第106話 前哨戦⑤
「あいつ……!」
イーリスの横で肩を抱えながら建物の外を歩いているリーンハルトが、呻くように小さな怒りの言葉をこぼしている。
「よくも、イーリスにあんなことを……!」
それが、先ほどのガルデン王の言葉か、体が密着しそうなほどダンスで抱き寄せられたことを指しているのかはわからないが、とりあえずリーンハルトの怒りを招いたのは間違いがないようだ。
「あの、ごめんなさい。外交慣例だったから、断れなくて……」
特にイーリスがなにかをしたわけではないが、今のリーンハルトが怒っているのは、先ほどイーリスがガルデン王を選んだために起こったことだ。あの場で選べなかったことを小さく謝ると、リーンハルトの手は、さらに強くイーリスの肩を引き寄せた。
「君のせいではない。ただ、人の婚約者に手を出そうとしている女たらしに、とことん嫌悪感と吐き気と殴りつけたい衝動に駆られているだけだ!」
(うーわあー!)
今までの中でも、怒りのレベルが最高潮だ。
これは、あと一つなにかあれば、自制できる範囲を超えてしまうかもしれない。
「あの……でも、心配しないで。踊りながら、私が考えていたのは、やっぱりリーンハルトと踊るのが一番安心できる……と、いうことだったから……」
言葉にするのが恥ずかしくて、つい口ごもりながら話した。
すると、今まで怒りに任せて、案内役のあとを歩いていたリーンハルトが、ふと足の速度を緩める。
「イーリス」
そして、今の言葉を口にしたイーリスの顔を覗きこんできた。その顔は、明らかに驚いているものだ。
だから、その瞳に背中を押されるようにして、もごもごと続けた。
「リーンハルトが踊る時に、いつも私の動きに合わせてくれていたのがわかったの。ガルデン王もダンスがうまくて動きやすかったけれど、いつもとは違うから、やっぱり変な緊張感があって……。それで、私が一番安心して踊れるのは、リーンハルトだと気がついたの」
(ちょっと、私! なにを言っているの!?)
ふだんならば、地面を掘ってでも決して口にはしない言葉だ。それなのに、なぜか今は自分の恥ずかしさよりも、リーンハルトに不安に思ってほしくはなくて、口から出てきてしまう。
(あああ! これだと、なんか私にはリーンハルトが一番いいのと言っているみたい!)
いや、たぶんそういう意味に受け取られているだろう。
(あれ? これって、ひょっとして、私が好きなことを遠回しに伝えている!?)
自分ではそこまで考えてはいなかったが、今の言葉は、どう受け取ってもその意味だ。
(穴があったら入りたい……!)
どうして、自分は今ここにスコップを持ってこなかったのか。
せめて木の陰にでも隠れたいと思ったのに、周囲を探すよりも前に、リーンハルトの胸に強く体を引き寄せられる。そして、抱き締められた。
「イーリス」
上から降ってくる声は、ひどく甘い。
「そうか。俺はなんでだって君の一番でいたいんだ。君が一番安心して踊れる相手が俺なのなら、これからもその座に居続けられるように頑張るよ」
「う、うん……」
見上げた顔は、ひどく甘く微笑んでいる。イーリスの中で、自分が一番の場所にいる。それが本当に嬉しいようだ。
アイスブルーの瞳が、外に灯された松明の明かりに煌めいていて、胸がドキドキとしてくるのを止められない。
(こんな感じは、ほかの人には抱かないわ……)
甘くて、胸がきゅっとしてくる。それなのに、その感覚さえもが、ひどく嬉しいもので――。
だから、素直に言葉が滑り落ちた。
「そうね……、覚えていてくれたら、嬉しいわ。私にとっての一番があなたなのだって……」
こんな気分の時でなければ、絶対に口にはできない言葉だ。普段ならば、考えただけで床に穴を掘りたくなるだろう。
それなのに、今日は素直に言葉がこぼれ落ちた。きっと、リーンハルトがとても嬉しそうにしているからだ。
そして、ぎゅっともう一度抱き締められた時、前を歩いていた案内役が足を止めた。
「こちらが、リエンライン国王陛下の御宿泊所となります」
そうランプを掲げながら、案内役の女性が示したのは、ひとつの瀟洒な建物だった。
白い木の壁に、モスグリーンの屋根。それらが、ぼんやりとした夕闇の中に浮かび上がっている館は、いかめしさよりも、過ごしやすさを重視したかのような清楚な造りだ。
「中には、主だった騎士の方たちも入っていただけるようになっております。ほかに連れてこられました兵の方たちは、城の聖堂を宿泊所として使っていただけますように、これからご案内をいたしますので……」
聖堂ならば、かなり広い。全員が入れるかはわからないが、廊下も使った雑魚寝を前提とすれば、夜の寒さをしのぐことはできるだろう。
「ほう――」
夕闇の中に浮かび上がったモスグリーンの屋根の建物を、しばらくリーンハルトはその場でジッと見つめた。
「俺にこの建物を用意したと」
「はい、リエンライン国王陛下は国賓なので、私どもとしましても、精一杯のおもてなしをさせていただくつもりでおります。それとイーリス姫様には、中庭の近くにある建物の一棟に、そのお部屋をご用意させていただきましたので」
「え? 別々なの?」
これまで視察などで外泊をすることがあっても、建物まで別れることはなかった。
しかし、ガルデンの案内役は、丁寧に頭を下げている。
「再婚なされるご予定とはいえ、それはもう少し先と伺いまして――。それならば、独身の女性に則ったお迎えが相応しいかと思い、お部屋を分けさせていただきました」
「そう――」
国賓として、より配慮してくれたのかもしれない。ただ、このガルデンで、リーンハルトと離れることに一抹の不安を感じるだけで。そう思いながら答えると、側では地へと響くような低い声が聞こえた。
「あの女たらしめ。どんな手を使っても、俺とイーリスを引き離すつもりか」
「えっ!? リーンハルト!?」
「一晩、俺からイーリスを離してなにを企むつもりだ」
折角収まっていた怒りが、どうやら今の言葉で再燃したらしい。
そして、一度手を離していたイーリスの体を強く引き寄せた。
「配慮には感謝するが、他国でイーリスを一人過ごさせて寂しい思いをさせるわけにはいかない。俺は、今夜はイーリスのところで一緒にすごすこととしよう」
「ええっ、リーンハルト!?」
今聞いた言葉に、驚いてしまう。
(それって、つまり今晩は同じ部屋で寝るっていうことよね!?)
ギルニッテイの時は、有耶無耶になってしまったが、まさかここでまた同じ事態になるとは――。
額に汗が出てくるが、リーンハルトは焦っている案内の者にも平然としている。
「それと兵たちには、今待機させている前庭で、そのまま夜営をさせるから気遣いは無用だ。騎士団長、兵たちに三番の陣形で夜営をするように伝えろ」
「ハッ」
そう言うと、リーンハルトにしたがっていた騎士団長が急いで身を翻していく。それを確かめてから、リーンハルトは案内役へと再度口を開いた。
「では、俺たちは、イーリスの宿所へと案内してもらおうか」
――まさか、ガルデンでこんな事態になるとは!
目の前の状況に、どうしようと焦り、赤くなってくる。それでも、イーリスは止めることができず、案内役をせかせるリーンハルトと一緒に歩き出した。