第23話 第二の課題
黒い瞳で微笑む陽菜の前に、背筋を伸ばして立つ。イーリスの鋭い金の瞳と、陽菜の視線が正面から絡みあった時、不意に後ろから声がした。
「ああ。もう御両名ともおそろいでしたね?」
柔らかな声音に振り返ると、マリウス神教官が濃い緑の聖典を抱えながら、さっきまでイーリスがいた扉からゆっくりと入ってくる。身につけているのは、昨日と同じ黄色い神官服。体をしめつけないように作られた神衣は、ゆったりとしていて、マリウス神教官の穏やかな動きをひどく優雅に見せている。
そのままマリウス神教官は、机の前に立ち、イーリスと陽菜。そして二人から少し離れたリーンハルトの前にも行き立つと、厳かに神の印を手で切った。
「この地を作りし、ミュラー神の偉大なお力をもって、これより試練を受けます聖女の方々に祝福を」
(偉大なら、そもそも試練を受けるような事態を起こさないでよ!)
心の中で叫ぶが、マリウス神教官は落ち着いた笑みだ。
「では、今日はこれより聖姫試験として、第八代聖女志野様の偉業を再現していただこうと思います! 課題は異世界の料理です!」
(やっぱり!)
館のメイド達がいそいそと持ってくるエプロンに、心の中でげんなりとしてしまう。
「聖女志野様は、我が国の食べ物の味付けが単調であることを嘆かれ、異世界の様々な調理法を伝えたと記されています。また、当時は調味料が未開発だったため、我が国の食べ物は塩か胡椒、もしくは素材の味を重視した食べ物がほとんどでした。けれど、そこに志野様が異世界の味に似せて作られた調味料が加わり、我が国の食文化は大いに発展したといわれております」
「ああ……だから、シチューもあったのね……」
ひょっとしたらと思っていたが、やはり過去に向こうの世界から伝わってきたものだったらしい。
(たって、あまりにもそっくりだったもの!)
「おお、シチューを食べられましたか! あれで我が国の庶民の味は劇的に変わりました。なにしろ、牛乳からも様々な調味料が作れるということがわかったのですから!」
つまり、志野はおそらく調理師。それも名前と時代からして、江戸後期から昭和までの間のうまれなのだろう。
(だったら、これまでの聖女の奇跡って一体なんなのよ!?)
異文化交流? その中心となる存在が聖女ということなのだろうか。
「ああ、なるほど。そういうことなら、私でもなにか奇跡を起こせるかも」
隣で陽菜も奇跡の正体に気がついたようで、ぱんと両手を打ち合わせている。
(私だって起こせるわよ! 異世界の城郭再現とか、新撰組の創設とか!)
いや、違う。どう考えても、奇跡と言われるにはなにかが足りないような気がする。
(つまり、もっと市民の側にたって生活を変えるものなのよね?)
頭の中を漁ったが、さすがにすぐには思いつかない。
(せめて、仕事でパンとかケーキ屋とか、なにか特殊な技能を身につけていれば……)
今になって、休日の多さだけで、デスクワークを選んだ自分が悔やまれる。
「いつか陽菜様も奇跡を起こされるのを楽しみにしております。では、どうぞ。隣の厨房に材料の用意をしてありますので」
マリウス神教官の言葉で、そこにいたみんなは細い通路で続く隣の厨房へと移動していく。
入った厨房では、白い壁にいくつもの銅鍋がかけられ、入ってくる朝の日差しに輝いていた。大中小どころではない。壁にかかっている鍋だけでも、二十はあるだろうか。それだけ普段使われているという証に、朝日の中で、鍋はエナメル色に磨きこまれて鈍い光を放っている。
部屋の中央には、十人ぐらいが一度にパンをこねられそうな大きな台が、二つ。茶色いその上には、今日の課題だろうと思われる食材が並んでいる。
けれど、台に置かれている食材を見た瞬間、イーリスは雷に打たれたように固まってしまった。
「えっ……これは!」
「はい。乾燥野菜です。こちらのシュレイバン地方は、二年続きの冷害で、野菜が高騰しているため、庶民は遠くから運ばれてくるこれらの乾燥野菜を使って生活をしています。ですので、今回はぜひこれを用いて、異世界の奇跡を再現していただきたいのです」
「これ限定で!?」
咄嗟に振り返ってしまうが、陽菜は机の上に綺麗に並べられた干し人参や、からからになった玉葱のみじん切りを興味深そうに見つめている。
「ふうん。久しぶり」
そしてにっこりと笑う。
「乾燥野菜は、ついこの間ブームになったから、自分でも網で作ってみたのよね。お蔭で、使った料理にたくさんいいねをもらえたから。これならなんとかなるかもー」
まるで歌うように、陽菜はからからに乾いた野菜を白い手にとって吟味している。しかし、イーリスにしてみれば、普通の野菜でも料理など数種類しか作れない。
(だって、前世で死んだのは一人暮らしを始めた直後だったから! それに、最近はコンビニやスーパーのお惣菜も豊富で!)
つまり、作る必要をあまり感じなかった。いつか好きな人ができて、手料理でも作りたいと思えば覚える必要もあったが、それまでは自分の好きな料理さえ作れれば、特に困ることもなかったのだ。
(でも、これ限定となると……)
さすがに、難しい。明るい厨房に立ったまま乾いた人参を眺めて、眉を寄せているイーリスの様子に気がついたのだろう。鍋がかかっている壁の近くにいたリーンハルトが、心配そうな眼差しで、エプロンをつけたイーリスを見つめている。
(なによ! 心配するのなら、陽菜の心配をしてあげなさいよ!)
それとも、本音では、やはりリーンハルトも別れたいから心配しているのか。
(絶対に負けてなんかやらないんだから!)
心の中ではあっかんべーをするが、手元に並ぶ乾いた玉葱やキャベツを見れば、やはり使ったことのない食材では、自分には不利だ。
(なにか、自分でも作れそうな料理は――)
ヒントを探すように、木の台の端に並べてある調味料の瓶を見回す。
その内の一本。ひどく細い瓶に、まるで炭から作ったように黒い色をしたものが入っているではないか。
「これは?」
「あ、それは……。聖女志野様が伝えられた発酵した大豆に貝を合わせて作られた調味料なのですが、こちらでは、あまり使われなくて……」
「貝?」
焦るメイドの言葉に、イーリスは顔をしかめた。
「ええ。甘いけれど辛いのです。野菜との相性は悪くないのですが、色がかなり濃いので……」
今では使う者があまりおらず、ソースとしてしか使われていないとメイドは焦りながら答えている。
貝と大豆から作られる調味料。そして、濃い色。
聞いた言葉に、イーリスはぽんと蓋を開けると、手のひらに少しだけその黒い液体を垂らしてみた。
ちょんと指先につけて、舐めてみる。
「なるほどね」
(ビンゴ! やっぱり正体はこれだったわね!)
これならば、負けはしない――――だから、イーリスは隣でエプロンをつけてもう野菜を選び始めた陽菜を見ながら、不敵な笑みを浮かべた。