第111話 兄との話
夜の闇の中で、イーリスに向かって走ってくる兄の息が白い。顔の前で、その色がはっきりと見えるのは、慌てて呼吸を繰り返すほど、急いでこちらへ向かって走ってくるからだろう。
「イーリス!」
叫びながら駆けつけると、リーンハルトに抱き締められていたイーリスのすぐ側まで近寄って、顔を覗き込む。
金色の瞳が、池の側に灯された松明の光を受けて、ゆらゆらと輝きながらこちらを見つめている。
「イーリス……大丈夫だったか……?」
そう尋ねる声は明らかに動揺していて、フレデリングにとっても今の事態がどれだけショックだったのかがわかる。
「私は、大丈夫よ……。リーンハルトと騎士たちのみんなが助けてくれたし」
「そうか」
イーリスに怪我がないことを間近で確認して、ホッとしたのだろう。焦っていたフレデリングの顔が、ハッキリと緩んだ。
「リーンハルト王、イーリスを助けてくださって感謝いたします」
「いや、感謝を述べるのは、こちらのほうだ」
その言葉に、フレデリングがわずかに首を傾げる。不思議そうなその姿に、リーンハルトは、先ほどの女官が既に背中を向けて立ち去っているのを確かめてから、周囲にはリエンラインの騎士たちしかいないのを見定め、そして顔を向けイーリスとそっくりな金色の瞳を見つめた。
「先ほどの食事の時、俺があの料理を食べたりしないように守ってくれたのだろう?」
「お気づきでしたか……」
「ああ、幼い頃から、もし食事の時に、少しでも食べるのを止めるような素振りをする者がいれば、その料理には、絶対に口をつけるなと教えられてきたからな」
「リーンハルト……」
それはおそらく、毒殺に加担している者がいた場合、良心が働いて起こる動きだからだろう。
その言葉に、思わずアイスブルーの瞳を見つめてしまう。
「だから、これはひょっとして、あなたからのなにかの警告ではないかと思ったんだ」
「ええ、毒見でわかるのは、すぐに効く毒の場合だけですから。味や匂いを料理で隠し、あとからじわじわと効いてくるような毒の種類だったら、気づかずにあの場で口にしてしまうのではないかと思ったのです」
「お兄様……」
静かに話している二人の顔を、イーリスは地面にまだ膝をついたままの姿で見つめた。
(では、やはりあの料理には毒が入っていたのだわ――)
改めて、先ほど部屋にいた時に頭に浮かんだことが事実だったとわかるとゾッとしてくる。
「ガルデン王のやり口は、だいだい理解しています。何年間も側で見てきましたし」
(でも、それならば、あのダンスの時はどうして……)
兄の言葉に、もうひとつの疑問が頭に浮かんでくる。
今の流れでは、兄がリエンラインを恨んでいるのかどうかはわからない。しかし、六年前のことを知らなかった可能性もあるのならば、正式な会談の前に、やはりきちんと話しておかなければならない。
だから、ギュッと手を握り締め、急いで口を開いた。
「お兄様、あの六年前のことなのだけれど……!」
(もし、お兄様が、六年前にリエンラインに裏切られたと、少しでも思っているのなら……!)
やはり、心にしこりはあるだろう。
そのため、急いで口を開いたが、そのイーリスの様子に気がついたからか。
少し離れたところから、ガルデンの騎士たちが歩いてくる姿を見て、フレデリングはまだ座っているイーリスへと手を差し出してきた。
「ここでは、体が冷える。イーリスは、ガルデンの夜の寒さは初めてだろう?」
おそらくガルデンの騎士たちの目を気にしているのだろう。
だが、そう言われてみると、足元からは本当に這うような寒気が漂ってくる。ガルデンで夜を過ごすのは初めてだが、吐いた息が一瞬で白くなっていくような底冷えのする寒さだ。厚めの生地で仕立てられた服から出ている手が、あっという間に、かじかんでくる。外套を着ていなかったために、思わず体を震わせたイーリスに気がついたのか。フレデリングが、自分が纏っていた毛皮をそっとイーリスに羽織らせると、地面から立たせ、二人に向かって池の側の館を指し示した。
「あちらで、話しましょう、あそこならば、暖かいし安全です」
そう言うと、赤茶色の石で造られたすぐ近くの館へと二人を案内していく。
その建物に、護衛してくれている騎士たちも伴って入ると、中はフレデリングの言葉どおり、まるで春のような空気に満ちていた。きっとペチカで、建物中が暖められているからだろう。
そこの一室にイーリスとリーンハルトを通し、扉の前に騎士たちを護衛のために残すと、フレデリングはパタンと扉を閉めた。そして、ゆっくりと二人に眼差しを向ける。
「どうぞ、座ってください。ここは、私を慕ってくれているガルデン王女の好意で、誰も承諾なしには近寄れないようにされております」
そう話すと、中に歩き、二人に青い花の刺繍がされた椅子を勧める。
そして、リーンハルトの正面に立ち、丁寧に頭を下げた。
「先ほどは、公式の場で料理の交換を願い出るなど失礼なことをいたしました。そのうえで、改めて六年前のお礼を申し上げます」
「お兄様……」
(では、お兄様は、六年前のことを、なにも知らないわけではなかったのだわ……)
てっきり牢にでも閉じ込められていたのかと考えていただけに、ホッとしてイーリスが見ると、その前でフレデリングは下げていた金色の頭を静かに上げていく。
しかし、その瞳はひどく暗いものだ。
「あの時、リーンハルト王が兵を出してくださらなければ――」
そして辛い記憶を思い出すように、ゆっくりと口を動かした。
「弟は、もう少しで殺されるところでした」
その突然告げられた兄の言葉に、イーリスの金色の目は咄嗟に大きく開いた。