広場に片膝をつくと、大きく神の印を切っている。
「これは、決して小さな功績ではございません。この街のみならず、今病に苦しんでいる何百という人々、更には、これからかかるかもしれない何万という人々の命をお救いになったのです」
だからと、すっと頭を下げた。
「神殿は、ここにイーリス様が皮傷病を癒やすという奇跡を行われたと認め、第七代聖姫の名をイーリス様に贈りたく存じます」
聖姫――――。
すっとマリウス神教官が手を掲げると、曇っていた空から光が差し込んだ。
神官のみが使えるという神による不思議の一つなのだろう。
雲が切れ、幾筋もの金色の光がイーリスの周囲に降り注いでくる。天が祝うかのように金の粒がイーリスを包んでいくのに、広場にいた人々が、みな歓喜の声をあげている。
「おめでとうございます! 聖姫様!」
「聖姫就任おめでとうございます! イーリス様!」
割れんばかりの歓声だ。
老いて腰の曲がった老人も、子供を連れた婦人達も、みながイーリスを見つめて、惜しみない拍手を送り続けている。
周りを包んでいるのは、心からの笑顔だ。
だから、イーリスは驚いたまま祝福してくれる人々を見回した。
「おめでとう、イーリス」
戸惑いながら微笑んでいたが、横からした声にはっと我に返る。
「これで君は俺と並ぶ正式な聖姫の位を得た。ならば――――、俺も約束通り、君が望む離婚を受け入れよう」
突然の王の言葉に、広場にいた人達もさすがに驚いたのだろう。それまで溢れるようだった拍手がまばらになり、戸惑ったように隣にいる人達と顔を見交わしている。
「リーンハルト……」
まさか、今まで拒んでいたリーンハルトが、こんなにあっさりと離婚を受け入れるとは思わなかった。
(どうしよう……確かに、離婚したいとあれほど望んではいたけれど……)
「いいの? だって、聖姫は王妃の中の王妃という位だって――――」
「君が聖姫になった時は、俺の王妃だった。その後に別れたというのなら、形式上の問題はない」
伏せられたまま話し続けていたリーンハルトの顔は、覚悟を決めたように持ち上げられて、アイスブルーの瞳でまっすぐにイーリスを見つめていく。
「だけど! 離婚はするが、代わりに俺との再婚も考えてくれ。もし、君が俺と、少しでもやり直してもいいと思っていてくれるのなら!」
「えっ! えええっ!?」
まさか離婚を承諾されたその場で、すぐに再婚を申し込まれるとは思わなかった。
「ちょっ、ちょっと待って。いくらなんでも、離婚してすぐに再婚って……」
「法的に問題はない。約束は守る。けれど、俺はこれからも君と一緒に生きていきたいんだ!」
しかし王の宣言に、驚いていた周りの空気が、少しだけ変わってくる。
「王様、頑張れー」
誰が言い出したものなのか。きっと王妃との不仲は国民には有名な話だったのだろう。その王が、今人々の前で、王妃からの離婚に応じて、更に夫婦としてやり直したいと再婚の話を申し込んでいる――――。
「そうだ! 男なら、一回や二回の夫婦喧嘩で諦めるな!」
「俺んちなんか、もう二十年以上、毎日喧嘩をして五回も家出されてるが、子供もできたぞ――!」
飛んでくるヤジに、周りがどっと笑っている。
「王妃様、しっかりー」
「尻に敷いてやり直すなら、今がチャンスだよ!」
年配のご婦人からはありがたい教えが飛んでくるが、正直これだけの人の前で、離婚と再婚の話がいっぺんに出てきたせいで、イーリスの頭はパニック状態だ。
顔を青くしたり、赤くしたりしているイーリスを、リーンハルトはアイスブルーの瞳でまっすぐに見つめてくる。
だが、さすがに急すぎて、なんて返事をしたらよいのかわからない。
「あ、あの返事は、また改めて――」
「イーリス!」
どうしたらよいのかわからなくて、先ほどまでオレンジジュースを待っていた人の列がある方に逃げようとした。女性や子供、それに壊血病にかかりだしているのか、手に包帯をまいている人もみえる。きっとオレンジジュースを待っていてくれるのだろうが、今はとても平静にもう一度配れる気分ではない。
急いで人混みを抜けて、気持ちを落ち着かせようと思ったのに、逃げだそうとした体は、急に後ろから強く腕を引っ張られた。
「イーリス!」
「えっ!?」
まさか、強引に返事を聞くつもりなのだろうか――――。と思ったが、振り返るのより早くにリーンハルトの胸へ抱き寄せられる。そのすぐ後だった。今までイーリスが歩いていた人混みの隙間から、まるで飛ぶように短剣が突き出されたのは。




