第109話 交渉内容
もしも、兄があの時のリエンラインについて誤解をしているのだったら――。
イーリスの背中を嫌な冷たい汗が流れていく。
(ひょっとして、お兄様はリーンハルトが、ルフニルツを見捨てたと思っているの!?)
リエンラインが動いたのは、ルフニルツがガルデンに占領されてから。
すでに囚われの身になっていた兄や家族が、それ以降の詳細について知らなくても無理はない。
いや、それどころか、家族は、ガルデンがルフニルツを襲った時に、リエンラインへ救援を依頼する手紙を送っていたのだから、なぜ約束どおりに助けに来てくれないのかと、燃え上がる戦火の中で、ずっと絶望的な思いで待っていたのかもしれない。
(リエンラインさえ、約束を守って来てくれれば――!)
ルフニルツも家族も、こんな状態にはならずにすんだのにと、この六年間、ひょっとしたら、兄はこの言葉を何度も脳裏で繰り返していたのではないだろうか。
気がついた事実に、イーリスは金色の目を見開きながら、息を呑んだ。
(そうよ……。リエンラインが、六年前に求めた交渉について、ガルデンがお兄様たちに、そのまま伝えているとは限らなかったのよ……!)
当時、特使たちは、イーリスの家族が無事に生きていることを直接会って確かめはしたそうたが、周囲をガルデンの騎士たちに囲まれた状態の本当に短い時間で、本人たちだと確認する以上の話はほとんどできなかったと伝えていた。
だとしたら、ガルデンはそのことについての真実を、どこまで家族に伝えていたのか――。
ひょっとしたら、今回交渉を断らせようとしたときみたいに、いろいろな手を使い、リエンラインが当時救助の手を差し伸べていたことを知られないように、ただ単に援軍を出せなかったお詫びの使節が来たとかと誤解させるように話していたのかもしれない!
(だとしたら――)
テーブルに置いた自分の手を見つめたまま、イーリスの頭の中では恐ろしい言葉が木霊していく。
(お兄様や家族たちのみんなは、六年前、リエンラインがルフニルツを見捨てたと思っているのかしら……)
そんなことはないのに――。
実際イーリスは、この六年、ガルデンにいる家族を忘れたことはなかった。リーンハルトにしても、あの時の救援の遅れについては、自分の失敗として、ずっと引きずり続けていたのだ。それからのリーンハルトの人生のすべてに、この時ルフニルツとの約束を守れなかった影が、色濃く漂うことになったというのに――。
(どうしよう……!)
たまに交わす手紙では、家族はみんなイーリスのことを気遣ってくれていたから、その可能性には気がつかなかった。だが、考えてみれば、いつも手紙で、自分たちのことよりも、遠い国にいるイーリスを気遣うような文が書かれていたのは、その夫であるリーンハルトに対して、なにか思うところがあったからではないのだろうか!?
「どうしよう、なんとかしてお兄様に、本当のことを伝えないと……!」
このままでは、家族のみんながリーンハルトについて、誤解したままになってしまう。
焦った時、扉が、再度外から叩かれた。
「陛下」
そう呼びかける声は、外を守っている護衛たちものだ。先ほどまでのことがあったから、何事かと一瞬ビクッとしたが、続く言葉で胸を撫で下ろす。
「ヴィリが戻ってまいりました。お目通りを願っておりますが、通してもよろしいでしょうか」
「ああ、入れ」
交渉役同士の、事前の折衝が終わったのだろう。だから、リーンハルトがその名前に答えると、それと同時にノブが回されて、扉が薄く開かれた。
「だから! お前は、なんでこんな距離如きで迷ったんだよ!?」
その瞬間、賑やかな声が廊下から響いてくる。
「初めてのところなのだから、仕方がないだろう!?」
「それで、なんで本来ならば案内されるべき私のほうが、お前の話から場所を割り出さねばならん!?」
見れば、開いていく扉の向こうでは、ヴィリの横にギイトが並んで、激しく言い争いをしているではないか。その様子を、二人のうしろに立ったコリンナが、水挿しを持ちながら、呆れた様子で眺めている。
「だいたい、その侍女を迎えに行ったのなら、その当人が迷っては本末転倒だろうに――」
今の言葉で、おおよその事情がわかった。
それと同時に、動いていた扉が全開となる。
「ヴィリ、すんだのか」
その様子に、聞いていたリーンハルトも半眼だ。
その顔には、「この非常時に、お前たちはなにをやっているんだ……」という雰囲気すらも漂っている。
もしくは、気のせいかもしれないが、イーリスとの時間を邪魔されたのを、少しだけすねているような感じだ。そんな会話をするぐらいなら、その時間の分だけは二人きりにしろと言いたげな気配だが、さすがにヴィリの持っている情報は後回しにはできなかったのだろう。
リーンハルトの呆れたような表情に、ヴィリは、喧嘩をしていたギイトからパッと身を離すと、こちらへとカツカツと近寄ってくる。
「陛下、事前の交渉が終わりました」
真っ直ぐに歩いてくるその後ろでは、今まで喧嘩をしていたギイトは完全に放置だ。悔しそうな表情だが、今はそちらのほうが大事だからと黙っているギイトの様子からすると、きっとこのふたりの関係は、昔からこんな感じだったのだろう。
「ああ、どうだった、ガルデンとの事前交渉は」
「話になりませんね」
リーンハルトの言葉に、近付いてきたヴィリが、手がつけられないというように一つ大げさに肩を竦めている。
「陛下がおっしゃったように、イーリス様のご家族との交換条件として、リエンラインからは、過去に同盟国の援軍として参加した戦いで、捕らえたガルデン軍の捕虜たちについての返還を申し出たのですが……。王族と平民とでは、同等には扱えないと突っぱねられまして」
「長年の間に、捕虜たちの数は千人以上になっているが、それでも不満か?」
「あれは、不満というよりも断ることが目的ですね。それで代替え案として、もう一つ用意していた『互いの国の領土について、キネンライヒデ暦千二百年一月一日の権利をもって保全する』という項目を持ち出して、話し合ってみたのです」
こちらは、お互いの領土権についての確定だ。他国に侵略を繰り返すガルデンが現在占領している地域の中には、リエンラインが過去に援助したり姻戚関係にあったりした者たちが治めた土地もある。直接の紛争にはまだなってはいないが、過去に関係があった以上、それがいつでも火種になりうるから、その年月以前にガルデンが占領したところについては、リエンラインはすべての過去の権利を放棄し、ガルデン領として認めるという意味だ。
同時に、その地域が今後他国との間で紛争になったときでも、この日付に基づき判断するという意味にもなるから、直接なにかを得ることはできなくても、ガルデンにとっては得な条件なのには違いない。
しかし、その項目でも苦虫を噛みつぶしたようなヴィリの表情からすると、相手は納得をしなかったのか。
「せめてキネンライヒデ暦千二百五年以降のでないと、受け入れられないと言われまして……」
「それは無理だ。その期日では、ルフニルツ王国の領土をガルデンが保有しているのを、リエンラインが正式に認めることとなる」
ガルデンがルフニルツを攻めたのは、キネンライヒデ暦千二百四年のことだ。
その期日で認めれば、ガルデンがルフニルツ王国の土地と王族を手中にしている、現在の状況をも一緒に認めることとなる。
それは、ヴィリもわかっているからか。
「ええ、ですから当然断ったのですが……」
少し面倒そうな話を思い出した声で、言葉を続ける。
「代わりにガルデンからは、リエンラインの北部のノルッシュバル地方を割譲するのならば、受け入れてもかまわないと言われまして……」
「なっ……!」
思わず、聞いていた二人の口から言葉が飛び出した。
「それは、できないわ! いくらなんでも!」
ノルッシュバル地方は、鉄の豊富な鉱脈を持つ地域だ。そんなところをガルデンに奪われれば、リエンラインの国力そのものに影響する。
「つくづく、足元を見てくるつもりだな……!」
リーンハルトも忌ま忌ましそうな顔をしている。
「ノルッシュバル地方の鉄は、商業のみならず、リエンラインの軍事力を支えている、それだけ大事な地域だ。こちらが受け入れられないとわかっていて、あえて持ち出すとは……!」
「決裂してもかまわないというのがあからさまですね」
呆れたように、ヴィリも大きく肩を竦めている。
(決裂――)
その言葉に、イーリスの心が大きく動揺する。
「とはいえ、ガルデン王と会談までして、なにも成果無しですませるわけにはいかない。とりあえず、明日の国王同士の直接交渉までに、なにか別な手を考えよう。これだけでは足りないのだったら、ほかに、もっと、なにか相手が頷くようなものを用意できないかどうか――」
きっと相手は、素直にイーリスの家族を渡す気など最初からないのだろう。この交渉がご破算になってもかまわず、もし対価として、より高いものを引き出せるのならば――と考えているのかもしれない。
(でも、それだと――)
また、家族と離ればなれになってしまう。
「やっと、会えたのに……」
考えただけで、胸が締めつけられるような気分だ。いや、今度はただ離れるだけではない。遠くにいる家族が、リエンラインが裏切ったと考えているかもしれないと思ってすごすことになるのだ。
「大丈夫だ、イーリス。これから副使たちも集めて、ほかの方法を考えるから」
「ええ、そうね……」
言葉では返したが、胸にはまだ不安が渦巻いている。
家族が、もしも六年前のことでリエンラインを恨んでいるのだったら――。
そんな国へ、今回交渉が成立したとしても、本当に来てくれるのだろうか。
(ううん、ひょっとしたら、リエンラインを憎んで、行きたくないと思っているかもしれないわ!)
家族がガルデンでなにを知らされていたのか――。
(だめだわ、一刻も早くお兄様のところへ行って、リーンハルトへの誤解を解かないと……!)
兄に話して、真実を知ってもらうことができれば、きっと家族にもそれが伝わるはずだ。
急いで、周囲を見回した。
「副使たちとの話し合いは、すぐに始まるの……?」
「いえ、さすがにみんな休みなしだったので、私が陛下に報告へ行く間に、少しだけ軽食を取らせております」
「そう」
では、始まるまでには、もう少しだけ時間があるはずだ。
窓の外に、先ほど兄と会った池が見えるのを確かめてから、急いで踵を動かした。
「ごめんなさい。今の間に、もう一度だけお兄様と話をしてくるわ」
「イーリス!?」
驚いたようにリーンハルトがこちらを見つめてくるが、遅くなって兄が寝てしまっては、もう話すことができない。
ましてや明日では、誤解を解く間があるのか。なかった場合に、リエンラインに来てくれるのかどうかもわからない。
(なんとしても、今日中にお兄様の誤解を解かないと――!)
「イーリス様!?」
そう決意すると、驚くギイトやコリンナを置いて、急いで部屋の扉を開けた。