第2話 これって浮気?
今から考えれば、そもそもこの結婚自体がお互いの意志ではなかった。
イーリスは、北方にあったルフニルツ王国の一番目の姫だが、この世界に生まれる前は、日本の海の側にある街に住んでいた。
夏には、白い雲が緑の尾根にかかる六甲山。南側に開けた海は太陽の光に輝いて、通学のために坂をのぼって見る度に感嘆したのを覚えている。
普通の家庭で育った普通のOL。それが前世のイーリスだった。
ただ、一つ。歴女ということを除いては!
(だって、仕方がないじゃない!? 京都に行って、新撰組にはまったんだから!)
土方ファンの友達に誘われて、行った京都の幕末巡り。池田屋、壬生浪士達の八木邸と訪ねて、最後に行った二条城で完全に歴史に圧倒された。
そこで行われたという大政奉還。そして、更に調べていく内に作ったのは家康だと知り、歴史にはまった。
中学時代は、新撰組。更に家康から戦国時代に興味を持ち、高校時代には歴史建造物や各武将の治世とはまりまくり、働くようになってからは、休日の度に、寺社仏閣を巡る立派な歴女が完成していた。
(だから、事故にあってこの世界に転生してからも、こっちの歴史や歴代の王の治世に興味を持ちまくったのだけど――――)
北方の小国で楽しんでいた自分のそんな行動が、まさかこの大陸で最大の領土を持つリエンラインにまで届くとは思わなかった。
異世界の記憶を持つ聖女――――。それを代々崇め、王家に取り込むことで勢力を築いてきたリエンライン王国は、イーリスの話を聞いて、恫喝さながらの婚姻の申し込みをしてきたらしい。
曰く、北方の小国が他国から身を守るために力を貸してやるから、娘を王太子の妃に差し出せと―――。
はあ、とイーリスは最近つくことが多くなった溜息を思わずこぼしてしまった。
(体の良い脅迫だわ)
かつんかつんと、滑らかな床に高い踵を鳴らしてイーリスは歩く。
(だけど、私の生国ももう北方のガルデン国に滅ぼされたし、新しい聖女が来た今となっては、この婚姻を維持する必要はないのに――――)
扉の側にいたメイドがきいっと金のドアノブを回す。
(どうして、この人は毎朝私と一緒に朝食を食べにくるのかしら?)
今日も同じように奥の白い椅子に座っている人物に、思わずイーリスの金の瞳がすっと細くなってしまう。
冬だから窓は開けられていないが、それでもこぼれてくる朝の日差しに銀の髪を輝かせて座っているリーンハルトは、まるで積もったばかりの雪が輝くような美しさだ。
さらさらと流れる髪は美しく、伏せられたアイスブルーの瞳と合わさって、まるで雪の中にひっそりとたたずむ湖を見つめているような気分になる。
けれど、扉が開いたことに気がついたのだろう。薄氷色の瞳が、イーリスへと持ち上げられた。
「遅かったな。何をしていた?」
「いえ、別に」
にこっと笑って誤魔化すが、内心では苦笑する。
(まさか、あなたが一日も欠かさずに私のところに足を運ぶのが謎で考えこんでいた、なんてさすがに言えないわよね?)
言えば、必ず怒られる。夫婦での朝食は、王室の慣例だから律儀に守っているだけなのかもしれないが、それを不思議に思ったぐらいで朝から怒られては藪蛇だ。
だから、イーリスは給仕が下げてくれた椅子に腰を下ろすと、そのまま気づかれないようにリーンハルトを見つめた。
朝日の中に、銀色の髪が目映く輝く。さらさらという音が聞こえてきそうな空間で、アイスブルーの瞳が瞬く様はまるで夢の世界のようだ。
(ほら? 天は二物をあたえずって言うじゃない?)
だから、人より顔が良い分反比例して性格は諦めろということなのかもしれない。
(まあ、私の推しは山南敬助や豊臣秀吉で、西洋系ではないんだけれど)
しかし、今までに見た世界史に残る人物の肖像画と比べても綺麗な顔だろう。
(うんうん。だから、長所が全部顔に回って、性格の分が減ってしまったのは人間だから仕方がないと思うの)
人は誰でも完璧ではない。
(――とはいえ、この顔でなかったら、とっくに愛想をつかしていたのに!)
とは、口が裂けても言えない本心だ。
けれど、ずっと眺めているイーリスの視線に、僅かにリーンハルトが身じろいだ。
「何を……見ている?」
「え?」
(あ、しまった! ついいつもの癖で、見惚れてしまっていたわ!)
いつもは機嫌が悪くならないように、こっそりと観賞しているのに。けれど、怒ると思ったリーンハルトは、今日はこほんと咳払いをしただけだ。
(あれ? 今日は機嫌がいいのかしら?)
ひょっとしたらなにか良いことがあったのかもしれない。よく見れば、頬は赤くなって、僅かにだが表情も緩んでいる。
(本当に! 動かなくて喋らなかったら、童話の中の精霊みたいなのに!)
どうして、動いて喋ってしまうのか。
このまま黙っていてと願うのに、リーンハルトの唇はゆっくりと動いていく。
「昨日は――ご苦労だった」
「え?」
まさか今ねぎらったのだろうか? ぱちぱちと瞬くと同時に、背中に汗が溢れてくる。
(本当に何があったの、昨日!?)
それとも今から何か大災害でも起こる前触れなのか。だったら、急いで対策を練らないとと考えた時だった。
「昨日あの後、隣国の特使が持ってくる関税率が、こちらで事前に考えていたものと大きく違うらしいという話を聞いた。だから、急いで関係部署に対策を纏めて今日中には出すようにしてくれたことに礼を言う」
「えっ? ええっ!?」
(――まさか、リーンハルトがお礼を言うなんて!)
完全に天変地異かと焦ってしまうが、どうやらよく見れば昨夜怒った直後だから体裁が悪いらしい。
どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている様子を見ると、逆になんだか微笑ましくなってしまう。
だから、笑顔でリーンハルトを見つめた。
「いいのよ! 私がしたのは、纏める指示だけだし。それに、舞踏会の合間にリーンハルトに知らせようとした私も悪かったの」
少しだけほっとしたようにこちらを見つめる瞳に、更に嬉しくなってしまう。
「それにギイトも急いで関係部署への連絡に走ってくれたから。だから、彼のお蔭もあって早くに色んなところへ連絡がついて」
けれど、ギイトの名前を出した途端、急に王の眉がぴくりと持ちあがった。
「随分と――、あの神官と仲がいいな?」
「それは、彼は私がこの国に来た時からの補佐役だ……し……」
(あれ?)
なぜか急に王を取り巻く空気が変わった気がする。さっきまでは少し決まりが悪そうだったのに、今は眉がきりりと上がり、口元にはひどく冷たい笑みを刷いているではないか。
(これはまずい!)
咄嗟に頭の中で、緊急警報が鳴り響いた。
(とにかく、急いで話題を変えないと――!)
折角久しぶりに和やかな空気だったのに。ギイトのことはスルーして、急いで仕事の話に戻す。
「そ、そういえばさっきの関税の話だけど、リーンハルトはどうするつもり? 隣国のプロシアンは、こちらが事前に送っていた大使から聞いた話よりも低い関税で、銀細工の交易交渉をしたいみたいだけど」
「ふん。我が国のシュレイバン地方が冷害で大変なのをよいことに、足下をみおって……プロシアンからの麦の輸入を少し増やしたからといって、そんな話に乗れるはずがないだろう」
「リーンハルト。私も最初に聞いた時は、そう思ったの」
確かに相手が望んでいる関税は、これまでに比べれば安すぎる。だから、メイドが並べてくれた皿に、フォークを伸ばしながら会話を続ける。
「でも、よく考えてみたら好機だとも思うの」
「好機?」
怪訝そうに、リーンハルトのアイスブルーの瞳が寄せられる。
だから、イーリスはこくんと頷いて笑った。
「ええ! 幸い、相手は長年の我が国の同盟国だもの。だから、これを切っ掛けに二国間の関税をなくして、交易をさかんにするの!」
昔から、商売は自由なほど盛んになる。信長の楽市楽座しかり、現代のヨーロッパなどが良い例だ。
「もちろん、すぐにとはいかないと思うけれど、段階を踏んですれば、きっと結果を伴ってくれるわ。そうすれば、もし我が国が不作となった時でも、プロシアンから安く麦を買うことができるし!」
野菜や隣国の特産物も安くで入り、人の往来も活発になるだろう。それに、互いの文物が行き交うようになれば、経済だけではなく、新しい文化が生まれる下地もできる。
だから、目を輝かせて言ったのに、イーリスが両手を夢見るように組んだ途端、だんと机が打ち鳴らされた。
「馬鹿な! そんなことをすれば、我が国の銀細工に打撃を与える!」
あまりの勢いにまだ机の上に置かれていた皿が小刻みに揺れている。だから、少し驚いてのけぞってしまった背中を、イーリスは必死に支えた。
「た、確かに、一時はそうなるけれど……新しい隣国の文化に触れれば、きっと我が国の銀細工にも良い影響が出ると思うの。それに相手よりも素晴らしい物を作れば、逆にプロシアンへの販路が広がる可能性もあるし」
「それはいつの話だ! 一月後か、半年後か!? まさか一年とは言うまいな!?」
「うーん……」
(本音としては、数年単位……確かに結果が出るまでには、かなりの期間が必要になるだろうけれど……)
「その間は、銀細工などターゲットになった産業に、国の補助制度を作って……」
「話にならん!」
がたんとリーンハルトが席を立った。
「確かに聖女様だ。普通なら考えもつかないことを、よくもそんな簡単に――だが!」
冷たい瞳できっとイーリスを睨みつける。
「俺とは考えが違う。この件で君の助言を仰ぐつもりはない!」
「リーンハルト!?」
けれど、イーリスが止める間もなくリーンハルトは銀の髪を翻して歩き始める。
「待って!」
だから、急いで手を伸ばした。
「お願いだから、もう少しだけ話を――――」
( 折角久しぶりに穏やかな空気だったのに!)
けれども、止めようと追いかけるイーリスの前で、王の背中は側にいた侍従に扉を開けさせると、そのまま廊下へと出て行ってしまう。そして、そこでぴたりと足を止めた。
「あら、陛下」
「陽菜」
どうして、ここにいるのか。しかし、リーンハルトに名前を呼ばれた陽菜は、にこっとまるで春の妖精のような笑みを浮かべている。
「昨夜はありがとうございました。来てくださって、すごく嬉しかったですわ」
(昨夜?)
一体何の話をしているのか。
「ああ」
けれど、少し頷いただけのリーンハルトの腕を、陽菜は無邪気にとる。
「心配していたんですよ? 今朝、お寝坊をされたとひどくベッドで焦っておられましたからね。でも、間に合ったみたいでよかったですわ」
(え?)
ちょっと待て。今、陽菜は何を言ったのか。
(ベッド……朝寝坊って、まさか――!)
けれど、見つめる前でリーンハルトの手をとった陽菜は、イーリスがいるのに気がついてゆっくりと振り返る。そして、まるでねぎらうように笑いかける。
(――まさか、リーンハルトが今日機嫌が良いのは、そういう理由だったからなの?)
昨夜。寝坊。陽菜が口にした単語について考えてみれば、それは全て昨夜陽菜の部屋に行ったリーンハルトが、陽菜の手によって起こされたという意味だ。
(まさか泊まったの!?)
嘘だと思いたいのに、突然の頭を殴られたような事態になんて尋ねたらよいのかわからない。
「リーンハルト……」
たったこれだけを漏らすだけで、口の中はひりつくようだ。
だけど、信じたくはない。だから、尋ねたいのに――。
「今のは……」
どうして言葉にならないのか。
けれど、イーリスが震える指を伸ばした途端、陽菜が長身のリーンハルトに絡めていた腕をぐいっと引いた。バランスを崩したのだろう。驚いたように、リーンハルトの視線がイーリスから陽菜へと戻る。
「ところで陛下! 朝早くから仕事に行かれましたけれど、ちゃんと朝食は食べられました?」
「あ、いや。まだ――」
こんなに驚いたリーンハルトの顔を見るのは、何ヶ月ぶりだろう。腕を取って自分の方に強引に引っ張るという行為は、確かに王であるリーンハルトは今までにされたことはないだろう。しかし、驚きに大きく目を見開いた顔は、それだけ陽菜との距離が近いことを表している。
しかし、ずきっと胸が痛くなったイーリスの前で、陽菜は嬉しそうに微笑む。そしてこけかけて慌てるリーンハルトに顔を寄せた。
「だと思ったんです! だから、厨房に頼んでサンドイッチを作ってもらったので、一緒に食べましょう?」
実は私もまだなのですと、陽菜はリーンハルトの手をとったまま歩き出そうとする。けれど、その背に慌ててイーリスは手を伸ばした。
「待って! 陽菜、今のは一体……!」
信じたくはないのに、確かめなければならないと心が騒ぐ。
(嘘だと言ってほしいのに――!)
きっと誤解なのだと。それなのに、振り返った陽菜は、へらりと笑う。
「嫌だわ、イーリス様。そんなの恥ずかしいじゃないですか? 寝坊の話なんて。だから聞き流してください」
まるで失敗がばれた女子高生の仕草だ。照れくさそうに笑うと、ひらひらと手のひらを振っている。そして、ぐいっとリーンハルトの腕を引きよせる。
「それより陛下! 私、外で食べるのに良いところを見つけたんです! だから、約束通り、たまには私と食べてくださいね」
半ば強引ともいえる仕草だ。
けれどイーリスを見ていた王の視線を再度自分に戻させると、そのまま引きずるように歩き出したではないか。
「お約束でしたでしょ?」
「あ、ああ。まあ――」
(約束って……朝食は、いつも私と一緒に食べていたのに……)
がくんと膝が折れた。
「嘘……よね……」
「イーリス様!?」
離れていたところから慌てて駆け寄ってくる侍女の声が響いたが、それさえもがひどく遠くからのようだ。ただ、遠ざかっていく笑い声が告げる事実に、イーリスは呆然と膝をつくことしかできなかった。