第120話 ガルデンからの出発②
お茶を飲んで和やかな時間を過ごしていると、天幕の入り口から声がかかった。
「ルフニルツの皆様のお荷物積み替えが完了いたしました」
イーリスの家族の荷物を、リエンラインの軍隊の馬車へと積みこむ作業が終了したのだろう。父たちのは、ガルデンの馬車から積み替えるだけだったが、フレデリングの荷物は、館にあったものを急遽纏めての積み込みだ。先ほど兄が急いで指示をしていたが、それを適う限り迅速に行ってくれたのだろう。
「早かったのね」
「ああ、突然で驚いたが、元々ルフニルツからのものは、ほとんどないし、ここに持ってきたものを運び出す手伝いは、リエンラインの騎士たちがしてくれたから」
そう兄は、唐突な出国で慌ててした指示を、微笑んで話してくれる。
「私たちも、ガルデンで用意されたものは、ほとんど置いてきたんだ。リエンラインまで持っていきたいのは、ルフニルツからのごくわずかな品だけだから」
それと、あとは家族の姿だけだ――と、父はフレデリングとイーリスたちを見つめながら、穏やかに話している。
「そうね、ガルデンのものは置いていったほうが、後々面倒にならなくてよさそうな気がするわ。それに、必要そうなものは、すべてリエンラインで揃えているし――」
そうイーリスが話して、立ち上がりながら横を向くと、同じく席を立ったリーンハルトも頷いている。
「ああ、それでもし足りないものがあれば、リエンラインに着いてから手配をすればいい」
「そうね、ではいよいよ出発ね!」
家族を連れて、リエンラインに戻れる――。そう思うと、目が輝いてくる。これからは、きっと六年間の空白を埋められるように、たくさん話して笑い合うことができるだろう。
「リエンラインってどんなところなの?」
歳よりも少し幼く見える笑顔で、ニックスがフレデリングの側からリーンハルトに尋ねかけている。
「ああ、そうだな。ここよりは南だから、街や建物なども知っているものとは少し違うと思うが……。もし、詳しく見てみたかったら、もうすぐ春の季節のお祭りがあるから、その時みんなで街へ行けるように手配をするが……」
慣れない様子で、会ったばかりの義弟にリーンハルトが答えている。その言葉に、ニックスがパッと顔を輝かせた。
「そうなの? 楽しみだね、兄上!」
リーンハルトの言葉を聞いて、横にいるフレデリングに、無邪気に話しかけている。そのニックスのはしゃぐ姿に、リーンハルトも慣れない様子ながら、微かに目元を和ませて笑みを浮かべた。
そのまま家族と一緒に天幕の外へと歩き、リエンラインの軍隊が守っている馬車へ案内していく。
ずらりと並んだ騎士たちの隊列は、リエンラインを出発するときに見たのと同じく壮麗なものだ。不審な者が近づかないように、天幕から馬車までの道を取り囲み、旗を立ててガルデンの地にリエンラインの威厳を見せつけている。
その中を守られながら歩いていると、簡単にはほかの者が近づくことができないはずのそこで、不意に横から声がかかった。
「フレデリング王子」
見れば、騎士たちが気づいて道を空けたところから、赤い髪を靡かせた姿が歩いてくるではないか。
「ジールフィリッド王」
これだけの騎士たちがいるのにもかかわらず、誰も止めることも声をかけることも許されないほどの地位にいる男が、なぜかイーリスの兄の名前を呼びながら、薄い笑みを浮かべている。
その姿に、妙な感じがした。
出発する前に、正式な挨拶をする必要はあるが、まさかあれほどルフニルツの王族をリエンラインに渡すことを拒んでいた王が、わざわざ自分から馬車の側にまで来て、兄を呼び止めてくるとは――。
馬車がいつでも出発できるか確認をしてから、知らせを送り、そこで出立の挨拶を行おうと思っていたのに。
豪華な赤い髪を翻したガルデン王の突然の出現に、ニックスがびくっと肩を揺らしている。
「ニックス」
その姿に、兄が心配そうに弟を背後へと隠した。その間にも、イーリスたちの目の前では、ジールフィリッド王が感情の読めない顔で、こちらへと近づいてくる。
「もう出発するのか?」
「はい――用意ができたそうなので。ジールフィリッド王には、大変お世話になりました」
話しかけられた兄が、一つ一つの言葉を用心深く紡いでいく。フレデリングに話しかけたということは、これは公的な出立の挨拶ではなく、個人的な話ということなのだろう。
警戒しながらの兄の言葉に、しかし腕を組んだジールフィリッド王は、呆れたように瞼を半分伏せ、小さく息をつく。
「世話になったのは、俺よりも、むしろ娘のほうにだろう?」
「え?」
その言葉に、フレデリングの金色の目が見開く。
「俺の企みや宮廷での陰謀から、さんざん守ってもらったくせに、まさか婚約者に挨拶もせずに行くつもりだったとは――。長い別れとなるんだ。せめて、ティアゼルに一度会って、挨拶をしてから行ってはもらえないか?」
「それは……!」
言われた兄の顔が、はっきりと焦ったものに変わった。
「リーンハルト、ティアゼル姫って……」
「ああ。前に話したガルデン王と亡くなった嫡室との間の娘だ」
だとしたら、ティアゼル姫というのが、兄が以前話していた婚約者の王女の名前なのだろう。
(お兄様は、その姫と一緒にルフニルツの共同統治者になると話していたけれど……)
だが、今の兄の表情を見ると、二人の関係がとてもそれだけのためだったとは思えない。
「ティアゼルが、君を心から慕っているのは、よく知っているだろう? だからこそ、君と家族を、六年間この俺から守り続けた――」
「それは……姫には、本当に感謝をしていて……」
「だったら、せめて、しばしの別れの挨拶ぐらいはしていってやってくれ。少しの間、フレデリング王子がここに留まり、先ほど俺が知らせを送った姫が、到着するのを待っていてくれるだけでいいんだ。姫が、君に協力したばかりに捨てられたと思い、傷ついたりしないように……」
(詭弁だわ!)
兄をこの地に引き留め、一緒に行かせないために違いない。
だが、フレデリングは、ジールフィリッド王が話した内容に、動揺を見せた。
「ティアゼル姫が……」
目を開いたまま少し俯くと、自分を守ってくれた姫が傷つくという言葉に、そのまま考えこんでしまっている。
眉を寄せた顔は、明らかに自分のせいでその姫が傷つくことに苦悩しているものだ。その様子からすると、兄と姫との間には、亡国の王子とそこを征服した国の王女という政略的な意味を越えて、なにか精神的な結びつきがあったのかもしれない。
(だけど……、お兄様だけをこの地に残していくなんて、できるはずがないわ!)
そんなことをすれば、きっとガルデン王は、また兄をこの地に留めるための罠を巡らしてくるだろう。
「お兄様……!」
だから声をかけようとしたが、兄の表情を見ていると、続きが出てこない。兄とその王女がどんなふうにすごしてきたのか――。
知らなくて、迷っている間にも、フレデリングの眼差しは、困惑したように揺らめいているではないか。
「あ……」
寄せられた兄の眉の下で、苦悩する小さな声がこぼれた。
(お兄様がそんなふうに悩むだなんて……!)
六年間、実の父であるガルデン王から兄とその家族を守り続けてきた姫。だとしたら、兄も、政略的な意味を越えて、彼女と関わっていたのだろうか。
どうしたらいいのか。悩むイーリスとフレデリングの様子を見て、ガルデン王が薄く微笑む。
「それに、かわいい娘を苦しめるとわかっていながらも、見捨てて出立すると言うのならば――俺はそれを笑って見送ることはとてもできないだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、兄が弾かれたように顔を上げた。まるで、これまでに幾度も似たフレーズを聞いたことがあったかのように――。
「あ……」
そして、急いで家族の顔を見回す。
一瞬フレデリングが唇を噛んだ。なにかの決断を迫られているかの如く。
(ダメよ!)
ここで残るなんて言わせては――。
だが、イーリスがなにかを言おうとするよりも先に、側にいたリーンハルトのほうが早く口を開いた。
「まあ、待て」
そして、身動くことを忘れていたイーリスの側で、一歩ガルデン王へと近づく。
「要は、その姫とフレデリング王子の別れの挨拶ができればいいんだろう?」
そう話す顔は、ガルデン王と同じく薄い笑みを浮かべている。だが、少しも穏やかでないアイスブルーの瞳でジールフィリッド王を見つめると、一歩も引く様子のない構えで話し続ける。
「それならば、ここよりも国境のすぐ近くに、ガルデンが先年造った砦があるだろう。そこなら、リエンラインのすぐ側だが、ガルデン国でもある。そこで、ティアゼル姫の到着を待つので、どうだろうか? それならば、我々の帰国の予定にも影響が少ないし、それになによりも、折角再会したイーリスとフレデリング王子を再度引き離すという酷なことをしないですむ」
「ほう――よくそこに、砦を新築したのを知っていたな」
「手の内を探っているのはそちらだけではない――と言っておこうか」
そう薄氷色の瞳で見つめると、しばらく無言で睨み合い、フッとガルデン王の口元が面白そうに動く。
「いいだろう。では、呼び寄せたティアゼルを、急いでそこへ向かわせるようにするから、しばしその砦で待っていてもらえるだろうか」
「わかった。但し、今日を含めて三日だ。もし、三日たっても、フレデリング王子の身柄が、まだガルデンに留められるようならば、今回の協定違反ということでこの軍隊を使っても奪い返すからな」
「ふん。三日もあれば十分だ」
そう薄く微笑みながらガルデン王が答える。
「では、道中達者で。リエンライン一行の無事の帰還を祈る」
そう短く告げて別れの挨拶をすませると、ガルデン王は背中を向けて歩いていく。
そのあっさりとした様子に、逆になにかが引っかかった。
「リーンハルト……」
兄を引き渡さずにすんだのには、ホッとした。だけど、まだジールフィリッド王の様子に、不安が消えない。
それをリーンハルトも感じているのか、見つめているイーリスの眼差しに、その不安がわかるように頷く。
「ここに留まらされるよりは、リエンラインのすぐ近くなだけマシだろう。だが、まだ、君の家族を諦めず、なにかをしてくる気かもしれない。念のため、フレデリング王子の護衛を増やしておこう」
そうリーンハルトが話すと、リエンラインの並んでいた騎士たちの間から一人が進み出る。
「陛下、私がフレデリング王子の護衛につきます」
見れば、現れたのは、昨日の夜、暴れ馬からイーリスを守ってくれた騎士の一人だ。
「ああ、ロジャーか。助かる。お前ならば安心だ」
名乗り出た騎士に、リーンハルトが頷く。そして、ほかにもイーリスの家族たちへの護衛を増やすように指示をしている。
だけど、どうしても心からまだ安心することができない。それは、兄も一緒なのだろう。
それでも――明るく笑った。
「さあ、とりあえず馬車に乗りましょう」
とにかく、今はガルデン王の手の内から少しでも出なければ――そう思いながら、イーリスは家族を馬車へと乗り込ませた。