第123話 ガルデンからの出発⑤
着いた砦は、プロシアンとガルデンとの境に続くニーベン山地を少し登ったところにあった。
馬車から降りて眺めれば、木立の向こうにはリエンラインの街が小さく見える。ここは、本当に国境のすぐ側なのだろう。小さいとはいえ、街に立つ一つ一つの家の屋根までをはっきりと見ることができるほどだ。
「こんなところに砦を築いていたなんて……」
正面を見れば、ガルデンの砦は、おそらく元々山にあった巨大な横穴を利用して造られたものなのだろう。そこの正面からは陰になった部分に、岩と同じ色の石を積み上げて隠すようにして建物が造られている。さらに隣接する山肌の側面を掘り進めて、中からリエンラインの国境まで見渡せるようにされているようだ。その砦の手前の崖には昔からの大木が何本も生えているので、リエンラインからは見えにくい。しかも、掘った岩を砕いて、砦の周囲に敷き詰めてあるので、多少この地が開けていても、遠くからは山としか思わないだろう。
これならば、事前に知らない限り、ここにガルデン軍がいるとは考えもしないはずだ。
「こんなリエンラインの目と鼻の先に、隠し砦を造るなんて、本当に油断ができない……」
ジールフィリッド王の顔を思い出しながら、イーリスが苦々しく呟くと、横で馬車から降りる手を持ってエスコートしてくれていたリーンハルトが、頷きながら答えた。
「ああ、俺も以前ガルデンに忍ばせた間者から、トロメンの近くで、鍛冶屋に、妙に石刀や岩を掘る道具の注文が多いと聞かなければ、気がつかなかった」
「リーンハルト……」
ひそと囁かれる声に横を見る。
「そういう相手だから、今度のこともなにかあるかもしれない。フレデリング王子の周囲には、十分に気をつけよう」
「ええ、そうね」
頷きながら、後ろの馬車から降りた兄を見る。
家族と一緒にいる兄の表情は、どこか考えこんでいるようにも見える。
ガルデン王がなにを仕掛けてくるつもりで、突然兄にあんなことを言い出したのかはわからないが、とりあえず警戒するに越したことはないだろう。
視線を動かし、前を見ると、到着した砦からは、慌てて数人の騎士たちと年配の女性とが出てくる。おそらくリエンラインの軍がトロメン城を出発するのに合わせて、ガルデン王からの早馬が立てられたのだろう。ここまでなんの妨害もなく砦に到着したことが、それならば納得できると思いながら見つめていると、出てきたこの砦の責任者らしき騎士が、年配の女性と共に、リーンハルトとイーリスたちに礼をした。
「このような地までお越しいただき、恐悦に存じます」
丁寧な礼だが、身のこなしには一分の隙もない。騎士は歴戦の猛者らしく、堂々した体格で慇懃に身を屈めている。
「ガルデン国王陛下から先ほど早馬が参り、お待ちしておりました。短い期間とはいえ、滞在中は心よりおもてなしさせていただきたいと思います」
「うむ、少しの間だが世話になる」
警戒を解かず、リーンハルトが答える。
それに、騎士の隣にいた女性が、礼をしたまま言葉を続けた。
「では、お部屋をご用意しましたので……。どうぞ、ご案内いたします」
「いや、突然の訪問だ。姫がお越しになるまでは、俺たちはここで軍と一緒に待つつもりだが」
さすがに、昨日のことで用心をしながら答えると、前に立つ騎士と女性が、突然慌てた顔になった。
「それは、私たちが罰せられます……! 国王陛下からは、将来姫の伴侶になるフレデリング王子様は、既にガルデンの王族も同様、そのご身内共々、決して粗略にはせず歓待しろとご命令を承っております……! 逆らえば、首を刎ねると書かれておりましたので、どうかなにとぞお部屋でお過ごしいただけないでしょうか」
見れば、女性は本当に怯えているようだ。全身が細かく震え、死刑宣告を受けたかのように青ざめた顔をしている。
その様子に、リーンハルトと顔を見交わした。
(まさか、自分の臣下にまで、こんな容赦のない命令をしているとは……)
おそらくこの女性は、この砦で騎士たちの世話をしているメイドたちの責任者なのだろう。ガルデン王がわざわざ命じたのならば、中に入るのは余計に警戒したほうがいい。だけど、それでこの女性の首が刎ねられるかもしれないなんて――。
「それならば、私だけ案内してもらったらどうだろうか?」
突然、横からした声に慌ててそちらを見る。すると、フレデリングが、少し弱ったように目を細めながら、いつもと同じ柔らかな表情を浮かべているではないか。
「私がもてなしを受ければ、彼女らは完全に命令に背いたわけではなくなる。それならば、最低限彼女らの命までは取られないはずだ」
「でも、お兄様それでは……!」
いくらなんでも兄を一人にするのは危なすぎる。だから、止めようとすると、兄は困ったような笑みを浮かべた。
「それに、私はガルデンの王宮で、姫に彼女たちのような女性が協力してくれたおかげで守ってもらえていたんだ。彼女は、王宮にいたメイドではないが……。その感謝を少しでもガルデンで働いている人たちに返しておきたい」
そう言われては、これ以上この女性の頼みを無視することはできない。
「わかった」
仕方がないように、隣でリーンハルトが女性へと視線を向けた。
「だが、護衛の騎士たちも一緒に連れていかせてもらう。それでもかまわないか?」
「は、はいっ。もちろんです、ありがとうございます!」
そうホッとしたように叫ぶと、女性はこちらですと砦のほうを手で指し示している。
その姿に、小声で囁いた。
「リーンハルト、いいの……?」
「護衛と一緒ならば、なにもできないはずだ。それにフレデリング王子を一人にするのは危険すぎる。夜は騎士団のところに戻ってすごせば、なんとかなるだろう」
その兄を守ろうとしてくれる言葉に、嬉しくなってくる。
だから、頷いた。
「そうね。とりあえず、一旦そこで休めば、彼女が命令違反に問われることはないから、お兄様も安心でしょうし」
その答えると、馬車から降りていた家族と一緒に、女性についていく。
一歩入ると、砦の中は、普通の建物よりも暗い雰囲気だった。窓が少ないからだろう。ところどころ岩を掘ったり、石の隙間を作ったりして採光がされているが、全体的に灰色がかった茶色の造りで、ひどく重々しい感じがする。砦だから、装飾がほとんどないせいもあるのだろう。どこを歩いても似たような通路だが、光が少ないせいで余計にそう見える。
そのまま女性についていき、砦の三階の部屋へと案内された。
「こちらのお部屋をご用意させていただきました」
その声で扉を開けられた部屋に入ってみると、中は、明るい日差しに満ちていた。岩の色に似た茶系のカーテンがかかっているのは、おそらく外から砦がここにあるのを悟られないようにするためなのだろう。石だけの無骨な造りなのは、廊下と変わらないが、床には赤い絨毯が敷かれ、その上に青色のビロードが張られた椅子とテーブルが置かれている。
視線を上げれば、岩をくり抜いて造られた窓の向こうには、先ほども見たリエンラインの街が遠くに広がり、見晴らしも最高だ。砦の中でも特にいい部屋なのだろう。
「今、お茶とお菓子をお持ちいたします」
砦にいるメイドが少ないためなのか、女性はイーリスたちを案内すると、急いで部屋を出ていく。
その様子を確かめ、イーリスは日差しの明るい部屋で、青いビロードの椅子に案内された家族たちを眺めた。
「お父様たち、立て続けの移動になってしまったけれど、大丈夫?」
「ああ、私たちは馬車に乗っているだけだったから」
護衛をしてくれているほうが大変だったろうと、周囲にいる騎士たちにねぎらうように微笑みかけている。
だが、その父の向かいに腰かけた兄の顔色は、少しだけ悪いような気がする。
「お兄様?」
だから、ひょっとして馬車に酔ったのだろうかと思い声をかけた。
「すまない、イーリス、リーンハルト王」
だが、覗き込みながら聞いた兄の言葉に、目を見開く。
「え?」
突然の言葉に驚くが、兄はそのイーリスの様子には気がついていないように、眼差しを下に落としたままだ。
「部屋のこと、それに足止めだとわかっているのに、ティアゼル姫との別れを拒めなくて……」
「それは……お兄様にしたら、自分を助けてくれていた人たちと同じ境遇の人を見捨てられないのはわかるし、それにティアゼル姫とは、婚約をしているのだもの。やはり、突然の別れで姫を傷つけないためにきちんと話しておきたいのは、当然だと思うわ」
そう悩みながら言うと、なぜかフレデリングは座ったまま腕を組んで、少し首を捻っている。
「傷つく……うーん?」
なぜ、そこで疑問形の言葉になっているのだろう。
「離れて悲しませることになるから、お兄様は挨拶をしておきたいのでしょう?」
そう尋ねると、なぜか兄はさらに首を捻っている。
「傷つく……とか、辛く思ってくれるとかは、正直悩むのだけれど。まあ、たしかに泣いてくれそうな気はするんだけれど、ひょっとしたら、それは私の希望かもしれないという感じがするというか」
「お兄様?」
思わず凝視してしまったが、なぜか家族は「あー」と納得したような顔をしている。
その家族の姿に、兄は「うーん」と、なぜか顎に手をあてて、さらに考えこんでしまっている。
「なにしろ、実にガルデン王の姫君だからなあ……。どちらかと言うと、なんだか怒られそうな気もするというか……」
その言葉に、思わず目を見開いてしまった。
「え、離れることを!?」
「いや、私が彼女のことで、こんなふうに悩んでいることを――」
「え、待って待って! なんで婚約者を思いやったら、怒られるの!?」
そんなに軟弱な姫だと思っていたのか――とでも言い出しそうな、豪傑タイプの姫なのだろうか。
(そういえば、プロシアンも姫君が次期女王候補で、かなり勇猛なタイプらしいし。ひょっとして、ガルデン王の娘で女王候補のティアゼル姫も?)
どんな姫なのだろうと想像した瞬間、思わず頭にガルデン王がドレスを着た姿が思い浮かぶ。
(え!? まさか、それが私の将来の義姉上なの!?)
兄の趣味がそういうタイプなのだとは思いたくないが、ルフニルツがかかった政略の相手ならば頷いたのかもしれない。
(そして、その自分を一途に好きになってくれた相手に、お兄様はほだされた……?)
もはや、脳内では想像ができない。
いや、脳が完全な想像拒否だ。
「あのティアゼル姫ってどんな方なの……?」
思わずごくりと喉が鳴ってしまった。
「ティアゼル姫? あー、うーん。まあ、見た目は可憐で……かわいくて。でも、性格的には父親似というか……」
兄がした説明に、家族がみんなうんうんと頷いている。
父親似で可憐――脳が想像の処理不可能をたたき出した。
一体、ガルデン王女とはどんな人物なのだろう。疑問に思ったのは、イーリスだけではないらしい。隣にいるリーンハルトも目をぱちぱちと瞬いている。
(もっと詳しく訊いてみたい! だけど、訊くのが怖いような気もする……!)
そう思った時だった。
突然、遠くで凄まじい爆発音がしたのは。
「なっ……!」
何事かと思って外を見れば、遠くのリエンラインの街で、すさまじい爆発が起こっているではないか。
咄嗟にリーンハルトが、窓の外へと身を乗り出した。
「なにがあったの!?」
イーリスも思わず窓へと駆け寄ったが、見えたのは午後の日差しの中で、遠くの空へと高く登っていく黒い煙だ。それとほぼ同時にあがった赤い炎が、建物を包んでいくのが見える。まるで赤い蛇だ。それが黒い煙の下から這い出してきたかと思うと、すぐに側の塔を呑み込んでいこうとしている。
爆風で音は聞こえないが、おそらくカンカンと街の鐘が鳴っているのだろう。
「わからん! 俺はすぐに騎士団長と話してくる!」
騎士たちの半分はここに残れと言うと、護衛の騎士を数人連れて、今入ってきた扉を飛び出していく。おそらく急いでリエンラインの状況を掴むためなのだろう。
「リーンハルト、気をつけて!」
突然、一体なにが起こったのか――。
廊下を走っていく姿を見送る。
「イーリス……」
部屋に戻った姿に、心配そうに父が近づいてきた。
「お父様……」
「大丈夫だ、きっとなにかの事故だろう」
そうイーリスを安心させるように言いながらも、その顔はなにか嫌なものを感じているように、少しだけ眉が顰められている。
「うん、そうよね……」
答えながらも、本当に事故なのかしら――という思いがわき起こってくる。
イーリスたちが、ガルデンを出た日に、こんな国境のリエンラインの街での爆発――。
本来ならば、そろそろその街についていてもおかしくはない時間だ。それなのに、まるで、イーリスたちが帰るのを狙っていたかのように爆発が起こった。
それだけに父と同じように、少しだけ不安な表情で目を上げた時だった。
再度、窓の向こうで爆発音がしたのは。
「なっ……!」
その音に、大きく目を見開く。
今度は、街の反対側だ。
そこに黒い煙が立ちのぼり、轟音をあげながら建物を呑み込んでいくではないか。
(おかしいわ……)
明らかに異常だ。イーリスたちがその街に帰ることになっている日に、そこで立て続けに爆発が起こるなんて。
しかも、今回は先ほどとは反対側でだ。
明らかに最初の爆発に誘発されたものではない。それなのに、立て続けに起こったということは、故意に引き起こされた気配を感じる。
ここは部屋が高いところにあるから街の反対側まで見えているが、ひょっとしたら下にいるリーンハルトや騎士団長たちはまだ気がついていないかもしれない。
「私、このことをリーンハルトに知らせに行ってくるわ!」
「あ、イーリス! 一人では危ない!」
その言葉に、兄の側にいた騎士が動き出す。
「私が一緒にまいります」
昨夜もイーリスの窮地を救ってくれた騎士の一人のロジャーだ。だから、その言葉に頷くと、急いで今来た廊下へ飛び出した。
とはいえ、初めての知らない砦だ。
「イーリス様、こちらだと思います!」
そうロジャーが言ってくれるから来たはずの方角へ一緒に走っていくが、だんだんと人の姿が見えなくなっていくような気がする。
(おかしい……。こんなところ、さっき通ったかしら?)
砦だから、元々敵との戦いに備えて複雑な構造にされているためわかりにくいが、なにかがおかしいような気がする。元からどこも装飾のない同じような造りだから、なおさらだ。
走り続けていくが、どこも見覚えがないような気がする。
だから、足を一旦止めた。
ハアハアと息が切れている。
「ねえ、こんなところさっき通ったかしら?」
すると、横にいたロジャーもぴたっと足を止めた。
なぜか一拍間を置き、面白そうに肩が上下している。
その様子に眉を顰めた。
「ロジャー?」
なにかがおかしい。そう思って、その騎士の名前を口にする。すると、くすくすという笑い声が背けた顔から洩れてくるではないか。そして、相手がやっと口を開いた。
「あら? イーリス様、やっと気がつかれたのですね?」
「え?」
返されたその少し高い甘い響きの声に愕然とする。どうして、ここでその声をもう一度聞くのか。
そして、その姿が、くるりとこちらを向く。
その瞬間見た顔は――。
「マーリン……」
まさかここで出会うとは思っていなかったその姿に、瞬間イーリスは金色の瞳を大きく開いて、息さえも忘れたように動きを止めた。