第124話 ガルデンからの出発⑥
どうして、マーリンがここにいるのか――。
突然現れた姿に、身動くことすら忘れて凝視してしまう。
そのイーリスの目の前で、リエンラインの騎士服を着たマーリンは鮮やかに笑っている。
「あら、覚えてくださっていたのですね。少しも気がつかれないので、私のことなど、とっくにお忘れになったのかと思っておりましたわ」
「忘れるはずがないでしょう……!」
一語一語が噛みしめるようになってしまう。
忘れるなんてできるはずがない――――。リーンハルトに恋するあまり、偽の聖女となって王妃の座を狙った相手。
思わず喉がごくりとなった。よく見れば、今のマーリンは染めたのか、海松色の髪だ。それがなぜかリエンラインの騎士服を身に纏い、笑いながら自分の側に立っている。いや、先程までは、確かにロジャーと一緒に走っていたはずだ。それなのにどうして、ここにいるのか――。
(ロジャーと入れ替わった? いつの間に……)
汗が額に滲みながら探るように全身を眺め、下げた視線の先にあるマーリンの手が持っているものに気がついた。
「その仮面――」
ハッと目を見開く。
細い指が持っているのは、見覚えのある白い仮面だ。レナの正体が、マーリンであるのを暴いた日、オデルのお守りにあたって粉々に砕けたはずの白い仮面があるではないか。
(まさか、また仮面を使って入れ替わっていたの!?)
咄嗟に頭にそう閃く。だが、あの仮面はもう壊れたはずだ。
「なぜ、その仮面がここに……!」
目を見張りながら、身動くことも忘れて尋ねる。言葉を発する間も、喉が干からびていくかのようだ。
その姿に、マーリンは面白そうにくすくすと笑っている。
「ええ、そうね。たしかにあの時、私が使っていた仮面は壊れましたわ」
「だったら、どうして……!」
わけがわからない。そう思っていると、やっとマーリンが笑うのをやめて、イーリスを見つめた。
「ええ、だから、父が私に別のを渡してくださったのです。オデルが使って落とした仮面を拾って――」
「オデルの――!」
その言葉で、やっとトリルデン村でレナの正体を暴いた時にとったポルネット大臣とオデルの動きを思い出す。
レナがマーリンだとわかった直後、オデルは確かに自らの正体を偽るためにつけていた仮面を剥がした。そして、異世界にマーリンが行こうとした時、ポルネット大臣は止める兵士に体当たりをして、マーリンを逃がしていたではないか。
(あの時に――!)
当時、本当にマーリンが異世界に行って、聖女になるのを可能だと思ったのかと不思議に感じたが、もしもあれがオデルの仮面を渡すための行動だったのだとしたら――。
(だから、あの時ポルネット大臣は、マーリンを止めていた兵士に体当たりをしたの!?)
その隙に、拾ったオデルの仮面をマーリンに渡すために!
思い出せば、あの時は凄まじい風が吹いていた。オデルにそんなつもりはなかったのだろうが、落とした仮面が、風に乗って兵に捕らえられていた大臣の近くまで飛ばされていたとしてもおかしくはない。
気がついたことに、強く拳を握り込む。
大臣の行動に違和感を抱いて、水が引いたあと付近を捜索してもなにも出てこなかったはずだ。あの時の濁流で、あたりのものはほとんど流されていたし、オデルの仮面もそのせいだと思っていたのだから――。
だけど、まさかそれを大臣がマーリンに渡していたなんて――。
「そう……。では、それを使って護送の馬車から逃亡したというわけ?」
汗が額から流れていくのを感じながら、前にいるマーリンを見据える。
それならば、誰にも見つからずにマーリンがここにいたのも頷ける。だが、口にしてそれだけではおかしいことに気がついた。
「待って……。でも、事故に遭った馬車には、あなたが乗っていたと思われていたのよね? ほかの者に仮面であなたのふりをさせて逃亡したのなら、どうしてその仮面がここに――」
第一、それならばマーリンは逃亡の時、素顔だったはずだ。護送の馬車は周囲を騎士たちに見張られていた。それなのに、どうして誰も気がつかなかったのか――。
すべてを言い終わる前に、イーリスの後ろでひゅんという音がした。
ドンという衝撃が、次に頭に訪れる。
「なっ……!」
一瞬、視界が真っ赤に染まったような気がした。
頭を押さえながら振り返れば、いつの間にか近寄っていた一人の女性が棍棒を持って、後ろに立っているではないか。
逃げようとしたが、あまりの衝撃で足元がふらつく。
すかさず、二撃目が加えられた。
ふらついていた頭にはかなりな衝撃だ。その場に立っていることができなくなり、冷たい床へと倒れ込んでしまう。本能的に伸ばした手のおかげで、どうにか顔面から床に衝突するのは免れたが、冷たい石の手触りが手と伏せた頬から伝わってくる。
「う……」
低いうめき声とともに必死で顔を上向けた。目を上げれば、前でマーリンは先ほどよりもさらに華やかに笑っているではないか。
「そうですわね。ですから、私の侍女が一緒にマッサージのために護送の馬車へ連れてきた女性に、そうやって意識を失ってもらってから、仮面をかぶせて私のふりをしてもらったのですわ。仮面がもう一枚、侍女の分もあったことに気づかれたのには、褒めて差し上げますわね」
「う……」
そういえば事件のあと、捕らえられたレナの侍女は、人違いだと犯行を否定していると聞いていた。顔も身元も間違いがないから、単なる言い訳だと思っていたが――。
(あれは、仮面を使って侍女もほかの人のふりをしていたから……?)
必死に顔を上げて振り向こうとしたのに、頭がふらふらとする。
それでも、必死で振り返れば、二重に画像がだぶる視界に、一人の女性の顔が映る。見たこともない顔だ。だが、その耳に付けている飾りには覚えがある。
「それは……王宮でレナの侍女がしていたのと……同じ耳飾り……」
ぶれる視界に映る耳飾りのデザインをやっと見分けて呟くと、「あら」とマーリンが笑った。
「覚えていらしたの? そう、彼女が一枚の仮面だけではすぐに見つかる私の逃亡を助け、このガルデンに連れてきてくれたのよ」
では、この侍女がガルデンからの回し者だったのだろうか。イーリスとリーンハルトを別れさせるためにマーリンに近づき、失敗すればこのガルデンに連れてきて、再度イーリスを襲わせた。
「くっ……」
よく考えてみれば、今立っているマーリンの髪は、昨夜暴れ馬に襲われた時に出会った女性と同じ色だ。
「だから、私を襲わせ……、ロジャーにすり替わったの?」
昨夜の女性がマーリンならば、彼女がロジャーにすり替わったのは、その時刻よりも後ということになる。だから確かめると、マーリンは面白そうな笑みになった。
「ええ、だってリーンハルト様に信頼されている騎士なのでしょう? それならば、お側近くにいても疑われないし」
相変わらず無邪気な笑みだ。だが、幼子同様、むごさを秘めているとも気づかずに、明るく言い放つ。
「でもさすがに騎士にすり替わるのに、この方法は使えないから、代わりにリーンハルト様に献上したいお菓子の毒見をお願いしたの。そうしたら簡単だったわ。まさか意識を奪うために毒見をお願いするとは思わなかったのでしょうね。すぐに意識不明になってくれたから、服だけ奪って城に転がしておいたの」
「あなたと……いう人は……」
人の命をなんだと思っているのか。おそらく馬車が事故に遭ったのも、乗っているのがマーリンではないと気づかれないためになのだろう。人の命を少しも大切にせず、自分の得にならない人は無慈悲に切り捨てる。敵地に取り残されたロジャーは、今頃どんな目に遭っているのか。
あまりにも身勝手な行動に怒鳴りつけてやりたいぐらいなのに、目の前はますます焦点が合わなくなっていく。
今は視界が二重ではない、もはや、三重四重にぼやけ、それが一瞬はっきり見える状態と交互で襲ってくる。
まずい――と思った。気を失うわけにはいかないのに、どうしても手足に力が入らない。
二度殴られたから、脳しんとうを起こしているのだろうか。吐きたくなるような気持ち悪さの中で、どんどんとマーリンの姿がぼやけていく。
(だめ! 今、意識を失っては――!)
なにをする気なのかせめて確かめなくては。
「そこまでして……私を殺したいの?」
(少しでも、意識をはっきり保たなければ……!)
だから、意識をつなぎ止めるためにも必死で言葉を紡ぐと、急にマーリンは面白くてたまらないという顔になった。
「殺す? まさか!」
だが、すぐに弾けるような笑みから変わる。
「そうね、本当はそうしたいぐらいだけれど。残念ながら、あなたはガルデン国王陛下にあげることになっているの」
「え?」
思わず耳を疑った。今、マーリンはなんと言ったのか。
「だけど、安心して。リーンハルト様には、私が代わりにきちんと別れを伝えてあげるから」
信じられないことを話し続けるのに、マーリンは楽しくてたまらない様子だ。そして、指で持っていた仮面を顔へとかざした。
「この顔で」
「なっ――!」
見た瞬間、愕然とした。顔へと近づけた仮面は、柔らかな色になると、皮膚へと張り付き、その目鼻立ちをまったく違うものへと変えていくではないか。アクアマリン色の瞳が金色へ、そして海松色の髪が鮮やかな金へと変わっていく。そこで笑っているのは、最早マーリンの姿ではない。イーリスの顔だ。それが、華やかに笑いながら倒れたイーリスを見つめている。
「あなた……まさか……」
「そうよ、この顔で別れたいと言えば、リーンハルト様もきっと信じてくださるわ」
その言葉に、必死で手を伸ばした。
「ま、待って!」
ふらついて立ち上がることができない。だけど、止めなければいけない。そんなイーリスの顔で、別れたいと言われればきっとリーンハルトもイーリスがそう思っているのだと受け取ってしまう。
必死で左手でマーリンの足を掴もうとした。そう離れた距離ではないから、少しだけ前に出れば叶うはずだ。
だが、マーリンはそのイーリスの左手に目を留める。
「――ああ、そうね。これがないと見破られるかもしれないものね」
そう言うと、イーリスの左手首を持ち上げ、その薬指に嵌まっている指輪を抜き出したではないか。
「だ、だめ! やめて、これは――!」
「リーンハルト様からもらったものなのでしょう? 普段飾りを好まないあなたが毎日必ず身につけていたのですもの。よほど大切にしたい贈り物なのね?」
だとしたら――と、マーリンの形相が変化する。
「忌ま忌ましい。あなたさえ現れなければ、婚約者となり、いつか愛されるのは私だったはずなのに」
言いながら力の入らない手から指輪を抜き取っていく。
「あ! やめて!」
嫌だ。この指輪だけはとられたくない。婚約者への贈り物として、初めてのデートでプレゼントをしてくれた品だった。そのあと、噴水の側で嵌めながらプロポーズもしてもらった大切な思い出の品なのに――――。
「だめ!」
とられるのに抗おうと、懸命に指を握りこむ。その姿にじれたのだろう。
マーリンの手がイーリスの首へとかかった。
「ひっ……!」
「殺せないのが残念だと言ったでしょう。あなたをガルデン王に渡す――それが約束だから守っているけれど、本当は今すぐにでもこの世から消したいほどなのに」
そう言うと、首を指で絞めていく。
ぎりっと気道が狭まるのを感じた。
「マーリン様、殺すのは!」
後ろで侍女が慌てたような気配がする。それに目の前で、偽物のイーリスの顔が酷薄に笑った。
「わかっているわ。少し力を緩めてもらうためよ」
ぼやけている視界のぶれが、どんどん大きくなっていく。
(リーンハルト……)
それでも、指を開くのだけは、嫌だ。
(これを見れば……リーンハルトは――私が本当に別れたがっていると思ってしまうかもしれない……)
違うのに。家出をしたあの頃はともかく、今では本当にリーンハルトとやり直して幸せになっていきたいと願っている。
だから、残った力をすべて指へと集めた。そのイーリスの抵抗にじれたのだろう。
「強情ね」
そう言うと同時に、さらに首へと力がこめられる。
「……あっ……!」
その瞬間、空気が入らなくなった体の力が一瞬だけ抜ける。指がこじ開けられ指輪を抜き取られる間も、脳裏ではリーンハルトの笑顔が瞬く。
(リーンハルト……お願い、騙されないで……)
本当にあなたを愛しているの――。だが、そう思うのと同時に、イーリスの意識は、暗い闇へと呑み込まれかけていく。力の入らなくなった手から、指輪が奪われる気配がした。
だが、その時、石造りの廊下を走ってくる音が聞こえた。
「イーリス!?」
そして兄フレデリングの声が響いた。