第107話 二人きりの部屋で
案内されたイーリスの宿所は、城から石造りの廊下で続いた棟の一角だった。
部屋の横にある窓からは、最初に兄と会った庭が見下ろせ、池の水面には松明の明かりが穏やかに輝いている。
部屋の内装も、柔らかな木槿色のタペストリーで彩られ、女性をもてなすのにはふさわしい部屋だろう。
だが、その部屋の奥に横たわる緋色シーツがかけられたベッドには、入っただけでイーリスの体が硬直してしまう。
(ええっ! やっぱり、寝台はひとつよね!?)
それは当然だろう。元々、ここはイーリスだけが宿泊する予定だったのだ。
それなのに、突然リーンハルトが自分もここに泊まると言い出したのだから、部屋に寝台がふたつ用意されているはずがない。
「あの……こちらのお部屋になりますが、寝台のご用意がお一人用のがお一つだけでして……」
案内の者も、それが気にかかっているようだ。
「先ほどの御宿泊所ならば、おともの方々にも広々としたお部屋がご用意してありますが……」
「かまわん」
しかし、リーンハルトは戸惑っている案内の者に、振り向きすらせずにそう返す。
「俺の侍従は、ギイトと同じ部屋で寝ればいい。コリンナは、女官用の部屋が用意されているのだろう?」
「あ、はい。それは、もちろんすぐ側に」
さすがに、おつきの者たちのは、男女で分けて用意してあったらしい。
「では、そこにギイトを案内してやれ。コリンナにはあとでギイトから伝えるように」
そう言うと、部屋からさっさとギイトと案内の者を追い出す。
「では、あの私はお茶でも――」
そうコリンナが部屋の中を見回しながら言うと、リーンハルトがそれを制した。
「その前に、部屋の中を護衛たちに確認させる。コリンナは、外にいるリエンラインの兵たちのところへ行って、イーリス用の水をもらってきてくれ」
「お水を――ですか?」
「ああ、慣れない土地の水は、腹を壊す。イーリスのためにも、飲み慣れた水のほうがいいだろう」
「わかりました」
そうぺこりと頭を下げると、すぐにコリンナは出ていく。
そして、護衛たちが部屋の確認を終えるのと同時に、室内には二人きりになってしまった。
(どうしよう……。一緒に寝るだなんて……!)
これは、ひょっとしてあのギルニッテイの時の再来なのだろうか。
あの時は、ハンナが助けを求めに来たために流れたが、神殿に帰ってから、確かにあの時イーリスはリーンハルトに続きをしてもかまわないというようなことを言った気がする。
(ええっ、まさか今!?)
せめて、もう少し心の準備期間を用意してから言い出してほしい。嫌なわけではないし、予定ではあと半月ほどで、再婚するのだ。
そうなれば、当然そうなるだろう。
そう、たった半月――。
(なんて、思えないわよ! せめて、もう少し早く話してくれていれば!)
心の準備ができたのに――。
真っ赤になった顔を俯せて考えこんでしまう。
それとも、リーンハルトの認識では、再婚をすると決めた以上、旅行に出れば一緒の部屋になるのが普通なのだろうか。もしくは、本当にガルデン王が、イーリスの部屋へやってこないかと警戒して、こんなことを考えついたのか。
(どっちかはわからないけれど、こういう場合、私はどうしたらいいの――!?)
落ち着け、落ち着けと心の中で繰り返す。頭を冷静にしようとしても、なかなかうまくはいかない。
「イーリス?」
部屋の真ん中で真っ赤になって百面相をしているイーリスに気がついたのだろう、リーンハルトが不思議そうにこちらを見つめている。
「どうした? 顔が赤いが――」
「あ、うん……外が、寒かったから……」
言い訳をしたが、かなり苦しいものだ。だが、その顔にリーンハルトが心配そうに近寄ってきた。
「そうか、コリンナが戻ってきたら、温かい飲み物を用意してもらおう」
話しながら覗きこんでくる顔が、ひどく近い。アイスブルーの瞳が、もう顔のすぐ前だ。口付けの時のような距離感に、ドキドキとしてくる。
(やっばり、リーンハルトの目の色って、とても綺麗だわ……)
こんな時なのに頭に浮かんだのはそれだ。それとともに、今の距離の近さに余計に顔が赤くなってくる。
(近いって!)
どうしよう、それなのにリーンハルトから目を離すことができない。
(こういう場合って……やはり、このまま流れに身を任せるべきなのかしら……)
嫌いではないのだから、別に同室を拒否するつもりはない。
いたわるように、髪に触れてくるリーンハルトの手にさえドキドキとしてくる。
(ただ、こういう場合どうしたらいいのかがわからないだけで――)
こうして見つめ合っているだけで、心臓が破裂してしまいそうだ。
なにか言わなくてはいけないと思うのに、言葉が出ないままリーンハルトの瞳を見つめていると、後ろでコンコンと部屋の扉を叩く音がした。
「失礼します。メイドがまいっておりますが」
護衛の声に、ハッとする。それと同時に、助かったと思った。こういう場合、どうしたらいいのかわからなさすぎて、赤くなったイーリスは心臓が破裂寸前だった。
「ああ、入れ」
そう返したリーンハルトの冷静な声で、メイドの姿をした女性が篭を持って入ってくる。
「失礼いたします。部屋をもう少し暖めさせていただきますので」
特に寒くはないが、人の出入りが続いて扉の開け閉めが多かったので、念のためにと思ったのかもしれない。
礼をした女性が頭を起こして進むと、部屋の壁の側に設えられていたペチカの蓋を開けて、持ってきた篭の中のものを入れていく。
「あら?」
ふと、その手元に目がいった。
「それは、土みたいだけれど?」
薪と一緒にあるものに目が留まる。
「はい、この辺の土は燃えるのです」
「え、それって……」
まさかと思ったが、その間にも、女性は仕事を終えると、篭に道具を入れてさっさと立ち上がっていくではないか。
(あああ! そんなにすぐにふたりきりに戻さないで!)
せめてもう少し今の空気を変えてからにしてと思ったのに、仕事を終えた女性は、粗相がないようにと思ったのか、急いで扉まで戻ると、頭を下げて出ていく。
そして、バタンという音とともに、またふたりきりに戻されてしまった。
(どうしよう……)
またリーンハルトとふたりきりだ。今度こそ、逃げ場がないだろう。
「イーリス?」
どんな顔をしたらいいのかわからなくて、下を向いて瞳をさまよわせていると、リーンハルトが怪訝に思ったのだろう。
「どうした? 今のメイドが持ってきたものに、なにかあったのか?」
「いえ、それはたぶん問題ないと思うけれど――」
問題は、今のリーンハルトとのこの距離と状況なだけで――。
「そうか」
そう言うと、リーンハルトはゆっくりとイーリスを覗きこんでくる。前よりもさらに近づいた距離にドキドキとしてしまう。
一度落ち着いた心臓が、今度こそ破裂しそうだ。
(本当に、破裂したら、心臓って治療できるのかしら――)
そんなことを考えている間にも、リーンハルトの顔は、ゆっくりとイーリスの首の側へと近づいていく。
そして、ひどく冷静な声で告げた。
「だが、油断はするな。ガルデン王が、なにを企んでいるのかわからない」
その言葉にハッとして見つめた。
「リーンハルト?」
よく見れば、こんな状況にも拘わらず、リーンハルトの瞳はひどく冷めた青い色をしているではないか。いつもとは違う様子に、なにを言いたいのかと、真意を尋ねるように名前を呼ぶと、リーンハルトの顔が、さらにゆっくりとイーリスの耳元へと寄せられた。
「先ほど俺が案内された建物だが――」
そして、内緒話を囁くように声が潜められる。
「入れば閉じ込めて、外から焼き討ちができる造りになっていた」
告げられた言葉に、金色の目を見開く。咄嗟に、首を動かして、横にあるリーンハルトの顔を見つめた。
「木で造られていただろう。そして、周囲から孤立した建物だった。俺たちを中に入れた後、玄関の両扉の取っ手に金属の棒をかければ、そのまま閉じ込められる。さらに、兵たちと引き離し、寝静まった頃を見計らい、それぞれの宿舎の周囲に薪を積んで火をつければ、外から焼き殺すことも可能だ」
耳打ちされた内容に、ゾッとしてくる。
「では、あの建物に案内したのは、ガルデン王がリーンハルトを殺そうとして……?」
今までの浮わついていた気持ちが、完全に飛んだ。見上げれば、側でアイスブルーの瞳がひどく鋭く輝いているではないか。
「ガルデン王がそのつもりで用意したのかどうかはわからないがな。フレデリング王子の様子がおかしかった件もある。念のため、用心しておくのに越したことはないだろう」
その言葉で、舞い上がっていた先ほどまでの気持ちが完全に消え、さらに心臓が冷たくなった。
(そうだわ、お兄様――)
どうして、レセプションの席であんな態度をリーンハルトに取り続けていたのか。
「それに、君を一人でおいておいては、あの女たらしが本当にいつ忍び込もうと企んでくるかわからないからな。どちらにしても、一緒にいたほうが安全だろう」
そう話すリーンハルトは、先ほどまでとは違い、少しだけ赤い顔でコホンと咳払いをしている。
しかし、その間も、イーリスの脳裏では、先ほどのレセプションで見た兄の様子が甦り続けていた。
(そうよ、どうして、お兄様はリーンハルトにあんなことを……)
いくら十三歳までだったとはいえ、王太子としての教育を受けてきた兄ならば、国賓の料理を自分に出せということが、どれだけ非常識なのかはわかっているはずだ。
しかも、一口も食べてはいなかった。
(――まさか)
嫌な予感が沸き起こる。
いや、だがもしそうだったとすれば、なぜ兄はイーリスと先に踊りたいと言い出したのか。
それも、リーンハルトに対しては、大変失礼な行為だとわかっていたはずなのに。
敢えて、公式の場で失礼な振る舞いをするなど――まるで、なにか恨みでもあるかのような行動ではないか。
(――ひょっとして……)
別の嫌な予感が膨れ上がってくる。
兄は、六年前のことを誤解しているのではないだろうか。
(もしかしてお兄様は、ルフニルツが六年前にガルデンに滅ぼされた時に、リエンラインがそのまま見捨てたと勘違いしているのでは……)
だから、リーンハルトにあんな態度を取ったのではないだろうか。
金色の目を見開いたイーリスの脳裏で、六年前のルフニルツ滅亡の時のことが、まざまざと甦ってきた。