第105話 前哨戦④
突然のジールフィリッド王の言葉に、イーリスとリーンハルトの目が大きく開く。
その前で、近寄ってきたジールフィリッド王は、雄々しさを感じさせる顔で、ゆっくりと微笑んだ。
「国賓をもてなすのが主催者の役目だ。リエンライン王は男だから、それならばこの場は、慣例に従って、俺が異性の国賓であるイーリス姫と踊るのが、一番ふさわしいと思うのだが……。いかがだろうか?」
「それは――……」
まさか、もっと面倒な相手が名乗り出てくるとは思わなかった。
「ジールフィリッド王。主催者として国賓をもてなすために踊るのならば、陛下との関係性から考えても、私がイーリスの相手を務めても問題はないかと思いますが……」
「まあ、フレデリング王子の言い分もわかるが、この場は俺の顔を立ててくれ。リエンライン王にも、もてなしの相手として、俺の娘を連れてくればよかったな。バランスを欠いて、不調法になったことは詫びよう」
だが、と笑うと、イーリス前に鍛えられた手を差し出してくる。
「その分、俺にガルデンとしてのもてなしを、リエンラインからのお客人にさせてくれ、イーリス姫」
そう言われては、断ることができない。
王が異性の国賓をもてなすためにファーストダンスを踊る――それは、外交慣例としては一般的なことだからだ。
ちらりと、リーンハルトとフレデリングの顔を眺めた。
(これ以上、この場で揉めるわけにはいかないし――)
だいたい先ほどといい今といい、どうして、兄は突然この場を乱すようなことを言い出してくるのか。
だが、リーンハルトの顔を潰さずに、また兄にも穏便に引いてもらうためには、ここではガルデン王を選ぶしかない。
だから、差し出されてくる広い手を仕方なく取った。
「わかりましたわ」
もてなしをお受けいたしますと言って、手を重ねると、視界の端でリーンハルトがひどくきつく眉を跳ね上げている。
(今だけだから!)
お願いだから、少しだけ我慢して、と隣にいる険しくなった顔に思うが、こちらを見つめてくるリーンハルトの顔は完全に鬼の形相だ。その視線を感じながら、晩餐の席の横で待ち構えていた楽団の前へと歩いていく。
(この場を収めるために、やむを得ないとはいえ――)
後ろから見つめてくるアイスブルーの視線が、剣のように二人の背中に突き刺さってくる。
もし、ここでなにかあれば、即座にリーンハルトは本当の剣を抜くかもしれない。
(とにかく、早く一曲終わって!)
そう思いながら、始まった曲に合わせて、イーリスは向かい合わせになったガルデン王の手を取った。
側にいる楽団が奏で始めたのは、昔からある有名なダンスの曲だ。これを選んだのは、おそらくガルデンの宮廷には縁のないイーリスでも知っている曲をという、相手方の配慮なのだろう。
だが、踊りだしても、日頃一番相手になっているリーンハルトのものとは違う体格には、やはり困惑してくる。片腕を互いに持ち、もう片手を背中に添えて踊る曲だが、リーンハルトよりもガルデン王のほうが肩幅が広いせいだろうか。いつもよりも少しだけ広く伸ばす腕の感覚に戸惑ってしまう。背中に添える手も、リーンハルトよりも胸の筋肉が厚いせいだろう。ふだんよりも奥まで意識しなければ背中に届かないのに違和感が拭えない。
手を握られて踊りが始まった時には、相手と動きが揃うかと不安になった。
(あら? こうして考えると、リーンハルトって、いつも私の動きに自然に合わせてくれていたのね?)
イーリスよりも背が高いのに、踊る時の動きで不安になったことは、一度もなかった。きっとそれを感じさせないように、幼い頃からイーリスの伸ばす腕の長さや、ステップの速さを覚えて動いてくれていたのだろう。
(今頃気がつくなんて――)
そういえば、たまにほかの人と踊った時には、奇妙な違和感があった。
そのことを思い出していると、様子からイーリスが考えこんでいることに気がついたのか。目の前にいるジールフィリッド王が、少しだけ視線を下げてイーリスへと話しかけてくる。
「イーリス姫は、ガルデンは初めてだったな。実際に来られて、その目で見られた感想はいかがだったかな?」
その言葉に、俯きかけていた視線を慌てて上げた。
「とても広々とした大地なので驚きましたわ。寒いと伺っていましたが、南のほうではもう雪も解けだしているのですね」
「ああ、このあたりはガルデンでは比較的温暖なところだからな。それにたしかに見晴らしのいい場所だ。作物の育たない土地だが、空の見渡せるこの景色を姫が気に入ってくれたのなら、この地域にも誇れるものがひとつはできたな」
「作物が育たない……?」
「ああ、なぜか植えてもほか場所みたいにはならないんだ。いろいろとやってみたが、元々水分が多くて、柔らかい土地だから、それがダメなのだろう」
「それはなにか肥料とかで改良はできないのでしょうか……?」
「試してみたが、無駄だった。土を乾かしてみても、ほかのところのとは少し違っているから、そもそも農業に向いていないのだろう。ガルデンにはあちこちにこんな場所があるおかげで、俺の長年の頭痛の種となっている」
――それは、不毛の土地が、ガルデンには多くあるということなのか。
(だから、ガルデンは他国を侵略して、その土地を奪っているのかしら――)
作物の育たない土地の代わりに、民たちを食べさせていけるように――。
思わず聞いた言葉に考えこんでしまったが、その間にもジールフィリッド王は、イーリスの前へとずいっと顔を寄せてくる。
「だが、姫のおかげで、この土地の空が美しいことに気がついた」
「は?」
思わず、咄嗟に裏返った声が出てしまった。
「姫と一緒にいれば、今まで悩んでいたことでも、違う見方ができそうだ」
(待って、なんか体が近い!)
先ほどまでよりも、ぐいっとイーリスの背中を片手で引き寄せている。
「どうだろう、姫? このままガルデンに残り、俺にもっといろいろなものの見方を教えてはくれないだろうか?」
「え……」
「姫は、伝え聞いていた姿よりもずっと美しい。俺が見て惹かれた幼い頃の肖像画よりも遥かにだ。それだけではなく、賢くて、一緒に話していると違う世界が見えてくるような気がする。だから、どうか、これからも俺の側にずっといてくれないだろうか」
「え、ちょっと、それは……」
咄嗟に慌てるが、次の瞬間ハッと気がつく。
(待って! これって、ひょっとして、この間からの続き!?)
――イーリスを誘惑しているようにみせかけて、この交渉を決裂させようという……!
それならば――と、内心焦りかけていたイーリスは落ち着きを取り戻してキッと眼差しを上げた。
「お生憎と」
そう切り出すと、真っ直ぐにガルデン王を見つめる。
「私を惑わせて、こちらを攪乱させるおつもりなのかもしれませんが、そううまくはいきませんよ?」
(甘言を弄して、こちらの結束を乱そうとするなんて――)
無駄な企みだと、ガルデン王に釘を刺すように眼差しで訴える。
すると、ガルデン王は、きょとんとした顔で、緑色の目を丸く開いた。
「惑わせる? なんのことだ?」
(え? それが目的ではなかったの?)
「あの、私にたびたび美しいとかおっしゃるのは、交渉を有利に進められるためなのでは……」
焦りながら問えば、ガルデン王の顔がぷっと吹きだして弾けたではないか。
「イーリス姫は、今まで男性からこんなふうに口説かれたことはないのか?」
「それは……」
――正直に言えば、ない。
美しいとは、コリンナや王妃宮の女官たちが何度も口を揃えて言ってくれているが、男性が口にするのは、自分がリエンラインの王妃故の賛辞だと思っていた。
別に自分の容姿に自信がないわけではないが、女性や家臣から見て綺麗と言われるのと、男性から恋愛対象として言われるのとでは、話が別だ。
(仲直りしてからの、リーンハルトの言葉は除外するにしても――)
口説く? と心の中で反芻したその微妙な表情がわかったのだろう。ガルデン王が、ぐいっと自分の前へイーリスの体を引き寄せてくる。
「イーリス姫は美しい。前の妻を除いて、俺がここまで一緒にいたいと思った女性は初めてだ。だから、どうか、俺の言葉を信じて、このままガルデンに留まることを考えてはもらえないだろうか?」
「え……」
緑の瞳で見つめられ、瞬間的に頭の中がフリーズした。
その瞬間、バンと机に手をつく音が部屋中に響き渡る。
見れば、席の側でリーンハルトが鋭い視線で立ち上がり、カツカツとこちらへ近付いてくるではないか。
「曲は終わった。もうレセプションは十分だろう?」
そう言うと、まだガルデン王に抱えられているイーリスの体を、横から手を伸ばし、ぐいっと肩を引っ張るようにして奪っていく。
「そろそろ交渉役から、最初の協議についての報告が来る頃だ。滞在用の部屋へと案内してもらえるだろうか」
言葉は丁寧だが、イーリスの体を抱き寄せていたガルデン王を見つめる瞳は、冬将軍が荒れ狂っているかのように厳しい。アイスブルーの瞳がぎらりと光り、反論して、このまま続ける気ならば、ただではおかないというように見つめている。
「いいだろう」
ここは曲が終わったので、一旦引いたほうがいいと思ったのかもしれない。ガルデン王が両手を離し薄い笑みを浮かべると、宿泊場所への案内役を呼んだのと同時に、リーンハルトはイーリスの肩を抱えながら早足で歩き始めた。