第110話 夜の中で
扉を開けると、部屋の入り口を守っていたリエンラインの騎士たちが、出てきたイーリスの姿に声をかけた。
「王妃様、どちらへ?」
いつの間に、こんなに部屋の前にいる騎士たちの数が増えていたのだろう。イーリスの気がつかないうちに警備を増強する命令が出されていたのに驚いたが、目の前にはずらりと騎士たちが並んでいる。その中から、顔を知っている二人を選んだ。
「少しだけ兄に会ってきたいの。申し訳ないけれど、コーエンとロジャー、一緒についてきてくれないかしら」
「イーリス!?」
後ろの室内から焦ったリーンハルトの声が響いてくるが、今しか兄に会える時間はない。
「ごめんなさい、ちょっとだけだから」
敵国だから危ないのは承知しているが、念のために護衛を二人連れていけば大丈夫だろう。
(なんとしても、今日のうちにお兄様に会って、真実を話さなければ――!)
このままではガルデン王との会談が成功しても、リエンラインには行きたくないと、ひょっとしたら家族が言い出すかもしれない。いや、狡猾にここまで何度も交渉を打ち切ろうとしてきたガルデン王のことだ。リエンラインから譲歩を引き出したあとでそうなるように、すでに家族へなにかを仕掛けている可能性もある。
だから、二人の騎士たちと共に急いで廊下を進んだ。小走りで進むと、廊下には、いつの間にかリエンラインの騎士と兵士たちが、イーリスたちの宿所を守るように、ずらりと左右に詰めかけている。
「王妃様、どちらへ?」
口々に驚いた声をかけてくるが、これなら、すぐ下にある池に行くまでぐらいならば大丈夫だろう。
「少しだけ、兄に会ってくるだけだから」
そう答えて、石造りの階段を急いで下りる。
初めての場所だから、方角以外は完全に手探りだ。
「王妃様、お待ちください!」
護衛を頼んだ騎士たちが、小走りのイーリスの側を遅れないようにとついてくる。こんな歩き方は、王妃らしくはないが、時間があまりないのだ。副使たちとの話し合いが始まる前に、また先ほどの部屋へ戻らなければならない。
だから、イーリスの部屋から、すぐ下に見えていた庭へと急いだ。ここに到着したときに、兄と出会った場所だ。おそらくそれから考えると、ガルデン王が最初に兄がいると言っていた池の側の建物とは、その横に見たもので間違いがないだろう。
足の速い護衛たちが、小走りになっているイーリスの横を守るようについてくる。
だから、その二人を引き連れ、建物から外に出ると、寒い空気の中に先ほど通った城の入り口から庭へと続く道が目に入った。
(この先へ行けば――)
夕食を終えた兄は、きっとその建物にいるはずだ。
(もう少し……! もう少しでお兄様に本当のことを説明できるから!)
そうすれば、兄がリーンハルトにあんな眼差しを向けることもなくなるだろう。
だから、夜の闇の中に出て、急いで池の側にある建物へと向かっていく。
池の側にあるのは、小さな館だ。全体が、柔らかな赤茶色の壁で造られ、庭の常緑樹の間で、優しい彩りを放っている。池の側に灯されたいくつもの篝火の向こうに見えるその建物に視線を注ぎながら急ぐと、今まさに茶色く塗られた玄関の扉を開けて、その中へと入っていこうとしている金の髪の姿があるではないか。
「お兄様!」
咄嗟に、手を持ち上げて、イーリスはその姿に呼びかけた。
「イーリス?」
怪訝そうに金色の瞳が振り向く。しかし、その瞬間、強張ったようにその目が見開かれた。
「危ない! よけろ!」
「えっ!?」
なんのことかわからず、反応が遅れてしまう。
その瞬間、同じように石造りの階段を下りて、イーリスを追いかけてきていたリーンハルトの声が後ろから響いた。
「イーリス!」
ひどく焦った響きに、思わず後方を振り返る。
すると、城の入り口に続く道から、一頭の馬がこちらへと凄まじい勢いで走ってくるではないか。
尻尾に火がついているところを見ると、熱さで半狂乱になっているのだろう。鬣を振り乱し、夜の帳の中で、そのまま自らについた火に追い立てられるように蹄を駆りながら、土埃を上げて、池の側にいるイーリスへと迫ってくる。
ドドドと轟くような蹄の音が、馬の姿とともに近付いてきた。
「コーエンとロジャー! イーリスを守れ!」
「はっ!」
建物から走ってきたリーンハルトのその言葉に、イーリスより先に振り返っていた二人の近衛騎士たちが、馬との間に立ち、ただちに武器を構える。
「ヴェアナー! 二人を援護しろ!」
リーンハルトについていた護衛が、その一言と同時に急いで駆け寄ってくる。
だが、馬の蹄はもうほんのすぐ目の前だ。
目の前で道を塞ぐように立っているイーリスに気がついたのだろう。そのまま両脚で跳ね飛ばす勢いでこちらへと迫ってくる。
護衛の一人であるコーエンが、急いで構えていた槍を、イーリスを守るように、前で横向きへと掲げた。
突然できた障害物に驚いたのか。馬がいななきながらそのまま踏み潰そうとする勢いで、目の前に蹄を持ち上げていく。視界の中に広がったあんな力強い脚で腹を蹴られれば、イーリスの内臓は潰れてしまうのに違いない。
思わず体が固まって動けないでいると、駆け寄ってきたリーンハルトが、イーリスの体を両腕で包んで、馬の蹄の前から横へと転がっていく。
その間に、イーリスの護衛をしていたロジャーが、馬の横に回り、胴体を鞘に入れたままの剣で殴った。その瞬間、両脚を高く掲げていた馬の体のバランスが崩れる。
「殺しはするな! ガルデンにこの場で交渉を打ち切る口実を与えることになる!」
そのリーンハルトの言葉で、後方から駆け寄ってきていたヴェアナーが、馬体の傾いた後ろ脚を槍の柄で打ち、完全に地面へと転倒させた。
どうっという重たい音が、土煙とともに馬の体を大地へと沈めていく。
暗がりの中で、もうもうと土煙が立ち上った。
(いったいなにが起こったのか――)
あまりにも一瞬過ぎて、なぜ今目の前でこんなことが起こっているのかがよくわからない。
ただ、もう少しで死にかけたという事実だけが、外の寒さと一緒にイーリスの身へと迫ってきた。地面についていた手が、ひやりとした感触を心へと伝えてくる。その冷たさに、知らないうちに体が震えだしていたのだろう。イーリスの様子に気がついたリーンハルトが、細く震える両肩を強く掴んで覗き込んでくる。
「大丈夫か? 避けるために、咄嗟に転がったが……痛いところはないか?」
――守ってくれたのだ。
馬の前に出れば、リーンハルトだって危なかっただろうに。馬の脚に蹴られる危険がありながらも、騎士たちと一緒に助けてくれた。
その事実に、ようやく竦んでいた心臓から、血が体に巡ってくる。
「あ……ありがとう、私は、大丈夫……」
そう答えれば、ふわりと抱き締められた。
「よかった……。なんともなくて……」
包んでくれるリーンハルトの腕が、まだ冬の寒さをもつガルデンの夜の中で、とても温かい。その温もりに心がホッとしてくる。
(守ってくれたんだわ――)
そう思うと、今までに何度も抱き締められたことのある胸なのに、今日はひどく広く感じた。幼い頃から知っていたその体が、今ではイーリスを守ってくれるほど大きくなっている。
その事実に、冷えた心がひどく安心してくる。
リーンハルトの香りのする腕の中で息を吸い、やっと心が落ち着いた。
だけど、どうしてこんなことが起こったのか――。
気持ちが落ち着いて、ようやく周りを見回すと、いつの間に近付いていたのか。暗がりの中で、城の入り口のほうから海松色の髪を一つに纏めた女官が、今馬が走ってきた道を歩き、ゆっくりとイーリスへと声をかけてくる。
「大丈夫ですか?」
案じている言葉なはずなのに、声はひどく無機質なものだ。心配しているというよりも、ただイーリスの状態を確かめているだけのような――。
「馬を連れた兵士が篝火の側を通ったときに、火の粉が尻尾に飛んで暴走したそうです。幸い、お怪我はなかったようですね」
まだ座ったままのイーリスとリーンハルトの様子を、錆浅葱色の瞳でジッと見つめながら話している。
どうしてだろう。ガルデンに来るのは初めてなのに、なぜか、過去にこれとどこか似たようなことがあった気がする。
あれはたしか――と、イーリスが考えこむ間も、横たわりながら熱さに暴れていた馬は、騎士たちが池から汲んだ水によって尻尾の火を消されていく。その馬の姿にジッと視線を注いだ。その様子を遠くから見ていたせいだろう。
「イーリス!」
焦ったように、暗い道をこちらへと走ってくるフレデリングの声がするではないか。
「お兄様!」
その声に、イーリスは金の髪を乱して走ってくる兄の姿へと、考えこんでいた瞳をハッと向けた。