第108話 六年前の出来事
六年前のあの日――。
曇天の下、援軍に向かおうとしていたリエンラインの騎士団の前で響いた声に、思わずイーリスは息を呑んだ。
「ルフニルツ王国が落ちました――!」
「ひっ……!」
ぼろぼろになった服を纏い、血を滲ませた片腕を押さえながら告げる兵の言葉に、目の前が真っ暗になっていく。
――間に合わなかったのだ……!
出かけた叫びを呑み込んだが、脳裏では家族の姿が、ぐるぐると渦巻いている。
日だまりの宮殿で遊んでくれた幼い頃の兄の姿。寝ている顔を覗きこんで、ちょんと触ったぽっぺのぷにぷに具合がかわいかった弟。寝ながら笑った顔が愛らしくて、はしゃぐイーリスと兄の姿に、しーっと言いながらも、側で優しく見つめていた両親。
脳裏にその姿がかけめぐって、喉が震えていく。無事なのか、それとも既に――。戦火が彼らの命を呑み込んだかもしれない恐怖に、身動くことすらできない。
しかし、息さえもができないような苦しみに囚われていたイーリスの側では、鋭い声が飛んだ。
「それでイーリスの家族は!?」
「は、はい。生きたままガルデンに捕らえられたと――」
「イーリス……」
青い顔で、リーンハルトがこちらを見つめる。無言だ。だが、なにかを言わなければ――。
「私は大丈夫よ……。家族は……無事だから……。まだ生きているのよね……」
必死で息をしながら、言葉を紡いだ。かろうじて微笑んだつもりだったのに、手足はがくがくとしてくる。今自分は立っているのだろうか。それとも震えているのか、どこを見ているのかすらもわからない。ただ動転した視界に、真っ青になって立ち尽くしているリーンハルトの姿が映った。
そして、次の瞬間、ぎりっとリーンハルトの唇が引き結ばれる。次いで、全軍へ向かってその手を挙げた。
「作戦を変更する!」
「え……」
驚いたのは、イーリスだけではなかったようだ。ハッとして、涙が溢れそうになっていた目を上げれば、リーンハルトは周りに立つ将軍たちに、鋭い声で命じているではないか。
「これよりイーリスの家族の命を助け、同時にルフニルツの地へ無用の略奪を行わせないための作戦に変更する! 騎士団はそのまま出陣! ただし、ルフニルツとの国境線上に並び、交渉の次第によっては、いつでも攻撃をしかけられるように待機をしろ!」
「はっ!」
ぱっと歴戦の猛者たちが頭を下げていく。
「外務省は、同盟国プロシアン、それから隣国サフレニツにも手紙を送れ! 今回のことで共にガルデンの脅威に晒されることになる国だ。レンニルツ、リンゼルツにも使者を送れ! ルフニルツがやられた以上、彼らも明日は我が身だ。できる限りの交渉を尽くして、ガルデンとの国境線に威圧のための兵を送らせろ!」
「はっ!」
「それと、ガルデンの王に親書を送る。もしイーリスの家族やルフニルツの国内で無用の虐殺があれば、これらの国で一斉に攻撃をしかけると――。なんとしても――ガルデンを交渉の場に引きずり出せ! そして、イーリスの家族やルフニルツの民をこれ以上殺させるな!」
「はいっ!」
その後ろから、ひとりの甲冑を纏った姿が近付いてくる。
「今回は、俺も出征させてもらうぜ。若輩でも王族が一人ぐらいいたほうが、相手にリエンラインの本気度が伝わるだろう」
にっと笑っているのは、リーンハルトの従兄弟のバルドリックだ。
「お前の考えはわかったぜ。任せておけ、将軍たちと最高の威圧をかけてやる」
「バルドリック。助かる」
ふっと笑っていく姿は、傍から見ていても頼もしいものだ。
その光景に、胸が詰まって、声が出てこない。
必死でみんながイーリスの家族と占領されたルフニルツを助けようとしてくれている。
ありがとう、そう言いたいのに、胸が詰まって言葉がうまく出てこない。
だが、イーリスと一瞬視線が合ったリーンハルトは、 後ろめたいというかのように目を逸らした。
まるでイーリスの顔を見た瞬間、どうしようもなく、罪悪感が湧いてきたかのように――。
それからのリエンラインの動きは、慌ただしかった。
なにしろ、ルフニルツがまだ国として保ち、そこへ進撃してくるガルデンを、現地の民や騎士たちと一緒に迎え撃つのとは、話が違う。
各国が、リエンラインからの要請に応えて、ガルデンとの国境線上に兵を配置してくれるのかどうかもわからない。
だから、必死で各国との連携を図ろうと頑張ってくれているリーンハルトに、これ以上自分のことばかりは言えず、ただみんなの手伝いをしながら家族の無事を祈って過ごした。
「大丈夫ですよ、イーリス様」
「そうです、きっとご家族の命は助かりますから」
側に来たギイトや女官たちが、口々に励ましてくれる。
「ありがとう、みんなを信じるわ――」
それしか言うことができない。
わかっている。今は、もう援軍を送ればよかっただけの時とは、状況が違う。
ガルデンと戦って、ルフニルツの家族と国土を取り戻してくれ――などとは、とてもリーンハルトに言うことはできない。
リエンライン自体が、まだ天災で受けた傷痕が癒えず、もし戦いとなれば、最短の補給路の確保ができない状態だ。
援軍の時ならば、ルフニルツの民や騎士たちと一緒に、その地の砦を使って戦い、ガルデンを迎え撃つことを考えればよかったが、今この状態で戦うとなると、被災から回復していないリエンラインが、ガルデンと一騎打ちをすることになる。
だから、それを避け、家族とルフニルツの無事を得るためには、今回のリーンハルトの作戦に賭けるしかないのだが――。
わかってはいても、手の空いた時に、ひとりで部屋に座っていると、家族が今どうしているのか不安でたまらなくなってくる。
(お父様、お母様、フレデリング兄様。ニックス――)
その顔を思い描いていると、気がつけば涙がこぼれていた。
連絡を待っている時間が無限にも感じられてくる。
(今、家族は無事なのかしら――)
家族が捕らえられた場面を、遠くから見ていた女性から伝え聞いたという話では、ルフニルツの国王と王妃は、攻めてきた騎士たちの剣と槍に何重にも囲まれて、まるで罪人を引き立てるようにして連れていかれたらしい。
両親は、せめて子供たちだけでも逃がそうとしていたのだろう。
集められた話によると、宮殿から脱出を図った兄弟たちは、抜け道から出てまもなくのところでガルデン兵に見つかり、手かせを嵌められたうえで連行されていったそうだ。
王を守っていた騎士たちや大臣たちは、ガルデンが宮殿を攻めたときに、容赦なく殺されたと聞く。それだけではなく、邪魔になると判断されたルフニルツの地方領主たちは、進軍して征服されるや否や、処刑されたり、ガルデン兵たちによって牢屋に投獄されたりしているという話だ。
伝え聞いた内容を思い出せば、さらに涙があふれてきた。
(お父様、お母様。それにお兄様にニックス! ルフニルツで会ったみんな! どうか無事でいて――)
今は祈ることしかできない。だから、膝の上で震えながら組んだ手に目を落とし、そのまましばらく祈り続けた。しかし、後ろで、ふと聞こえてきた音に、扉のほうを見つめる。
いつのまに、リーンハルトが来ていたのだろう。開いた扉の隙間から、なにも言わずに部屋の前から立ち去っていく後ろ姿が見えるではないか。
(リーンハルト……?)
心の中でその名前を呟いたが、廊下から聞こえた声からすると、走ってきた官僚に呼ばれたのだろう。
実際、リーンハルトは、あの宣言をしたあとから、大量の連絡に忙殺されていた。
瑞命宮の執務室で、地図を広げ、それを見ながら指示をする。
「すべての外交カードを使え! なんとしても、今回の作戦を各国に協力させろ!」
「はっ!」
そう命じる言葉に、慌ただしく官僚たちが動いていく。
間もなく、最初の返答がもたらされた。
「プロシアンから連絡が届きました! 交わした同盟に則り、兵を出してくださるそうです!」
「サフレニツからも返信が来ました! ガルデンがルフニルツを攻め落としたと聞き、さらなる侵攻に備えて、兵を用意していたそうなので、そのままルフニルツとの国境線上に軍隊を展開してくれるそうです!」
「レンニルツ、リンゼルツからも返信がありました! ガルデンと戦うまでの力はないが、威圧のための兵ならば、国境に配置してもよいと――! 特にレンニルツは、今回ルフニルツの隣なので、万が一に備えての軍の用意は既にできているということです!」
「よし」
その言葉にホッとした。ルフニルツが落ちてからすでに何日かたっている――。
間に合うのかどうか、完全に賭けだ。
今も家族が生きているのかどうかさえわからない。
それでも、最初に出陣したバルドリックが、王の名代として率いている軍勢は二手に分かれ、既にルフニルツと、もう一箇所離れたトロメンの国境線上に並び、ガルデン軍と対峙していると聞く。
その姿が現れてから、それまで躊躇なくルフニルツの国内を蹂躙していたガルデン軍の動きが、明らかに変わったらしい。
そして、息のつまるようなにらみ合いが続く中で、各国による包囲網が完成して間もなく、次の知らせがリエンラインにもたらされたのだ。
「ガルデンから、イーリス様のご家族とルフニルツの待遇についての交渉に応じるという返答が来ました!」
ハッと、イーリスは瑞命宮で必要な書類の確認をしていた手を止めて、顔を上げた。
「ガルデンが交渉に応じたか!」
リーンハルトも机の前で両手をついて立ち上がっている。
(ガルデンが応じた――!)
「はい! さすがにガルデンの南から西への国境線上に包囲網を敷かれたのは、無視することができなかったのでしょう。いくらガルデンの兵が強いとはいえ、ルフニルツと戦った直後ということもあります。次々と呼応する各国の軍を見て、交渉の席につくという返答を寄越したようです!」
「やりましたな!」
そう、官僚たちが声をかけあっている。
それを聞いて、ホッとした。
もし、ガルデンが交渉の使者に応じず、戦闘を選んだ場合は、血みどろの展開となっていただろう。
いくらガルデンからの脅威とリエンラインとの長年の親交で、軍を出してくれたとはいえ、リンゼルツ国とレンニルツ国には、そもそもガルデンと正面切って長期間戦うほどの力はない。今回は、ガルデンを牽制するために国境線上に軍を出してくれたが――、実際の戦闘となれば、いずれ守りに徹するしかなくなるのは目に見えていた。
そうなると、ガルデンと対峙するのは、必然的にリエンラインとプロシアン、そしてサフレニツの三カ国となる。この中でも、サフレニツはガルデンと接する国境線が今回のルフニルツ滅亡でできたばかりなので、戦況次第ではどう動くかわからない。他国の戦闘を見て、不利だと思えば、あくまでも自国の防衛を優先するだろう。
その場合、プロシアンが協力してくれているとはいえ、最終的にガルデンと全面的に対峙することになるのは、今回の盟主であるリエンラインだ。全面戦争となれば、洪水でまだ最短の補給路の確保などが難しいリエンラインには、厳しい戦いとなる。
とはいえ、それはガルデンにとっても賭けだ。もしもガルデンの軍が一部でも崩れれば、そこに対峙している国の軍と、その左右にいる国の軍勢とが一斉に牙を剥くだろう。
包囲網が長い。それは、各国の集まりであるこちらにとっても弱点であるが、同時に対抗するガルデンにとっても戦力が分散され、各場所では防備が薄くなるということでもある。
互いに、厳しい戦いとなる可能性があるだろう。
だから、最初からこの作戦の狙いは、ガルデンを交渉の場へと引きずり出すことだったのだ。
それゆえ、成功したことに安堵の息が洩れる。
「イーリス様、よかったですね」
「ええ――」
かけられてくる女官たちの声に、本心からその言葉が出た。
既に国を征服した相手への交渉が、どれくらい難しいのか――よく知っている。
ガルデンにとっては、折角手に入れたルフニルツだ。簡単に譲歩することはしないだろう。
ましてや、王族であるイーリスの家族は、ガルデンがルフニルツを支配したことを示すための大きな駒だ。民たちに恐怖と支配者の交代を示すために、公開処刑とするのか。それとも、人望のあった王を民たちへの人質とするために、誰も近寄れない監獄へと押し込めるのか。
どちらの未来もあり得る。
そんな不安があったからこそ、しばらくして、再度の知らせが北からもたらされた時には、本当にホッとしたのだ。
「ガルデンから、イーリス様のご家族の命を保証するという協定書にサインをしてもいいという返答が来ました!」
その知らせに、わっと執務室が沸く。
「ガルデンが承諾したか!」
「はいっ! 最初は、交渉の席に着くのも渋っておりましたが、さすがにあの数を相手にして、正面から戦うのは、自国の軍にも手痛い打撃を受けると思ったのでしょう。こちらと停戦協定を結ぶことを条件に、イーリス様のご家族の処刑は行わず、全員を王族として国賓並みの待遇で扱うという返答が来ました」
その回答に心の底から安堵した息がこぼれる。
「ルフニルツの民たちについても、領主の爵位は剥奪するが、今後それ以上の虐殺や略奪は行わないという回答を得ました!」
「うむ」
強くリーンハルトが一度頷く。そして、気になることを尋ねるように、使者を窺った。
「それで、イーリスの家族の解放については――」
「それにつきましては、ガルデンとしては、ルフニルツの民に、彼らの元王を丁重に扱っている姿を見せたいと言われまして……。どうしましょうか。こちらで妥結をするか、さらに条件を引き出すべく包囲網を続けるかになりますが……」
その言葉に、リーンハルトの机に置かれていた手が、握り締められていく。
「イーリスは……」
伝わってくる、この一瞬に、どれだけリーンハルトが苦悩しているのかが。
この協議は時間との勝負だ。もし、どこかの国でなにかの問題が起こり、軍を引き上げざるをえなくなれば、包囲網自体がくずれかねない。そうなった場合、交渉は下手をすれば、白紙に戻るだろう。
だから、あのルフニルツ陥落を知った日と似た言葉が、イーリスの唇からはこぼれてくる。
「私は――大丈夫よ……それで、家族は生きられるのですもの……」
たとえ、それが長く――家族に会えなくなるのかもしれない言葉だとしても。
死んで、互いに違う世界の住人となり、二度と会うことができなくなるのよりはずっとマシだ。
殺されないと聞いた時、どれだけホッとしたか――。
(生きていれば……いつかは、また会うことができるかも、しれないもの……)
だから、そう思い、少しだけ微笑んで返すと、ギュッとリーンハルトの拳が握り締められた。
「そうか……」
そして、一度強く目を瞑り、眉根を寄せて決断のひと言を口にする。
「では、それでガルデンと協定書を作るようにしてくれ。そして、ルフニルツとイーリスの家族の処遇について、違反をしていないかの確認を、定期的にガルデンに対しては行わせるように――」
「はいっ!」
王の言葉で、慌ただしく特使と包囲している関係国への知らせが走っていく。
その前で、リーンハルトは俯いたまま、強く拳を握り締めていた。
そして、間もなく、軍を引く代わりに、イーリスの家族の命と王族としての国賓待遇の保証、そして元ルフニルツ王国の民たちの保護と過剰な搾取は行わないと記した協定書が、ガルデンとリエンラインの間で交わされ、各国の同意の下にもたらされたのだ。
(よかった……)
その協定書を、イーリスは目に涙を浮かべながら見つめた。
(これで、家族は生き続けることができるわ……)
生きていれば、いつかは会うことができるかもしれない。
そのことに深く感謝をする。
そして、それを確認して間もなく、威圧に協力してくれた国には、丁寧にリーンハルトとイーリスの名前で、お礼の手紙とそれに見合う品を贈った。みんな、リエンラインと以前から交流のあった国たちだ。
「いつかの恩を返せて良かったです」
「ガルデンの行動には前から脅威を感じていましたので。今回相手に釘を刺すことができましたな」
過去から付き合いのあった国たちは、交渉がうまくいったことを喜び、そんな手紙を返してくれる。
――ありがとう。
そうイーリスは、心の中で、何度も呟いた。
だから、この件について、リーンハルトを恨んだことは一度もなかったのたが――。
ただ、それからリーンハルトは自分を見るたびに、辛そうな顔をした。
(あの時の!)
てっきりイーリスは、このことはルフニルツの家族たちも知っているものだとばかり思っていた。
だが、よく考えてみれば、当時捕虜になっていた家族たちが、どんな場所でどう捕らえられていたのかまでは知らない。ひょっとしたら、牢や塔などに閉じ込められて、外部の声は一切聞こえないようにされていたのかもしれないではないか。
たまにイーリスが使者に託して、家族に送る手紙でも、ガルデンの検閲が入る可能性があったので、政治的なことについては書かないようにしていた。
(だけど、もしもそれでお兄様が、あの時リーンハルトがルフニルツを見捨てたのだと誤解をしているのだったら――!)
あの眼差しも納得ができる。
ゴクリと喉が鳴り、嫌な予想に冷や汗が出てきた。