第112話 六年前のもう一つの事実①
今、兄はなんと言ったのか――。
青い花の刺繍がされた椅子の前に立ちながら、イーリスは目を開いたまま兄を見つめた。その横では、同じように息を呑んだリーンハルトが、フレデリングに視線を注ぎ続けている。
「お兄様、それはいったい……」
ほんの少しの言葉を出す間にも、口の中がひりついていきそうだ。ほとんど出てこない唾を無理やり飲み込んで、イーリスはなんとか話し続けられるようにしようとした。
その前で、兄は二人を促し、自分も同じように椅子に座ると、少し視線を俯かせたまま静かに話し出す。
「六年のあの時――」
フレデリングは、まだ八歳の弟と一緒に、必死で暗い隠し通路を走り続けていた。
「兄上、父上と母上はどうして一緒に逃げないの?」
少し前まで、イーリスと同じようにお父様お母様と呼んでいたニックスだが、成長してきたので、いずれ出る社交の場で王子らしく話せるようにと言われて、使い始めたばかりの呼び方だった。それをまだ慣れない感じで口にしながら、目の前で自分の手を引きながら走っている兄に尋ねる。
「父上と母上は、家臣がいるから逃げられないんだ」
そう話し、弟の手をぎゅっと握り締め、油に浸した布を巻いた松明を掲げた騎士たちに守られながら、地下の水路に沿って続く道を急ぐ。実際、ルフニルツの王宮に通じる暗い水路の向こう側からは、甲高い叫び声や時折騎士たちの戦うような音が響いてくる。
おそらく、もうガルデンの兵たちが、王宮の深部にまで乗り込んできたのだろう。
もうこれ以上はもたないと察した父と母が、フレデリングとニックスを呼び、王宮の聖堂から護衛の騎士たちと共に、隠し通路を使って逃げるようにと指示をしたときには、すでにガルデンの兵士たちは王宮の門を破っていた。
遠くから、味方の兵たちが多勢の軍に切り伏せられていくのを見て、もう捕らえられるのは時間の問題だと思ったのだろうが――。
今後ろから響いてくる叫び声を聞いていると、とてつもないほどの焦燥感が襲ってくる。
(父上! 母上!)
ぎゅっと手に力をこめるのとの同時に、唇を噛みしめる。
あの響く声の中で、今両親はどんな目に遭っているのか――。
「でも、それだったら、父上と母上は……」
幼い弟が、泣きそうな声で父と母を案じているその気持ちはわかる。実際、自分だって両親に頼まれたのでなければ、最期まで家臣たちと共に、父と母の側で戦いたかった。
ルフニルツの王太子として育てられたのだ。
たとえ討ち死にすることになったとしても、最期まで国のために戦えるのならば、どれだけ本望だったか――。
(だけど――)
握り締めた左手から伝わってくる幼い弟の温もりに、再度ぎゅっと手を握り締める。
(今は、なんとしてもニックスを助けなければ――)
臣下たちと一緒に戦いたいのが本音でも、自分たちまでガルデンに捕らわれては、ルフニルツは本当におしまいになる。
だからこそ、両親が自分に弟を託し、連れてリエンラインへ逃げるようにと望んだのだろうが――。
『手紙を送ったが……リエンラインからの援軍がまだ来ないのは、洪水があったせいで使者の到着に時間がかかっているのかもしれない』
そう話した父の姿は、眉根に深い皺を刻んでいた。
『だが、イーリスにとって、お前たちは兄弟なのだから、訪ねていけば、きっと助けてくれるはずだ』
(リエンラインさえ、来てくれていれば――!)
どれだけそう心で思ったか。だけど、嫁いで間もないイーリスの顔を思い出せば、その言葉を呑み込んで、ぐっと拳を握り締めることができた。
(そうだ、イーリス……)
つい先日嫁ぐのを見送ったばかりの、妹の顔が脳裏に浮かぶ。
嫁いで間もない国で、イーリスがどんな状態で暮らしているのかなんてわからない。
知らない国の慣れない場所で――。
ましてや、洪水があって、大変だったと伝わってきたほどだ。今、どんなふうに過ごしているのかもわからない。だが、それでもイーリスならば、訪ねていけば、きっと弟を匿ってくれるのに違いない。
だから、父の言葉に頷き、水路を使った宮殿からの脱出用の道を急いでいたのだが――。
後ろのほうから、だんだんときな臭さをともなった煙が立ちこめてくる。暗い闇の中に、薄い煙の色が漂ってくる。
押し入った兵たちとの戦いで、燭台などが倒れ、宮殿のどこかで火がついたのかもしれない。
(急がなければ! ガルデンの兵たちが、この水路の道に気がついて、追いかけてくる前に!)
そう思い、水路に沿った通路の端にまで辿り着くと、松明を捨てた騎士たちに周囲を守られながら、水以外は通れないように作られている金属の格子戸の鍵を開け、緑の蔦に覆われている出口をくぐった。
宮殿は背後にある山脈とは少し離れた小高い丘の上に立っている。その下に続く水路沿いの道を抜ければ、森の中の小川の側へと出られるようになっている。
(早く、リエンラインにまで行かなければ!)
そして、ひょっとしたらまだついていないのかもしれない使者に代わって、ガルデンの襲撃をリエンラインの王に訴えれば、大急ぎで援軍を寄越してくれるかもしれない。
そう思って森の中に入り走り続けたのに、ガルデンの騎士たちはもうここにもやってきていたのだろう。突然、灰緑色の服を着た騎士たちが、木陰から現れると、フレデリングたちの姿を見て、声をあげた。
「何者だ!?」
(しまった!)
服の色が、保護色となってガルデンの騎士たちが、森の中にいるのに気がつかなかった。
急いで、平民の服を纏った護衛の騎士たちが、フレデリングとニックスを守るように前に出たが、ガルデンの兵たちは、じっと二人の子供たちの姿を見つめている。
「その年格好――捕らえろと指示のあったルフニルツ王家の兄弟のものに近いな」
「なんのことだか――私たちは、ただこのあたりを通りかかっただけの町民です。家に来ていたこの子たちを、戦が始まったので、親元まで送ってあげようとしているだけですよ」
そう護衛の一人が答えたが、ガルデンの兵たちは、じっとフレデリングたちの姿を見つめている。
「それにしては、片方の瞳の色が金色だな……」
「偶然ですよ。ルフニア人なら、金色に近い瞳なんて珍しくもありません」
「確かにそうだが、見つけ次第捕まえろと指示があったのは、金色の髪の兄弟で、片方は金色の瞳をしているという話だった。おい、念のために、その子供の髪に水をかけてみろ」
その言葉に、はっと目を見開く。
急いで逃げるために、髪は染めてはおらず、二人とも頭に髪粉をかけただけだ。今は白い灰色がかった色に見えているが、もし兵たちに水をかけられれば、本当は金髪だというのが、すぐにばれてしまう。兵たちが手に持った水筒に目を留めた。
「騎士様たち、ご冗談はやめてくださいよ。ただの子供たちです」
護衛の騎士たちが、なんとか誤魔化そうとしているが、近付いてくる姿にニックスは怯えて、ただフレデリングの手を掴んでいる。
「兄……」
呟きそうになったその言葉に慌てて口を手で塞いだ。貴族の言葉遣いなのはばれなかったが、泣きそうになっているニックスの瞳に視線を止めたのだろう。
「おい、こいつの睫金色だぞ!」
(しまった……!)
さすがに、睫にまで髪粉をつけることはできない。
「おい、捕まえて確かめろ!」
そう叫ぶと、遠慮なく手が伸ばされてくる。そのガルデンの兵たちの手に、もうこれ以上誤魔化すのは無理だと悟ったのだろう。護衛の一人が剣を抜いて構えた。
「おい、こいつらただの子供ではないぞ! 捕まえろ!」
「金色の瞳を持つ兄、金色の毛を持つ弟! 捕まえろと指示のあったルフニルツの王太子たちじゃないか!?」
次の瞬間、目の前が戦闘状態となり、切り結ぶ音が響いてくる。
(せめて、ニックスだけでも逃がさなければ!)
そう思って逃げ出せる方向を探ったが、多勢に無勢だ。すぐにガルデンの騎士たちによって周りを囲まれ、護衛たちが相手の剣に次々と叫びをあげて倒れる中で、フレデリングの頭がぐいっと一人の騎士の手によって掴まれた。
そして強引に髪の毛を掻き分けられる。
「やっぱり兄のほうも髪の根元が金色だ! おい、ルフニルツ王家の兄弟が見つかったと陛下に知らせろ!」
(――しまった!)
だが、そう思う間も、弟を連れ去られないために、両手で守るのが精一杯だった。