第126話 ガルデンからの出発⑧
――まさか……!
フレデリング王子を見つめながら、リーンハルトの喉がごくりと嫌な音を立てる。咄嗟に、横目で側に立つイーリスを見つめた。フレデリング王子の言葉に気がつかれないように、目の動きでだけだが、なぜかそのイーリスの姿にいつもと少し違うような奇妙な感じがする。
(まさか……!)
「フレデリング王子、それは……。急すぎる話だ。もう少し詳しく訊けないだろうか」
フレデリング王子が、なぜわざわざこんな暗号のような方法を用いたのかはわからない。だが、ガルデンの砦ならば、なにかの方法で王子を監視しているのかもしれない。
そう考えて、リーンハルトも敢えて直接的な言葉は避けて、あくまで王子の申し出に対しての答えのように装いながら尋ねた。しかし、その申し出に、フレデリング王子は左右に首を振る。
「これ以上は話せるようなことではないんだ。私も照れくさいからね。長年の婚約者との別れを家族や義弟に見られるのは――。だから、恥ずかしくて、詳しいことは言えないのだけれど……」
(脅されているのか?)
おそらく今の言葉の真意は、「言えない」という点だ。ここは、国境近くとはいえ、まだガルデンの内部で、しかも砦だ。
(もしそうだとしたら――)
ごくりと息を呑みながら、側にいたイーリスを眺めた。
金色の髪に、金色の瞳。幼い頃から見慣れた容貌そのものなのに、見つめればなにかが感覚の中で引っかかる。
はっきりと言葉にならないものを探すように、イーリスの全身を見つめた。
顔、胴体、足、そして端にある両手へと移動したときに、そこに見慣れたものがないことに気づく。
「――いつもつけている指輪は……」
リーンハルトが贈ってから、イーリスは毎日欠かさずそれを左手の薬指にはめていてくれた。時々嬉しそうに見つめ、そっと右手の指でリーンハルトが贈ったものに優しく触れている様は、イーリスが言葉には出さない自分への気持ちを表しているようで、見るたびに心が温かくなったというのに――。
今日は空の白い薬指を見つめ、怪訝そうに尋ねると、目の前に立つイーリスは、思い出したように「ああ」と笑った。
「この指輪ね。先ほど落としたときに、石の隙間に挟まったから、嵌めるところが少し傷んでしまったのよ。だから、なくさないように鎖につけて持っていたの」
そういうと、袖に隠れていた腕に、鎖を通してブレスレットのようにしてつけていた指輪を見せる。
「そうか、どれくらい傷んだか見せてくれるか?」
手のひらを差し出しながら尋ねれば、イーリスは鎖のついた指輪をちゃらりと渡す。見れば、指輪は本当に一部がへしゃげてしまっている。石のデザインの部分は、幸い無事なようだが、指に嵌めるリングの部分が、まるで上から踵で踏んだか石を叩きつけられたかのようにへこんでしまっているのだ。
(まさか、指に入らなかったから、疑われないように潰したのか?)
直せば、当然今のサイズに合わせることになる。指のサイズが変わるのなんて珍しくもないから、誰も疑問には思わないだろうが。
(そのため、指輪を壊したのか?)
もしも偽物ならば、どんなにそっくりでも別の体なのだ。似ていても、細かな違いがあるのはおかしくない。
そう思い、指輪からイーリスの顔に眼差しを移した途端、今まで抱いていた奇妙な感覚の正体がわかった。
(そうか! わずかだが、いつもと目線の位置が違うんだ!)
測れば一センチもないぐらいだろう。いや、実際にはほんの五ミリ程度のものかもしれない。相手の眼球を捉える時のわずかな角度の違いだが、そのほんの一瞬の差を脳が敏感に感じていたのだ。
だとしたら――。
ごくりと息を呑みながら、イーリスの顔を見つめる。
(やはり、このイーリスは偽物なのか!?)
イーリスの詳細な身長を把握しているのは、おそらく王妃宮の管理官ぐらいだ。
ドレスを仕立てるときのために記録をつけているはずだが、前に測ってからの期間がわからないうえに、数ミリ程度ならば、前回測り間違えていたと言い張られる可能性もある。
グッと壊れた指輪を握り締めた。
「わかった。これは、俺が買った店で修理をするように手配をしておく」
そう告げると、人形のように硬質な輝きを頬に宿したイーリスの姿から背を向ける。
「リーンハルトが頼んでくれるの? では、急いでリエンラインに帰りましょう?」
「それについては、騎士団長たちと相談をしてからだ」
ただ、それだけを言い捨てると、急いで部屋を出た。
扉を出て曲がった時に一瞬後ろのフレデリングの顔が目に入ったが、その唇は硬く引き結ばれて、イーリスと同じ金色の瞳で訴えるようにこちらを見つめている。
その瞳に視線だけ交わし、すぐに石造りの廊下に出た。歩き始めると、護衛とリーンハルトの侍従が急いで追いついてくる。
「陛下、どうかされたのですか?」
幼い頃から仕えてくれている男だ。二十台半ばのその顔をちらりと見つめ、護衛の騎士たち以外には人が周囲にいないのを確認してから、リーンハルトは尋ねた。
「ウィルソン。俺の誕生日にお前が用意しようとして止めた花を覚えているか?」
「はい? たしか、毎年あらゆる種類の花をもらわれているので、今年は除虫菊の苗にしようとしましたが……。それがなにか?」
「その壊滅的なセンスをすぐに言えるあたり、間違いなくお前だな」
首を捻っている姿に一瞬だけ苦い顔で呟くと、すぐに顔を寄せる。
「イーリスを監視しろ。天幕で、騎士たちに何重にも見張らせて、決して一人にはするな」
頬に息がかかるほどの距離で、彼にしか聞こえないように囁く。すると、一瞬でウィルソンの表情が変化をした。
「え、それはなぜ? いったい、どうして……」
「偽物の可能性がある」
そう幼い頃から側にいるウィルソンだけに聞こえる声で告げると、一瞬で相手の顔が強張る。
「そして、すぐに騎士団長を俺の天幕に呼び寄せろ」
「はっ」
そう命じると、短い返事ですぐに動いていく。
そのままリーンハルトは、急いでリエンラインの天幕へと戻った。砦とは離れている場所にある天幕の入り口をくぐると、侍従の連絡でやってきた騎士団長に指示をくだす。
「今すぐ騎士たちに、砦にいるガルデンの者たちの動きを密かに調べさせろ!」
「陛下?」
さすがに突然で驚いたのだろう。騎士団長がなにがあったのかと驚いて尋ねてくるが、もしもフレデリング王子が脅されているのならば、迂闊に口に出すわけにはいかない。
(だが、もしも、イーリスをすり替えたのならば、本物がどこかにいるはずだ……)
この砦の中か、それとも別の場所か。
(ジールフィリッド王は、イーリスに普通ではない執着を見せていた。そして、ガルデンの砦でイーリスが偽物に変えられたとしたら、彼が今回背後にいる可能性がある――)
だとしたら、リエンラインに奪い返されないように、できるだけ早くに手を打つだろう。
ぎりっと手を握り締める。
砦からまだ誰も出ていなければ、ここのどこかにいる可能性が高い。だが、もしも既に動いていれば――。
じっとりと報告を待つ拳に汗が滲む。思い出して、急いでイーリスに繋がっているはずの通信装置を動かしてみた。しかし、反応がない。
(ダメだ、応答がない――!)
今、イーリスの手元にはないのか。
(もしも、今ここにいるのが本物ならば、持っていてもおかしくはないのに)
本物のイーリスは、どこにいるのか。
(再度フレデリング王子に訊くか?)
だが、王子のあの様子。もしフレデリング王子が、捕らわれたイーリスの命や、家族のことで脅されているのならば、簡単には話さないだろう。
(周囲に、リエンラインの者しかいない状況なのに、警戒をしていた。それは、どこかから情報が漏れているか。もしくはここがガルデンの砦だから、何者かに聞かれている可能性があるということだ……)
ぐっと手を強く握り締める。
(本当にイーリスが攫われたのか? だとしたら、本物はどこに……)
心の中で自問する。だが、自分の脳は、先ほど側にいたのはイーリスではないと囁き続けている。
本当は、トロメンの城で実行するつもりだったのかもしれない。
当初の計画では、フレデリング王子を婚約者に会わせる理由で一行を引き留め、イーリスを偽物と変えたら、リエンラインの国境に爆発を起こして、慌てて帰国させるつもりだったのだろう。だが、リーンハルトが、ティアゼル姫と会う場所を突然こちらに指定したので、計画の変更を余儀なくされたのだ。そのため、急遽国境の街で爆発を起こして、こちらを動揺させ、その隙にイーリスを偽物と変えたのだろう。そして、その爆発でリーンハルトを帰国させ、フレデリングをガルデンに残させて引き留めることを狙ったのだろうが、突然の計画変更で穴ができ、イーリスが偽物になったことをフレデリング王子に知られた――こう考えれば、すべてが腑に落ちる。
焦燥感の中で、じりじりと時間ばかりが過ぎていく。
机にあったガルデンとリエンラインの国境付近の地図に目を落とし続ける。腕を組んで考え続けていると、しばらくして、外から騎士の一人が駆け込んできた。
「陛下! 周囲の騎士たちに聞き回ったところ、少し前に砦の裏口からの道を仕入れの馬車が下りていったそうです。すれ違った騎士たちが尋ねたところ、ガルデン王のご息女の婚約者とリエンラインの王族たちが突然滞在されることになったので、トロメン城にもう少し良い肉や野菜を補給しにいくということだったそうですが……」
(やられた!)
報告を聞いた瞬間、脳裏に咄嗟にその言葉が浮かんだ。
おそらく、その馬車にイーリスを乗せていたのだろう。そして、偽物が現れて、イーリスが攫われたことに気づかれないうちに、ガルデン王のいるトロメン城へと本物のイーリスを連れ去ったのだ。
聞いた瞬間、思わずだんと拳を、板を組み合わせて作られた簡易テーブルへと叩きつけた。
「よくも……!」
心の中から、黒い感情が湧き起こってくる。
「陛下?」
報告に来た騎士が不思議そうな顔をしているが、まだイーリスが攫われたと断定できたわけではない。
(だめだ……。助けに行くのにも、あまりにも根拠がなさ過ぎる……)
まだ偽物だと確定できたわけではないのだ。それに、今から走っても、おそらくその馬車には追いつけない。
わずかな違いを感じるとはいえ、見た目は完璧なイーリスがここにいる以上、トロメンへ軍を率いて助けに行こうとすれば、先ずここにいるイーリスが、本当に偽物かどうかを確かめるべきだという意見が大勢を占めるだろう。
(そんなことをしている間に、イーリスがジールフィリッド王の元でどんな目に遭うか……)
そんなことに費やしている時間はない。
それに、わずかな目線の差以外、見た目はほぼ同じなのだ。記憶で証明しようとしても、「覚えていない」と言い張られれば、長期戦になる。ましてや、偽物だと暴いても、ガルデンとの関わりの証拠がない以上、その女が勝手にやったことだとジールフィリッド王に言い張られたら、どうしようもない。
(だとしたら――)
すっと伏せていた銀色の睫を上げた。
今、この状況で考えられる方法は、これしかない。
(この状況を逆手に取り、ガルデン王に反撃する――!)
そう決意すると、リーンハルトは俯せていた顔を真っ直ぐに上げて立った。そして、宣言をする。
「ただちにリエンラインに戻る! すぐに将たちに触れを出せ!」