第21話 オタクの教祖
次の日、イーリスは空色のドレスに着替えると、ぱあんと両手で頬を叩いた。
(さあ、戦闘開始よ!)
昨日は、無様に陽菜にやられたが、そうそう負けてばかりはいられない。
(大丈夫! 試験はあと二回! だったら、その両方に勝てば良いだけなのだから!)
鏡の自分に向かって叱咤をすると、「うん」と両手の拳を大きく握りしめる。
「イーリス様! 頑張ってきてください!」
「ええ。今日こそは勝ってくるわ」
コリンナの声援に自分へ喝を入れて、部屋の白い扉を開けたのに。どうしたことだろう。開けた先には、なぜか身支度を調えたリーンハルトが立っているではないか。
「そろそろか。予想より、少し早かったな」
「リーンハルト!? どうして、ここにいるのよ!」
(まさか昨日の喧嘩を恨みに思って? だから、朝一番で怒鳴りつけようと思って待ち構えていたのかしら?)
それなら、そんなのでわざわざ朝から気分を悪くする必要もない。
お生憎様と舌を出す用意をしたのに、なぜかリーンハルトは踵を返すと、イーリスの前に立って歩き始めたではないか。
「試験時間より、少し早くに部屋を出たが、どこかに寄るつもりだったのか?」
「あ――ええ。医務室に」
「医務室?」
イーリスが答えた単語が意外だったのだろう。灰色の廊下を一歩だけ前に出て歩いていたリーンハルトが、驚いたように振り返ってイーリスの側に並ぶ。
「矢を射られた時に、道案内をしてくれていた女の子が巻き添えになって怪我をしたのよ。矢傷だけではなく、変な症状も出ているから、医者に診てもらっているのだけれど」
「なるほど――なにかの病気というのなら、放ってはおけないな」
(アンナは確かに放置できないけれど、私のことは放っておいてくれないかしら?」
思わずぴくっと唇の端がひきつる。
(だいたい、なんなのよ!? 昨日、あれだけ大喧嘩をしたあとだというのに!! それとも、まさかあれは、私との日常的なコミュニケーションにすぎないとか思っているわけ?)
まさか――とは思うが、なにしろどれだけ喧嘩をした翌日でも、絶対に朝食の席にはイーリスの側に来ていた相手だ。
(さすがに、ここに来てから朝食を一緒にするのは、私が拒んでいるけれど……)
ひょっとしたら、習慣で朝一に合戦を繰り広げないと目が覚めない体質になってしまったのかもしれない。
(だったら、なにもこんなエスコートじみた真似をしなくても、すぐにその脛を蹴り飛ばしてやるのに!)
だから、いつ開戦しようと後ろから銀色の頭を思い切り睨みつけてしまう。それなのに、こつこつと静かに歩いていたリーンハルトは、二階にある茶色の扉の前まで行き足を止めた。
「ここだろう?」
「え? ええ」
(なんで知っているのかしら? リーンハルトも、この館にはこの間来たばかりなのに)
まるで、イーリスが用事があるとしたら、この部屋だと知っていたような口振りだ。
(気持ち悪い……)
とは思うが、口には出せない。
(まさか、ずっと人の行動を見ていたのかしら?)
さすがにない――と思うのに、あながち間違ってもいないような気もして、引きつりながらかちゃりと扉を開いた。
そして、思わずぽかんと口を開けてしまう。
「あ、ほらほら! また思いついたわ! 逃げる公爵夫人様に追いかけていく王が囁く愛の言葉!」
入った瞬間、響いた声に思わず絶句をしてしまう。けれど、更に驚いたのは部屋の中に舞っている白い紙の束だった。
「すみません……退屈なようだったので、お絵かきでもするようにと、白い紙とインクを渡したのですが」
「ツェルガー医師」
近寄ってきたまだ若い医師は、困ったようにイーリスの前で頭を下げている。
「それがまさかあのような物を書き出すとは……ですが、暇つぶしの妄想なので、どうか許してやっていただきたく……」
「許すって、なにを?」
すると、白いベッドに散らばっていた一枚を何気なく取り上げたリーンハルトの顔が、ぼんと火を噴いた。白かった顔が、まるで今、急に茹でられたかのように、真っ赤になってしまっている。
「リーンハルト?」
その様を不思議に思って、近づいた隣から強引に手の中の紙を覗き込めば、そこには雨に全身を濡らした金髪の令嬢を抱きしめている王の姿が綴られているではないか。
体の線を浮き上がらせるほどの、冬の冷たい雨。体にはりつくほど濡れた二人の髪はまるで心が泣くように、冷たい雨の雫をこぼしている。髪越しに触れ合う二人の冷えた頬の体温。そして、狂おしいように令嬢の体をかき抱きながら、王が囁くのだ。
「どうして――あなたのこの体は、全て俺のものだったはずなのに……」
読んだ瞬間、ぽんとイーリスの顔からも炎が噴き上がった。
「なによ、これは――!」
(この子、まさか遂に『公爵令嬢の恋人』の薄い本を作り出すとは――!)
オタクの力侮れず。けれど、側に立つリーンハルトの顔は、更に真っ赤だ。
「あ、あのこれは一体――どうして、俺が君と」
面白い。とは思うが、相手が自分だと勘違いしているのには、腹が立つ。なにしろ、ここに書かれている公爵令嬢の姿は、金の髪の女性。それだけなのだ。
「違うわよ」
思わず半眼になりながら告げた。
「え?」
「これは、大人気小説『公爵令嬢の恋人』の二次創作物よ」
「二次……? え?」
きっとこちらにはない言葉なのだろう。
二次創作物はわからなくても、さすがに『公爵令嬢の恋人』は知っていたらしい。
「しかし……あれは神官とで、王にこんなシーンは」
「だから、創作! この子は神官様ともいいけれど、王が令嬢を追ってくる設定も大好きなの」
言いながら、リーンハルトの手から紙を取り上げてベッドの方を見れば、声で気がついたのか。明るい瞳で顔をあげたアンナが、見つけたイーリスに向かって笑いかけてくる。
「見てください! 昨日、公爵夫人のお話を伺ってから、こんなに読んでみたいシーンが溢れ出てきて!」
どうやら、間違いなく薄い本のようだ。
(まさか、この子。ついに、こちらの世界に薄い本を誕生させてしまうとは――――)
今はまだ書き散らした状態だが、これを一つにまとめれば、きっとファンには垂涎の本となるだろう。なにしろ、読者の萌えと情熱がつまった王×令嬢推し本なのだから。
だけど、これだけ元気があるのならば今は安心だろう。
「その様子なら、元気なようね?」
「ええ。腕の痛みも昨日よりひいてきましたし。もう大丈夫ですよ――」
とは笑っているが、顔色はひどく白い。
「本当に? どこか具合が悪いところとか?」
「いいえ、どこも。たまに硬いものを食べたのか、歯茎から血が出ますけど。ただ――――」
急に、アンナの顔がひどく真面目になった。そして、白い清潔な室内を見回す。
「この部屋、なんだかひどく臭くないですか?」
「臭い? そう?」
「ええ。なんだが、物が腐っていくような――」
言われて鼻を動かしてみれば、確かに部屋の中に微かな異臭がする。
(こんなに清潔で、掃除も行き届いた部屋なのに、どうして――)
どこからだろうと、匂いがしてくる方に顔を動かして気がついた。
(違う! 匂いは、この子からだわ!)
それによく見れば、ハイテンションではあるが、目は昨日よりもどこかうつろだ。
「ツェルガー医師」
慌てて、そっと側にいる医師に近づいて尋ねた。
「いつから、この匂いが?」
「昨日の夜からです。体を拭いてやったのですが、とれなくて。さすがにおかしいと思って仲間の医者に尋ねたら、ほかにも同じような症状を出している患者が一人いるそうです」
「そう――。一人」
疫病と判断するには、あまりにも微妙な数字だ。
だからリーンハルトを振り返った。
「この子は、本当は腕の怪我だけだったのだけど、なぜか奇妙な症状が出ているの。ひょっとしたら、未知の病かもしれなくて――――」
「疫病――という、可能性も捨てきれないということか……」
ふむと頷くアイスブルーの瞳に、ゆっくりと思案の色が浮かぶ。
「だが、まだ患者が二人ではなにも判断できん。念のため、同じ症状が出た者も、ここに隔離させて様子をみよう」
「それがいいわ」
頷くと、すぐにリーンハルトは扉に近づき、外で待っていた自分の侍従に手配をするように命じている。
「じゃあ、また来るわね?」
今の話を気取られないように、イーリスもできるだけ無邪気な笑みを浮かべてアンナの髪を撫でた。
「はいっ! 今度公爵夫人が来られるまでに、このお話は完成させておきますから」
(やはり、我が国のオタク教祖の誕生だ――!)
これが歴史的に偉大な瞬間なのかどうかはわからない。
少し引きつるが、手を振って外に出ると、リーンハルトはまだ扉のところで待っていた。
そして、試験会場に向かおうとするイーリスの側になぜか並んで歩き出す。
「ちょっと! どうして、私と一緒に行くのよ?」
(陽菜に誤解されたらどうするの!?)
今日の試験の結果がどうであれ、リーンハルトとは、きっぱりと別れるつもりなのだ。だから思い切り睨みつけたのに、リーンハルトは銀色の髪をさらりと流すと、並んだイーリスに目を向けた。
「どうせ同じ場所だろう? それに、俺が側についていれば、誰であろうと君に変なことはできん」
「え……、それってまさか」
(私を心配して?)
側で守ってくれているの? とは思うが、赤くなりそうな頬を慌てて両手で打つ。
(ううん! そんなはずはないから!)
きっとリーンハルトにしてみれば、王である自分が近くにいるのに、王妃の名前をまだ持つイーリスが、側で暗殺されるのが許せないだけなのだろう。
(そうよ! 私達の間に、愛なんてないんだから!)
こんな言葉で振り回されてはだめと、イーリスは頭を振った。