第125話 ガルデンからの出発⑦
「イーリス!?」
聞き慣れた驚いた声が、暗い廊下の向こうから微かに聞こえる。
(お兄……様……?)
だけど、もう体が動かない。頭を殴られたうえに酸素も奪われた体はふらふらとしていて、声を出すことすら思うようにできない。
助けてという言葉と、来てはダメという言葉が、同時に頭の中で明滅する。息ができなくて、目の前がぐらぐらとする。
だが、その間にも近寄ってきた兄は、目の前の光景にびっくりしているようだ。
「イーリスが二人!?」
やっと瞼を、兄の姿が見えるほど開ける。
「お…………にい、さま……」
その声で、兄はとりあえず首を絞められているイーリスを助けなければと思ったのだろう。
「イーリス!」
すぐに駆け寄って、マーリンが化けたイーリスの腕を掴もうとしている。
「なにをしているんだ!?」
その声は、どちらが本物のイーリスか見分けがつかなくて戸惑っているものだ。
だが、間違いなく異常な事態だと悟ったのだろう。
「お前たち、イーリスになにをした!?」
そう叫びながら、マーリンの手をイーリスの喉からはずそうとしている。だが、次の瞬間、兄の動きが止まった。
ぼやける視界を凝らしてみれば、目の前では、今の今までフレデリングの側にいて守っていたはずの騎士が、素早く兄の喉元に短剣を突き付けているではないか。
「なっ……!」
突然の裏切りに、兄の顔が青ざめている。
「あら、騒がないでくださいまし」
その様子にマーリンが、無邪気にイーリスの顔で笑う。
「あまり騒がしくしては、気づかれてしまいますわ。折角うまくいっておりますのに」
「あな…………た、まさ…………」
まさか、ほかにも仲間を――そう言いたいのに、声がうまく出ない。だが、それに気がついたマーリンがやっと首から手を離した。そのまま、イーリスの体は、どさりと床へ倒れ込む。
「ええ、このロジャーという男、リーンハルト様だけではなく仲間からもよほど信用されていましたのね。今朝、そこにいる騎士の本来の顔の持ち主に、食事を渡した時に眠り薬を混ぜ込んだら、あっさりと信じてくださって――」
嬉しそうにもう一人のイーリスが教えるように話している。その無邪気な顔の下で、やっと解放された喉が咳を繰り返す。だが、先に殴られていたせいで、体がうまく動かない。
(そうだわ……、仮面は、二枚あったのよ……)
馬車で、身代わりにして、事故に遭った女性に身につけさせていたと言ったが、その女性の遺体発見時に顔が潰れていたのは、おそらく、仮面を使ったと露見しないように回収してから顔を砕いたからだろう。
そして、もう一枚の仮面を持っている仲間が、マーリンの手引きでリエンラインの内側に入り込み、機会を窺っていたのだ。
だが、兄はまだなにが起こったのかわからない顔をしている。その間に、イーリスの力の入らない体が、誰かに抱えられる気配がした。伝わってくる感じからすると、おそらく騎士だ。視界がぐらぐらとしているため、はっきりとはしないが、あの侍女が忍び寄ってきた時に、ほかの者も近くに連れてきていたのかもしれない。
だが、今の言葉で担がれていくほうが、本当のイーリスだとわかったのだろう。
「お前たち、イーリスになにをする気だ!? それに、お前はイーリスの格好をして一体なにを――」
「あら、たいしたことではありませんわ。ただ、ご家族を無事にリエンラインに行かせて差し上げようと思いまして」
「家族を?」
怪しむフレデリングの声に、ロジャーだったマーリンは作り物めいたイーリスの顔で笑う。
「ええ、それがイーリス様とフレデリング様のお望みだったのでしょう? だから、それを叶えて差し上げようと思いまして」
背後からフレデリングに剣を突き付けさせたまま、マーリンの表情が禍々しく変化をする。
「ですから、リーンハルト様に、ご家族を連れてすぐにリエンラインに戻るように勧めてくださいな。もちろん、フレデリング様とイーリス様はガルデンに留まったままで――」
「お前たち――」
苦々しくフレデリングの顔が変化をした。
「私のみならず、イーリスまでもここにいさせる気か!?」
「ええ、それがジールフィリッド王のお望みなの。安心して、リーンハルト様は代わりに私が一緒に行って、心残りなく別れられるようにして差し上げるから」
(だめ……!)
そう思うのに、言葉が出ない。いや、目がかすんでもう前すらもよく見えなくなってきている。
「そうでないと、捕らえたイーリス様の身がどうなるのかは、保障しかねてよ?」
グッと兄が言葉に詰まる気配がした。
(だめ、だめよ……!)
「逃げ……て……、お、兄……」
そして、リーンハルトに知らせてほしい。もう一人のイーリスは偽物なのだと。
しかし、言葉を最後まで紡ぐことができなかった。いつまでも意識を失うことを拒むイーリスに焦れたのだろう。突然首の上に鋭い手刀が落とされると、すべてが暗闇の向こうへと追いやられていく。
「イーリス!」
「選ぶ権利なんてないわ。妹姫が大切なら――。そして、ご家族が大切ならば、ほかに選ぶ道がないことなんて、おわかりでしょう? このまま留まられるのならば、妹姫のみならずほかのご家族もどうなるか」
そう笑うマーリンの声が最後に頭へ響いた。そして、イーリスのすべての意識が真っ黒になった。
* * * * *
リーンハルトの許に最初の知らせが入ったのは、それから間もなくのことだった。
「フレデリング王子が一人でここに残ると言い出した?」
どういうことだ――と、咄嗟に顎に手をあてて考えこむ。
今、自分はリエンラインの国境の街で起こった爆発について、天幕で騎士団長たちと情報を集めている最中だった。
なぜ突然リエンラインで爆発が起こったのか――それもリーンハルトたちが、その街に帰るだろう当日にだ。
急いで北部の軍を統括しているところと街の責任者に早馬を送り、状況を探らせている最中だったのだが――。
「はい、突然の爆発で陛下は大変だろうから、先に戻ってほしいとおっしゃっているのですが……」
なにかがおかしい気がする。
たしかに王ならば今すぐリエンラインに帰り、状況を確かめるべきだ。目と鼻の先なのにも拘わらず、まだ詳しいことはわかってはいない。離れているのではわからない被害状況に、焦る気持ちも出ている。
(だが――)
ぐっと拳を握り締めると、リーンハルトは、バサリとマントを翻した。
「陛下?」
知らせてきた騎士が、膝を突いたまま訝しそうな顔をしている。
「フレデリング王子に会ってくる」
いくらなんでも、フレデリング王子を一人でこの地に残すわけにはいかない。だから、その場にいる将軍や騎士団長にも伝わるように声に出すと、急いで先ほどの部屋へ向かった。
洞窟を利用して建てられている砦の中を半ば走るようにして進み、三階の先ほどの部屋に着くと、中ではやはりイーリスの家族たちが混乱しているようだ。
「フレデリング……、一人でガルデンに残るなんて……!」
涙ながらに止めようとしているのは、イーリスの母だ。その側で父は苦い表情をしている。
「なにか……あったのか?」
「いえ、なにも――」
答えながらも、その顔は扉が開いた音に気がついて、リーンハルトのほうへと向けられる。
「フレデリング王子……!」
見た白い顔に、まだ調わない息で尋ねた。
「ここに一人で残るという話を聞いたのだが……」
(なぜ、そんなことを言い出した?)
ガルデンがフレデリング王子を引き留めたがっているのは、周りから見ても明らかだ。だからこそ、ガルデン王女との別れをしていくように言い出したのだろうし、今回連れ帰らねば危険だというのに――。
それがわかっていないはずがない本人に視線を注ぎながら尋ねると、フレデリング王子はどこか強張ったような笑みを浮かべている。
「ああ。この部屋から見ていても、先ほどの爆発は大きなもので、リエンラインの国境近くの街は大変なことになっているだろう。それならば、こんなところで私のために留まらず、国王である君は少しでも早くリエンラインに戻ったほうがいい」
「それは、そうかもしれないが……」
だが、とフレデリングの王子の姿にアイスブルーの瞳を開いて、話を続ける。
「危険だ!」
いくらなんでも、ここに一人で残るなんてと思い叫ぶが、フレデリングはなぜかいつもよりも硬い表情で微笑んでいる。
「それはわかるよ、ありがとう。だけど、君はリエンラインの王だろう? この場は私が残ってガルデン王女に会えばなんとかなる。だから、君は少しでも早くリエンラインに戻ってくれ。イーリスが――」
なぜか『イーリス』だけリエンライン西部地方で使われる発音だった。ふと眉を寄せる。
「自分で二度目の伴侶に選んだ相手だ。家族は任せる。一刻も早くリエンラインに連れていってほしい。君にならば任せられる。頼む、家族と民を助けてあげてほしいんだ」
(まただ――)
『助けて』だけがリエンライン西部の訛りを交えた発音を使われた。
(どういうことだ? 家族やここにいるほかの者にはわからないように、なにかを伝えたいのか?)
二つの単語を並べれば、『イーリス、助けて』だ。
(まさか――!)
愕然とする。
(ガルデンが、イーリスになにかをしようと考えているのか?)
思わずアイスブルーの瞳を開いて、フレデリング王子の姿を凝視する。
そして、はっと部屋の中を見回した。
(イーリスは――?)
いつの間に部屋から出ていたのだろう。見えないその姿の行方を探るように尋ねる。
「――それは、一度イーリスに相談しなければならない。今、イーリスは?」
できるだけ周囲に不審に思われないように尋ねる。
すると、不意に扉が開き、どこかに行っていたイーリスが姿を現した。
「あら、私は賛成だわ」
「イーリス」
現れた金色の瞳の姿にホッとする。聞いた発音で心配になったが、見ればイーリスは、どこにも怪我などはしていないようで、明るく笑いながらリーンハルトに近づいてくるではないか。だが、よく見れば纏っているのは先ほどとは違うドレスだ。たしか、以前伯爵夫人のサロンに行った時に着ていたドレスで、贅沢を好まないイーリスが、今回の旅行用にと持ってきていたのかもしれないが、いったいいつのまに着替えていたのか――。
だが、そのドレスで軽やかにリーンハルトに近づいてくると、すぐ横に立った。
「国境の街がどうなっているのか早く行って確認したほうがいいわ。それに、お兄様も婚約者であるティアゼル姫との別れをするのなら、二人きりで過ごされたいのではないかしら」
なにか奇妙な感じがした。
(イーリス?)
だが、その感覚の正体を探ろうと側で微笑んでいるイーリスの顔を覗き込んでも、いつもどおりの美しい面差しだ。上げた面が、太陽の光にまるで仮面のように硬質に白く輝いている。
しかし、正面を向けば、なぜかフレデリング王子はひどく悲愴な顔をしているではないか。
「――頼む、リーンハルト王。私もティアゼル姫に会ったらすぐに行く。だから、それまで家族とそのイーリスを――」
(まただ)
『そのイーリス』だけ、微妙に発音が違う西部のを用いている。
なぜ――まるで、はっきりとは言えないなにかを伝えようとしているかのようだ。
真意を探りたくて、イーリスと同じ金色の瞳をジッと見つめる。
すると、フレデリング王子もリーンハルトの瞳を見つめた。
「守ってもらう代償として、リーンハルト王に私の昔の宝物に『似た』品を預けよう。これは昔王家が持っていたブローチを模して作ってもらったものなんだ。中央の石は『まがいもの』で申し訳ないのたが――」
(『似た』『まがいもの』!?)
渡されたブローチを見ながら、その言葉に目を見開く。
「フレデリング王子……」
ごくりと喉が鳴った。
ここまでの発音が少し変えられたものを繋げれば、『イーリス、助けて』『そのイーリス、似た、まがいもの』だ。
――まさか!
咄嗟に息を呑みながら、リーンハルトは穴があきそうなほどの強さで、フレデリングを見つめた。