第114話 六年前のもう一つの事実③
話を聞き終わり、イーリスは呆然とした顔で、瞳を開き続けていた。
「ニックスが……」
殺される寸前だったとは知らなかった。ガルデンが攻めてきてどんな目に遭っているのか――。当時心配でたまらなかったが、まさか断頭台に首を押しつけられるところまでいっていたとは!
記憶にあるのは、イーリスが嫁ぐときに、家族と一緒に見送ってくれたあどけない姿だ。それなのに、まさかその弟が、母と一緒に首を刎ねられる寸前だったなんて!
隣では、話を聞いたリーンハルトが同じように目を見開いている。身動くことさえ忘れたようになっているのは、今フレデリングから聞いた話が、あまりにも生々しくて衝撃的だったからだろう。
その前で、一度言葉を止めたフレデリングは、静かな面持ちでわずかに睫を伏せた。
「リーンハルト王には、本当に感謝をしております。あの時軍を出してくださったおかげで、弟と母の命が助かりました」
その言葉に、やっとリーンハルトの腕が動く。
「いや……遅くなって申し訳なかった。本当に、もう少し早く救援に駆けつけることができていれば……」
「当時、リエンラインの国内も大変だったと伺っております。だからと言って、それについてなにも思わないわけではありませんが……。私は、あの時遅くなっても来てくれた――そのことについて、本当に感謝をしているのです」
「お兄様……」
「そのうえで」
まだ言葉が震えるイーリスの前で、兄は俯いていた瞳を上げると、まっすぐに二人を見つめた。
「ニックスと家族を――リエンラインへ、一緒に連れて帰ってやってはくれないでしょうか?」
「え?」
突然の申し出に驚く。
「ニックスは、あの時のことがひどくショックだったのでしょう。もう十四歳なのに、一人になるのを嫌がり、年齢よりも、どこか幼く感じられます。夜もあの時のことを思い出して、たびたび叫びながら飛び起きることがあります」
「ニックスが……そんなことに?」
「はい、生活はガルデンで不自由のないものを与えられているのですが……。やはりあの時のショックがまだ拭えないのでしょう。リエンラインに行き、両親と一緒にイーリスの側で暮らせば、少しずつその記憶も薄らいでいくと思うのです」
兄の言葉に、思わずリーンハルトを見つめた。
すると、リーンハルトもニックスの状態は知らなかったのだろう。真剣な表情で、兄に口を開いていく。
「それは――、もちろんそのつもりだ。そのために今回の会談を申し込んだのだし」
「そうよ、家族全員をリエンラインに連れて帰るために、ここまで来たの。だから――」
安心してと言おうとしたのに、その前でフレデリングは目を伏せる。
「ありがとう。それを聞いて安心した」
だけど、と柔らかな声で続ける。
「私は、一緒には行けないんだ」
「え?」
その言葉に目を瞬く。
「ここに連れてきてもらうときの条件として、ガルデン王には、最初からそういう約束をさせられていたんだ。たとえ、家族のみんながリエンラインに行くことになったとしても、私だけは残ると――」
「そんな……!」
思いもしなかったことに兄を見つめる。すると、兄はにっこりと笑った。
「心配しないでくれ。実は、内々でだが、ガルデン王のご息女と婚約をしているんだ。それに彼女は、ガルデンの次期後継者だ。その王配になる私を、誰も粗略には扱えないさ」
だから、と――兄は、柔らかくイーリスに眼差しを注ぎながら続ける。
「今は、まずニックスと両親を助けてほしい。私は、ガルデンの次期後継者の夫となり、ルフニルツの共同統治者となることが決まっているから大丈夫だが、ニックスはそうはいかない。遠くない未来、彼女と結婚をすれば、今よりも不要になったニックスは、ガルデン王の手によって、必ずやなんらかの病気か事故に見せかけて殺されるだろう。母も――父だってわからない。だから、一刻も早くリエンラインに連れていってほしいんだ」
「お兄様……」
でも、と口を開く。
「それでは、お兄様だけが……!」
「心配はいらない。彼女は、本当に私のことを愛してくれているんだ。話は、ガルデン王からもちかけられたものだったが……。そのため、彼女はずっとジールフィリッド王の様子を観察して、先回りをし、私と家族たちを守ってくれていた」
今回のように、と兄は柔らかく笑っている。
それは、おそらく今回のジールフィリッド王のリーンハルトへの暗殺計画と、兄の安全を守るために手配されたこの建物のことを指しているのだろう。
その様子に胸が詰まった。
「だから、まずは家族を助けてやってくれ。彼女がガルデンを継ぎ、私がルフニルツの共同統治者となれば、また昔のように会うこともできるから――」
フレデリングの言葉に、首を振る。
「でも、お兄様だけを見捨てることはできないわ……! 必ず、お兄様も一緒に連れて帰れるように承諾をしてもらうから!」
「ありがとう、イーリスは昔と変わらず優しい子だね。ジールフィリッド王が相手では、難しいと思うけれど……。その気持ちだけでも嬉しいよ」
そう優しく笑ってくれる。
だから、諦めさせないように必死で見上げた。
「ううん、お兄様もきっと行けるようにするから――!」
「ありがとう」
そう優しく兄は微笑みかけてくれる。
(まさかお兄様が、リーンハルトの毒殺を止めるのにここへ来る代わりに、ガルデンに残る約束をさせられていたなんて……)
知らなかったとはいえ、そこまでの覚悟でしてくれていた兄の行動を、最初理解できなかったことに申し訳なさが湧いてくる。
(お兄様は、それだけ必死で、リーンハルトを守ろうとしてくれていたのに……)
自分は久し振りに会えたことが嬉しすぎて、兄がなぜそうしているのかわからず、様子が昔とは違うのを戸惑った眼差しで見つめてしまっていただろう。
思い返すと申し訳なくて、眦に少しだけ滲んだ涙を拭いながら、そのことについて謝る。
「そうとは知らず、晩餐会ではお兄様が、リーンハルトを毒から守ろうとしてくれている姿に気がつかなくて、ごめんなさい……。お兄様は、リーンハルトを必死で助けてくれていたのに」
「気にすることはないさ」
にっこりと優しい顔で、兄は笑っている。
「あ、でも、ダンスの件は、なにが隠されていたの? 私、それがどうしてもわからなくて……。だから、てっきりお兄様が六年前のことを誤解しているのかと思っていたのだけれど……」
申し訳なく思いながら、そう涙を拭って告げると、兄はさらに、にこりと笑った。
「ああ、あれは、単なる嫌がらせ」
あまりにも爽やかな笑顔に、その瞬間、体がこけそうになる。
「い、嫌がらせ!?」
あまりにも予想外の単語に、側にいたリーンハルトと二人ではもるように叫んでしまう。
その瞬間、目の前で、今まで柔和だった兄の顔が一変した。
そして腕を組みながら、リーンハルトを厳しい瞳で見つめているではないか。
「当たり前だ! 聞いた噂によると、リーンハルト王はちゃんとした正妻のお前がいるのに、ほかの女と先に一緒に踊ったそうじゃないか! そんなことを伴侶にされれば、どんな気持ちになるか――。一度、身をもって味わってもらわなければとリーンハルト王には以前から思っていたんだ!」
(お兄様が、本気で怒っている――!)
さすがに、この表情の変化には驚いてしまう。過去でも、たまにしか見なかった姿だ。
「そ、それは……確かに、申し訳ないことをした……」
言われたリーンハルトも、しどろもどろになって答えている。
「いくら相手が聖女とはいえ、そんなことを伴侶に公然とされればどんな気持ちになるか! 今回のことで、十分にわかっただろう?」
「はい……。二度としないようにいたしますので……」
(すごい! あのリーンハルトが、ぐうの音も出ずに謝っている!)
――どれだけ、イーリスがほかの男性と踊ることで、嫌な気持ちになったのか。
その前で、フレデリングは義兄らしい面持ちで組んでいた腕をほどいた。
「わかればよろしい。王の素質としては、君を買っているんだ。二度と妹を悲しませるようなことは、しないように――」
(ひょっとして……)
兄は、ずっとガルデンで、イーリスとリーンハルトの仲がうまくいっていないという噂を聞いていたのだろうか。
(だから、やり直すと知って、釘を刺しておいてくれたの?)
二度と浮気と思われるような真似はしないようにと――。
そのため、今回リーンハルトの毒殺を止めるために来ながらも、あんな態度を見せたのだろうか。
そう思うと、つい笑みがこぼれた。
それと一緒に、涙がぽろりと出てくる。
すると、途端に兄の顔が焦ったものへと変わっていく。
「イーリス、泣かないでくれ。そこまでお前の夫をいじめるつもりはなかったんだ。ただ、ちょっとお灸を据えようと思っただけで……」
その言葉に笑みを浮かべながら、兄を見つめる。
「違うの、そうじゃなくて……。ただ、お兄様が私を心配してくれていたのが嬉しくて……」
そう言うと、ふわりと抱き締められた。
「当たり前だ。大切なたった一人の妹なんだから――。だから絶対に幸せになってくれ」
二度と辛い思いなど味わったりしないように。
「任せても――いいんだろうね?」
今度こそと釘を刺すように見つめてくる瞳に、リーンハルトは首を竦めながら「はい、必ず幸せにしますので」と義兄の言葉に深く頭を下げた。