第119話 ガルデンからの出発①
トロメンの城の高い部屋で、ジールフィリッド王は窓辺に佇んだまま、家族とともに玄関から日だまりの中へと歩いていくイーリスを見つめていた。
天に昇った太陽の角度のせいだろうか、王が立っている窓のすぐ外は明るいのに、部屋の中はどこか薄暗くて、肌寒さを感じさせるようだ。部屋そのものは、ペチカで暖められているはずなのに――。
奥の日差しの届かないところから、一人の女官の声がした。
「陛下、ルフニルツの王族をこのままリエンラインに行かせてもよろしいのですか?」
壁の近くに立ちながらジールフィリッド王に尋ねているのは、きりっとした面差しの女性だ。
かけられた声に振り返りもせず、ジールフィリッド王は、窓辺で手を突いてイーリスたちが歩いていく姿に眼差しを注いだまま言葉を返した。
「ふん、約束だ。仕方があるまい」
だが――と、リーンハルトに笑いかけているイーリスの姿を瞳に捉えたまま、唇の端を冷酷に吊り上げていく。
「代わりに、あの聖女をリエンラインからとるぞ」
言葉と同時に振り返ったジールフィリッド王の笑みは酷薄なものだ。その声に、部屋の奥にいた女性が「はっ」と頭を下げる。
だが、その女性の隣にいた男性は、慌てたように口を開いた。
「お待ちください、陛下。陛下があの聖女にご執着なさっておられるのは、腹心として存じております。ですが、今あの聖女を奪えば、リエンライン王が黙ってはいないかと――!」
おそらく、リーンハルトが連れている多くの軍勢を意識しての言葉なのだろう。
それを察してジールフィリッド王が男へと顔を向ける。
「ああ、わかっている」
だから――と、見る者が少しも安心できないような、傲慢なまでの笑みを顔に浮かべていく。
「リエンライン王には、邪魔にならないよう、やはり死んでもらうことにしよう」
六年前の恨みもあるしなと、陽の光を背にしながら言い放つ。
「今、後継者のいないリーンハルト王が亡くなれば、どれだけリエンラインが混乱に陥るか――そうなれば、聖女のことに気づいたとしても対応している暇はあるまい」
さそがし、見物だろう――と笑うジールフィリッド王の言葉が、暗い部屋の中に響いていく。
一方、その頃イーリスは、リエライン軍が野営していた天幕に家族を案内していた。中に通すと、待っていたコリンナが、リエンラインから持参した水で、みんなにお茶を淹れてくれる。
いくら急ぎの旅でも、家族はみんな到着したばかりだ。ガルデン王の話を思い出すと、近くのエイリーメという城までは、すでに連れてこられていたらしいが、そこから馬車にずっと乗ってきたのだから、さすがに疲れているだろう。ガルデンの馬車から家族の荷物を積み替え、また池の側の館にあるフレデリングの荷物を急いで纏めさせる間、少しでも家族に休憩してもらうために、イーリスは一番安心できるリエンラインの天幕で、木を組み立てて作られた椅子を勧め、家族と向かい合った。
夢みたいだ。
また、家族とこんなふうに一緒にテーブルを囲むことができるなんて――。
目の前では、父と母が座り、イーリスの父の向かって右側には兄フレデリングが、そして母の左側には弟のニックスが座っている。イーリスのすぐ左隣にはリーンハルトが座り、どこか緊張した面持ちで、義家族と対面している。
初めて一緒にお茶をするのだから、当然だろう。六年前、援軍が遅れたことについてのわだかまりはなくなったとはいえ、妻の家族と初めてすごすのだから、緊張するのは仕方がないとも言える。
なにから話せばいいのか――迷っているのかもしれない。
コトンとコリンナが淹れてくれたお茶を簡易テーブルに置く音がして、先に口を開いたのはイーリスの父だった。
「リーンハルト王、改めて、今回私たち家族を助けに来てくれてありがたく思う。まだきちんと名乗ってはいなかったな、私はノオース・ロイリッド・ルフニアネルだ」
「イーリスの母のスフィリス・ラルリディア・ルフニアネルと申します。今回のこと、本当にありがとうございます」
そう話す母は、前よりも少し目元に皺が寄っている。しかし、優しい微笑みはルフニルツにいた頃と変わらないものだ。
その二人に、リーンハルトは緊張しながら言葉を返した。
「こちらこそ、改めて名乗らせていただきます。イーリスの夫のリーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデです。このたびは、お二人の寛大なお心に感謝いたします」
そう話すリーンハルトは、緊張しながらも、六年間あれほど辛い思いを抱えていたとは思えないほど、今は落ち着いた声音だ。
それにホッとしながら、イーリスも言葉を続けた。
「よかったわ。みんな元気で、こうして再会することができて。ずっと心配だったの。遠いガルデンの地で、みんながどんなふうに暮らしているのかって――」
コリンナがお茶を淹れてくれたカップを持ち上げながら話す。それに、父は優しく微笑みながら返した。
「ああ、なんとか家族全員無事に生きてこられた。これもリーンハルト王のおかげだ」
「リーンハルトの?」
尋ね返すと、父は少しだけ言葉を濁す。
「まあ、ガルデンではいろいろとあったのだが……」
きっとそれは、目の前にいるイーリスとリーンハルトのことを気遣っているから、ぼかしたのだろう。
「何度か脅されることがあったのだが、リエンラインが定期的に私たちの様子を確かめに使者を送ってくれていたので、捕らわれた時のような思い切った手段には出られなかったようだ。おかげで、家族全員無事でこうしていられる。そのことにもリーンハルト王には、本当に感謝をしているんだ」
そう話す父の顔は穏やかな笑みに満ちている。しかし、そこに触れられた言葉に、イーリスは思わず瞬いた。
「脅されたって……、なにを……?」
咄嗟にルフニルツのことについてだろうかと思うが、その領土は今では完全にガルデンの支配下だ。脅されるという言葉に不穏なものを感じて尋ねると、父は「ああ」とイーリスを見つめた。
「ガルデン王は、どうやらルフニルツの伝承を信じているようなんだ。金の娘という――」
「それって、ルフニルツに伝わる神の話の……?」
幼い頃の記憶を思い出しながら尋ねると、目の前で少しだけ悩む仕草を見せた母に向かい、父はゆっくりと頷く。
「ああ、イーリスもルフニルツ王家の血を持っているのなら、話しておいたほうがいいだろう」
そう母に優しい眼差しで告げると、ゆっくりとこちらを向く。
「ガルデン王は、ルフニルツに伝わる時空を操る金の娘の力について、知りたがっているようなんだ」
金の娘――久々に聞いたその昔話に、体を動かすことも忘れる。
カップを持ったまま父を見つめるイーリスの姿に、隣からリーンハルトが不思議そうに声をかけた。
「イーリス、金の娘とは……?」
「ああ」
その声に、ハッとして隣へと顔を向ける。
「ルフニルツに伝わる独自の信仰なの。大昔、世界にはたくさんの神々がいて、その中に金の髪と瞳を持つ姉妹がいたらしいわ。その妹は、時と空間を自在に行き来する能力を持っていたのだけれど、あるとき人間の青年と恋に落ちたそうなの。神のままでは人間との恋は認められないので、金の娘は人間となって、その青年と結ばれ、やがて生まれた子供が人間の指導者となり、ルフニルツ王家を興したと言われている昔話なのだけれど――」
「ああ」
そう言うと、以前耳にしたことがあるというように、リーンハルトが目を瞬いている。おそらく、民間信仰ではよくある系の昔話だから、気にも留めていなかったのだろう。すぐには詳しく思い出せない様子に、その内容を口にする。
「まあ――よくある王家が神様の末裔というありふれた伝承よ。ただ、金の娘が時空を操る神様だったから、将来幸せな時が来ますようにとか、今でもルフニルツの地では信仰されているだけで……」
おそらくこの世界で、古くからあった民間信仰の一つなのだろう。太古の時代にはもっとたくさんあったのだろうが、途中でミュラー教が勢力を伸ばしたために、その傘下となった国では、王朝の交代などの間にこの手の話が消えていったのだと思う。
だが、まさかガルデン王が、その民間信仰の昔話に興味をもっていたとは――。
「でも、いくら神の末裔と伝わっているとはいっても、ルフニルツ王家の者に神からの特別な力なんてないわ」
そうよねと確認しながら父を見つめると、その横で母までもが一緒にイーリスの言葉に頷いている。
「ああ。だからいくら脅されてもなにも知らない、ただの昔話だと言うしかなかったから、私ではいくら試してもダメだと思ったのだろうな。次第にフレデリングを懐柔しようとしているみたいだったが……」
最初からなにもないのだから、無駄に決まっていると、父は軽く溜め息をついて苦笑している。
たが、その話にイーリスは奇妙な引っかかりを感じた。
ガルデン王が、金の娘の伝承に興味を持っている?
今まではただの支配欲で、ルフニルツを征服したのだと思っていたのに――。
少しだけイーリスの表情が硬くなったのに気がついたのだろう。
「ところで」
父が目の前のカップを持ち上げると、座る二人を見つめながら、ゆっくりと言葉を出す。
「私もこの六年間、イーリスのことが気になっていたのだがね。二人の本当の仲は、実際のところどうなんだい?」
その言葉に、リーンハルトが父と同時に持ち上げ、飲もうとしていたお茶を盛大にむせた。
ごほごほと続く咳に、慌ててイーリスが隣から背中をさする。
「だ、大丈夫? リーンハルト!?」
「だ、大丈夫だ。ただ、突然だから驚いただけで」
その前で、父は二人の様子を和やかに見つめている。
「いや、驚かせて悪かったね。なにしろガルデン王が、リーンハルト王は、喧嘩してからはイーリスと顔を合わせるのが減っているようだとか、数年前には、ほかに側女になりたくて近寄っている女性がいるらしいとかいろいろと話してきてくれてね。その割には、今目の前にいる二人の仲はよさそうだし、本当のところはどうなんだろうと気になって」
(ガルデン王!)
思わず心の中で叫んでしまう。
(どうして、わざわざそんな心配するようなことを家族に教えるのよ!)
これでは、今回の策略のためではなく、本当にイーリスとリーンハルトが離婚しないかと気になっていたみたいではないか!
(だけど、まさか六年間、私たちの不仲の様子を逐一家族に伝えていたなんて――)
どう答えるべきかと悩むが、ちらりと周囲に目をやれば、同じ天幕の端にいた副使たちの顔が輝いている。
(さては、このグリゴアの部下たち……。私が両親に気遣って、再婚宣言を明確にするのを期待しているわね……!)
言った瞬間、間違いなくグリゴアに報告する気だろう。またリーンハルトと喧嘩でもすれば、再婚宣言をしたと証人になるつもりかもしれない。
「えっと、その件については……」
(どうしよう、全部本当ですなんて、ここで両親を不安にさせるわけにはいかないし……)
「うん、ちょっと大袈裟に伝えられただけかい?」
父は、穏やかに尋ねているが、その目の前に座ったリーンハルトは、完全に弱った表情だ。
「いえ、そのことにつきましては、その……」
見れば身に覚えがありまくりのリーンハルトは、完全に焦って困惑している。
まさか、妻の家族から不仲の噂について、こんなに早く尋ねられるとは――とうろたえているのが、イーリスには丸わかりだ。だが、嘘をついたところで、リエンラインに着けばおそらくわかってしまうだろう。
リーンハルトが言葉を続けられず、弱りきっていると、隣からパッと二つの腕がしがみつくように伸びてきた。
「やめてよ、父上、母上。リーンハルト様は、僕の命を助けてくれた方だよ! 遠い異国まで来てくれるほど、イーリスお姉様を大切に思っているんだろうに、そんなことを言って困らせたら可哀想じゃないか!?」
「ニックス……」
突然、腕にしがみついてきた義弟の姿に、リーンハルトが目をパチパチとさせている。
「それに、その話の頃、リーンハルト様だって僕とそう違わないくらいの年齢だったんだろう? それなら、女の子と上手く話せなくてぎくしゃくとしたり、近寄ってきた積極的な女の子からうまく逃げられなくて、困ったりしたこともあると思うんだ」
そう叫ぶと、「ね?」と同意を求めるようにリーンハルトを見つめている。
その信じ切ったキラキラとした眼差しに、どうして違うと言うことができるだろうか。
「あ、ああ……」
思わず頷いて同意をしたリーンハルトに、イーリスも助け船を出すように口を開く。
「そ、そうね。それに、顔を合わせるのが減ったとはいっても、毎日一緒に朝食は食べていたのだし……」
かなり緊張感のある食卓の日もあったが――と思いながら言葉を添えると、「ほら!」とニックスが顔を輝かせている。
「ね? だから、リーンハルト様は、本当は悪い人ではないんだって!」
心底嬉しそうな様子だ。
「そうか、それぐらいならよかった」
そう父は頷いている。そのニックスの言葉に、正直助けられたと思うが、ホッとしたイーリスが横を見ると、リーンハルトはまだ焦った時のままの姿勢だ。だが、少し俯いている顔は、先程とは違った赤さに染まっている。
「リーンハルト?」
たから、それを不思議に思い尋ねると、俯いたままぼそりと言葉を返された。
「いや……なんというか……弟って、いいものだな」
初めてだが――兄弟って、こんな感じなのかと赤い顔のまま呟くのに、見ていたイーリスの顔からは笑みがこぼれた。