第115話 六年前のもう一つの事実④
「ふう……」
部屋を出て、与えられた宿所へと戻る帰り、リーンハルトは肝が冷えたというように小さく声をもらした。
「まさか、あの話が伝わっていたなんて……」
あの話とは、昔陽菜と先に踊ったことだろう。以前、リーンハルトからは、イーリスとギイトの噂話を聞きたくなくて、それを止めるためにあの場で陽菜と踊ったと聞いていた。
一時の焦燥感と、貴族たちの噂話を止めたいからの行動だったが、それが、まさかイーリスの兄の耳にまで伝わっていたとは。
「ごめんなさい。お兄様が、まさかそれであんなことをしてくるなんて……」
「いや、これぐらいですんだことに感謝をしておく。あの眼差しだと、そんなことをするのならば、今後妹とは二度と踊らせんと言い出しかねない雰囲気だった」
「まさか、お兄様もそこまでは……」
とは思うが、自信はない。それぐらい、幼い頃、兄はイーリスを大切にしてくれていた。
ルフニルツで一緒に暮らしていた頃、怖い話を聞いたイーリスが、枕を抱えて兄の部屋の扉を叩けば、いつでもすぐに開けてくれたし、眠るまで蝋燭を灯したまま、側でずっと子守歌を歌ってくれたりもした。
もうそんな歳ではないと思いながら聞いていたが、側で響く兄の声はいつも優しくて――。
金色の髪を、自分のより少し大きな手のひらで撫でられていると、怖かった気持ちも次第におさまり、いつのまにか眠りに誘われていた。
今世でも前世でも、たった一人きりの兄――。
大好きで、気の強い自分でも、いつの間にか自然に甘えさせてくれていた。
そんな昔を思い出しながら、夜空を見上げれば、リエンラインよりはルフニルツで見たのに近い角度で星たちが並んでいる。
リエンラインの都よりも、北だからだろう。完全に同じではないが、見上げる星の位置は、昔ルフニルツで見た北の空にかなり近いものだ。
ふと気がつけば、護衛たちに守られながら一緒に歩いていたリーンハルトも、隣で同じように空を見上げている。
「いや、今回のことで、本当に、彼は君の兄なんだと身にしみて感じたよ――」
そして、と静かにルフニルツに繋がる北の空を見つめたまま、言葉を続ける。
「俺は、あの時、君の故国の危機に間に合わず、約束どおり助けることができなかったと、ずっと思い続けていたが……」
「リーンハルト……」
「だが――せめて、君の家族の命を助けることにだけは、間に合っていたんだな……」
アイスブルーの瞳が、星空を見上げながら揺れるように輝いている。その瞳がわずかに潤んでいるように感じた。
その眼差しに、胸が詰まる。
どれだけリーンハルトは、あの時のことを後悔し続けていたのか――。
民のためにと思って判断したことで、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
悔やんでも、全力を尽くしても、取り戻すことのできなかった幼い頃の苦い失敗。
後悔と後ろめたさで、イーリスの顔を直視することができなくなるほど――。
ずっと苦しい思いを抱え続けていた。
それだけに、先ほどの兄の話は、リーンハルトの心を揺さぶるものがあったのだろう。
――失ったものは大きかったが、どうしても守りたかったものが、一つだけは守れていた。
それを感じ、北の空で輝く星を見上げ続けているリーンハルトの腕を、そっと優しく横から取った。
「――ありがとう……。ニックスが、そしてお母様が、今も生きているのはリーンハルトのおかげだわ」
「イーリス……」
「嬉しかったの、家族を助けてくれて」
嘘偽りのない本当の気持ちだ。これだけは、ずっと六年前からリーンハルトに感じ続けていた。
だから、そう口に出して言えば、リーンハルトは泣きそうな瞳でこちらを見つめている。
「本当に、嬉しかったの。ありがとう……」
もし、ニックスがそんな殺され方をしていたら、自分はとても正気ではいられなかっただろう。
まだ幼い弟が、泣いて助け乞いながら、その首を斧で落とされただなんて――。そんなことになっていたら、きっとイーリスは、もう前のように過ごすことはできなくなっていたのに違いない。
どんなに泣いても叫んでも返ってこない命を前に、きっと眠ることも笑うこともできなくなってしまっていただろう。
どれだけ終わりの見えない絶望の中で、生きることになったのか――。
それを防いでくれた手の、今の大きさを感じながら、そっと包みこむように握り締めた。
「イーリス」
その姿を、リーンハルトの少し潤んだ瞳が映している。
「ありがとう……。俺は、六年前――ずっと間に合わなかったと思っていた……。だから、せめて君の家族の命を守れていたと知って、本当に嬉しい」
庭に焚かれた篝火の灯りで、きらりと、リーンハルトの目の端に、かすかな透明なものが光る。
そして、なにかに耐えるように一度俯き、また顔を上げた。
「――だからこそ、今回は、君の家族を完全に助けなければな。今度こそ、彼らを解放してもらえるように……」
「ええ、そうね」
泣いているように微笑んでいる姿の手を包みながら、そのまま見つめる。
「でも、交渉の様子では、ガルデンは、簡単に解放するつもりはなさそうね?」
「ああ、先ほどのヴィリの報告でも、ガルデンは、代わりにノルッシュバル地方の割譲を求めているという話だった……。だが、さすがに、それを受け入れるわけにはいかないし」
「そうよね……」
ノルッシュバル地方は、リエンラインの主要な鉄の産地だ。それを手に入れれば、ガルデンは軍事力を増強できるし、逆にリエンラインの国力は弱ってしまうだろう。
どうしたものかと考えこんだ時、建物からヴィリが、副使たちと一緒にやってくるのが見えた。
「陛下! お帰りが遅いので、どうされたのかと思いまして……」
慌てているのは、むしろ側にいる副使たちのほうだ。彼らはグリゴアがつけた優秀な忠臣たちばかりだから、戻ってこないリーンハルトのことが心配になったのだろう。
一緒にいるヴィリは、むしろ引っ張ってこられたという顔をしている。
その姿に、慌ててイーリスは謝った。
「ごめんなさい。今夜のうちに、どうしても兄と話しておきたいことがあったので……」
「お気持ちはわかりますから、ご無事ならばかまいませんが……。どうか、今後遅くなりそうなときは、こちらへ一言ご連絡をお寄越しください」
(とても、グリゴア系列の言動だわ……)
言葉が完全に、帰宅が遅い子供を心配する親のものとなっている。
(隣で、さすがにリーンハルトが頭を抱えているけれど……)
どれだけ、日々この手の言葉を、グリゴアが口にしているのか。そう思いつつ見つめたが、横でリーンハルトは苦い顔をしながらも頷いている。
「ああ、わかった。ところで、先ほどの交渉役との話では、ガルデン王の真意はどんな感じだった?」
ノルッシュバル地方の割譲を条件に出してきたが、ほかにもなにか取り引き材料になりそうなものがあったのかどうなのか――。
交渉の手応えについて尋ねると、「そうですね」とヴィリは副使たちと顔を見交わした。多分、それについては、先に話し合っていたのだろう。
「向こうの交渉役の様子では、おそらく、最低でも、それと同等の見返りは必要そうな雰囲気でしたが」
「同等――」
その言葉に、イーリスも、リーンハルトと一緒に考えこむ。
迂闊に、金銭などで払えば、それはガルデンの軍事力を増強させてしまう可能性があるだろう。
(さすがに、それはできないし――)
考えこむ側で、赤い篝火の炎が、イーリスの頬を照らしながら、一度大きくぱちりと弾ける。その音に目を上げ、ふと篝火の中で薪と一緒に燃えているものに、目を留めた。
そして、先ほど思い浮かんだことが、ふっと頭をよぎる。
その瞬間、はっと目を見開いた。そして、リーンハルトを急いで見つめる。
「だったら、この方法はどうかしら?」
思いついたことに、微笑みながら口を開けば、側にいるリーンハルトが首を傾けながら、イーリスを見つめてくるではないか。
「イーリス? なにか思いついたのか?」
「ええ。そして、これならば、ガルデンと交渉できる可能性があると思うの」
だから部屋で話すわね――と、どこにあるのかわからないガルデンの目を気にして微笑むと、リーンハルトは、その言葉の続きが気になって仕方がないような眼差しをしてから、一緒に歩き始めた。