第118話 六年ぶりの再会
ガルデン王が口にした言葉のとおり、それからほんの数時間後――。
トロメン城の玄関には、一台の馬車が着いた。ギッという音を立てて、金茶色に塗られた車輪が動きを止める。黒い馬車に施されているのは、ガルデンの国章と並んで、ルフニルツ王家の紋章だ。
つけられていた印から考えると、ガルデン王は、六年前の停戦協定で交わした内容を守り、ルフニルツの家族たちを国賓の扱いで遇してくれていたのだろう。
その馬車の扉が開いていくのを、イーリスは側に立つリーンハルトと今来たフレデリングと共に、ドキドキとした思いで見つめた。
馬車の側に立ったガルデンの騎士が、ガチャリと扉を開く。
すると、中からは懐かしい面影が現れてくるではないか。
最初に降りてくる人物の短く切られた髪は、金色だ。イーリスと同じ色で、ガルデンでは、まだ冬の寒さを拭えない陽光を受けながら、優しい輝きを放っている。
そして、降りると同時に、こちらを見つめた金色の眼差し――。目元には前よりも皺が刻まれているが、十一歳の別れた時と同じ柔らかなその色を見た瞬間、イーリスの喉からは震えながら言葉が飛び出した。
「お父様……!」
「イーリス――!」
どれだけこの六年間会いたかっただろう。夢の中でも繰り返し思い浮かべたその面差しが、今目の前にいる。
「イーリス……!」
「姉上……?」
父の後ろから、同じようにこちらを見ながら馬車から降りてきたのは、ルフニルツで別れた母と弟だ。以前よりも少し歳を重ねているが、間違いなく母と弟であるその面差しを見た瞬間、イーリスは立っていた場所から走り出し、父と母と、そして弟の体にも届くように腕を伸ばした。
「お父様、お母様、ニックス!」
「イーリス!」
どれだけもう一度この家族たちに会いたかったか。幼い頃、イーリスが嬉しいときや辛いときに、いつも側に寄り添って見つめてくれていた優しい家族の瞳がここにある。
何度その眼差しとともに注がれた愛情を思い出したことか――。
胸に甦ってくるたびに、会いたくてたまらなかった。ひょっとしたら二度と会えないかもしれないと思いながらも、いつかきっと状況さえ変われば――という願いを捨てきることができなかった。その家族たちが、今イーリスの目の前にいる。
「元気だったのね、よかったわ。本当によかった――!」
協定が守られているか定期的に確認する使者が送られていたから、家族が、ガルデンで無事でいるのは耳にしていたが、北方の国がひどい寒気に襲われていると聞くと、家族が風邪をひいてはいないだろうかといつも気になったし、こまめに様子を知ることはできないから、どんなふうに過ごしているのかについては、常に心配がつきまとっていた。
どれだけ夢の中で、この面影たちに話しかけたか――。
その家族たちを抱き締めている。
「イーリス」
腕から伝わってくる温もりに、涙がこぼれるのを止めることができない。
その姿に、父は優しくイーリスの金色の髪を撫で、母は白い手を伸ばして昔と同じように背中をさすってくれる。
「お前こそ元気でよかった……」
「そうよ……! ずっと心配していたの……。遠いリエンラインの地で、どんなふうに暮らしているのかと――」
そう言いながら優しく手で背中を撫でてくれる母の顔は、イーリスと同じように涙に濡れている。
頬を辿る透明な雫が、これからくる春の季節を告げるような太陽の輝きに、きらきらと煌めく。
「イーリス……姉上?」
その横で、呼び慣れないようにニックスが言葉を紡いだ。その言葉に、イーリスは腕を伸ばしていた弟へと視線を注ぐ。
別れた時、弟はまだ八歳で、イーリスは十一歳だったから戸惑っているのだろう。
身長が伸びて、今ではイーリスと同じぐらいの背丈になったが、その新緑の瞳と、柔らかな短い金色の巻き毛は、幼い頃イーリスがあやして遊んでやったニックスと変わらないものだ。
だから、こぼれる涙を手で拭いながら、やっともう一度会えた弟を見つめた。
「ええ、そうよ。大きくなったわね。昔は、ずっとイーリスお姉様と呼んでいたけれど」
そう呼び方が変わったことに成長を感じながら、昔を思い出して話しかけると、そのイーリスの泣きながらの笑みに、ニックスの瞳にも涙が浮かんでくる。
「うん、イーリスお姉様と呼んでいたこと、覚えているよ! 小さい頃、そう呼んで頼む僕に、よく本を読んでくれた――。フレデリング兄上が、何度も繰り返してイーリスお姉様との思い出を話してくれたから……!」
細い肩だ。それが震えながら話している。フレデリングが何度もイーリスとの思い出を話したというのは、きっと兄なりに、ガルデンの生活で、幼かった弟に遠くに姉がいることを忘れさせないためにだったのだろう。
イーリスがいる――。遠く離れていても、血の繋がった存在がリエンラインに。だから、自分たちは囚われ人でも孤独ではないと、一度殺されかけた弟に感じさせ、希望を失わせないようにするためだったのではないだろうか。
その金色の巻き毛の頭を抱き締めて、またイーリスの頬にも涙がこぼれてきた。
再度側にいる父と母の姿をよく見れば、その顔には、前よりも細かい皺がいくつも刻まれている。きっとガルデンでは、気の張り詰めた生活をしていたのだろう。
だが、やっと再会できたことで、誰の顔にも温かい涙が煌めいている。嬉しい涙だ。春が近付く日差しの中で、またこの顔たちに囲まれることができたなんて――。
こみ上げてくる思いに言葉も出せずに見つめ合っていると、後ろから静かに声がかけられた。
「イーリス」
その声で、やっと背後に来ていたリーンハルトに気がつく。
「あ……」
こぼれていた涙を指で拭い、その声にイーリスは振り返った。
顔を向ければ、リーンハルトは、今これ以上声をかけてもいいのか迷っている様子で、こちらを見ているではないか。
だから、父と母たちを見ながら、リーンハルトを手で示した。
「お父様たちが直接会うのは初めてだったわね。紹介するわ、彼が、私が結婚したリーンハルトよ」
家族が、リーンハルトについて誤解していないことは兄から聞いていたので、そのまま紹介するが、リーンハルトにすれば、やはりそれだけではすまなかったのだろう。
自ら近寄ると、先に父に名乗る。
「六年前にイーリスと結婚させていただきましたリエンライン国王、リーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデです」
次いで、深く頭を下げた。
「六年前、結婚の時の約束が守れず、救援が遅れ大変申し訳ありませんでした――!」
きっと、これが六年間リーンハルトがずっと言いたかったことなのに違いない。洪水の復興のためだったとはいえ、自らが選択したことで、援軍が遅れてしまった。それが、どれだけの後悔となって、六年間リーンハルトを襲い続けていたのか。
銀色の頭を深く下げた姿を見た父は、だがすぐに両手でリーンハルトの肩を持ち上げさせた。
「君のせいではない。確かに、イーリスを嫁がせる時に、ガルデンが攻めてきた場合の援軍を約束していたのは事実だ。だが、他国である以上、国内の事情で救援が遅れる場合もある。むしろそういうときにこそ、攻められやすいのに、それを見越しての対策に気がつかなかった。だから、結局ルフニルツがなくなったのは、私の落ち度なんだ――」
静かに話す父の手が肩から離れ、下がっていたリーンハルトの手をゆっくりと握っていく。
「それに君は、遅くなっても約束どおり来てくれた。そして家族の命を助け、今また私たちのことを忘れずに来てくれたんだ。それだけで、十分君の気持ちは感じられた」
だからと、父はリーンハルトの手を握りながら、静かに微笑む。
「私は、君が、今ここまで来てくれたことを、本当にありがたく思っている――」
その言葉に、リーンハルトの目から涙がこぼれ落ちた。
六年もの長い間、リーンハルトはどれだけあの時のことを後悔をし続けていたのだろう。
辛くても自分がした結果から逃げることはできず、心の中でずっと重石になり続けていた。それが、ゆっくりと涙になって流れ落ちていくのがわかる。
「ありがとう……ございます……」
そう答える声は震えたものだ。 そして、父の手を強く握り返す。その肩に静かにイーリスは触れた。
「リーンハルト……」
もう十分に苦しんだ。だから、もうこれ以上は、リーンハルトにも家族にも苦しんでほしくはない。
だから、リーンハルトの肩に手を置きながら、家族に向かって微笑む。
「リーンハルトと共にガルデン王へ交渉して、家族みんなをリエンラインに迎えることができるようになったの。だから、これからはまたみんなで一緒に暮らしましょう?」
もちろんと、後ろに立つフレデリングを振り返る。
「お兄様も一緒よ。きちんとガルデン王に認めてもらったわ」
「イーリス……」
驚いたように、兄がこちらを見つめている。
「本当に、ジールフィリッド王が認めて……?」
「ええ、婚約はそのままだけれど、リエンラインで暮らすのは許してもらったの」
その言葉に、ニックスの顔がパッと輝いた。
「兄上も一緒にリエンラインに行けるの!?」
おそらくその言葉は、兄から事前に自分は一緒にはいけないと知らされていたからだろう。ここに来るまでに、ニックスは、両親と一緒にリエンラインに行けるようになったとは聞いていたけれど、兄のことが気がかりだったに違いない。
だから、そのニックスの笑顔を肯定するように首を縦に振る。
「ええ、これからはまたみんなで一緒に暮らせるのよ」
六年の間が開いたけれど――。きっと、また穏やかな日々が家族にも戻ってくるはずだ。
「住まいは、王宮の一角にすでに用意してあります。急がせて、申し訳ないのですが、ガルデン王が気が変わってなにかを言い出す前にお連れしたいと思いますので、このまま出発の準備に移っても大丈夫でしょうか?」
リーンハルトが家族のほうを向きながら、リエンラインでの生活の準備は調っていますのでと話している。家族にしてみれば、トロメンに来た途端の出発だ。慌ただしいことこのうえないが、すぐに父はリーンハルトの言葉に頷いた。
「ああ、ガルデン王の気が変わる前に、ここを出発することにしよう」
おそらくこの六年で、ガルデン王については兄と同様いろいろ見聞きしていたのだろう。すぐに横にいる家族たちを促すように頷き、リーンハルトへと視線を戻す。
「それに、話はここを出てからでも話せるからな。君がイーリスより先に、ほかの女性と踊ったという件についても、詳しく聞きたいし」
「え、そ、それは!?」
驚いたようにリーンハルトが、父を見つめている。
「それについては、浮気とかではなく……その、本当に、妻として愛しているのは、イーリスだけなので……」
まさか、父にまでその話を追及されるとは思っていなかったのだろう。もごもごとしながらも、リーンハルトが家族の前で、はっきりと愛していると言ってくれたことに、当人のみならずイーリスの顔までもが熱くなってしまう。
(ちょっと、お父様たちの前でなんてことを――!)
恥ずかしいのに、なんだか嬉しくて、どんな顔をみんなの前でしたらいいのかわからない。
きっとリーンハルト同様、自分の顔も真っ赤になってしまっているのだろう。
その様子を見て、父は一瞬目を開くと、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか、思っていたよりもずっとイーリスと仲がよさそうで、ホッとしたよ」
伝え聞くイーリスとリーンハルトの夫婦仲をずっと心配していたのもしれない。
だからこそ、今目にしたイーリスとリーンハルトの様子に、微笑ましそうにしながら一緒に歩きだす。
父とリーンハルトが並んで前を歩く様子を見ながら、イーリスも母と兄弟と一緒に歩きだした。
「到着したばかりだけれど、大丈夫? 準備の間、少しだけ休憩をしたら、あとは国境を越えるまでは、馬車で休みなしになるけれど」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
そう言いながら母は成長したイーリスの姿を嬉しそうに眺めている。その側で、ニックスがイーリスへと話しかけた。
「リエンラインってどんなところなの? ここよりも南とは知っているけれど」
「ええ、もう花が咲いているわよ。着いたら暖かくて、きっとびっくりするわ」
そう話しながら、家族と一緒に歩いていく。そのイーリスとニックスと母の様子を見守り、兄も静かに微笑んでいる。
みんなの顔が笑みに包まれている。
やっと、家族と会えた――。
それが嬉しくてたまらない。
だから、笑いながら歩いていくイーリスの姿を、高い城の陰った窓辺からガルデン王が鋭く見下ろしているのには気がつかなかった。