第104話 前哨戦③
給仕たちは、配膳の順番が変わったから、失礼になってはまずいと思ったのだろう。
リーンハルト用の皿に並んで用意されていたイーリス分の料理とガルデン王のを急いで出し、廊下で待機していた本来フレデリングに出される予定であった一式を慌てて運んでくる。そして、給仕たちの手によって、大急ぎで先ほどと同じナナカマドの模様が描かれた銀食器が、リーンハルトの前にも置かれていく。
食器も中身のメニューも、最初のリーンハルトの皿と全く同じものだ。それでも、外で長く待っていたせいで、最初に出されかけていたリーンハルトの料理よりは少しだけ冷えて、湯気が少なくなってしまっている。
その料理が並べられていく様子を、リーンハルトは、ただジッと見つめていた。なにも言わないまま、アイスブルーの瞳を少し動かすと、斜め前にいるフレデリングの姿を眺める。
だが、金の髪を纏ったその姿は、並べられたリーンハルトの料理を前にして、先ほどと同じくにこにこと微笑んだままだ。
その間に給仕たちは、イーリスの隣にいるギイト、そして、さらに直接の交渉役とは別で国王の家臣として並んでいるリエンラインの者たちにも料理を配っていく。その席の向かい側に並んで、同じく料理を並べられていくのは、ガルデン王の家臣たちだ。
全員に行き渡ったところで、会食が始まった。
とはいえ、最初は、後ろに控えた毒味役が、すべての皿の料理を少量ずつ確かめてからだ。
「大丈夫そうです。なにも気になる味はしませんでした」
「そう、ありがとう」
普段の食事でも、いつも王族の毒味をしてくれている者たちが、すべての皿の料理を食べてから小さく声をかけてくれる。
毎日の食事は、リエンラインの王宮で作って運ばれてくるから、まず滅多なことはないが、ここは完全な敵国だ。しかも相手が準備した料理なのだから、毒味の者にしても、緊張の度合いはまったく違っただろう。
「リーンハルト、毒味も大丈夫らしいわ」
後ろから伝えられた内容を、小さな声で知らせた。
「ああ、わかった」
それと同時に、リーンハルトの目が眺めていたフレデリングから動き、側にあったフォークとナイフを取り上げる。
その姿を確かめてから、イーリスも、目の端でちらりと兄の顔を見つめた。
(どうにか会食が始まったけれど、どうしてお兄様はあんなことを……)
こんな失礼なことを言い出すような性格ではなかったはずだ。
(なにか、ガルデンであったのかしら……?)
六年も暮らしていたのだ。その間にガルデンで、兄になにかこんな行動をさせるようなことがあったのだろうかと、料理を見るふりをしながら、前に座っている姿をこっそりと窺った。
「うん、イーリス? どうかしたのかい?」
「え、いいえ。なんでも……ただ、お兄様に会うのが久し振りだから、つい見てしまっただけで……」
気づかれて、慌てて誤魔化したが、見つめる気持ちは、先ほどまでの高揚したものとは少し違ってしまっている。
(本当にお兄様よね……?)
金の瞳に金の髪。ルフニルツの王族特有の真正の二重の金を纏っている姿は、兄で間違いがないはずなのに――。
今は、少しだけイーリスの心の中で波紋が広がった。
「ごめんなさいね、リーンハルト。お兄様が、あんなことを……」
小さな声でこっそりと謝る。耳打ちと同時に様子を窺ったが、食事をしているリーンハルトの表情は、気持ちがよく読み取れないものだ。
「いや、君の兄だ。これぐらいは気にしないでおく」
そうはいっても、やはりいい気分はしないものだろう。
実際、イーリスの隣の席に座っているギイトも、心配そうにこちらをちらちらと見つめている。
イーリスとギイト以外の、付き添ってきた家臣たちも皆同じみたいだ。自分たちの王に対するこのあまりにも無礼な願い出には、さすがにいい感情をもてなかったようだ。
向かいの席に座るフレデリングの様子を、部下たちは渋い顔で見つめながら、しかし、イーリスの兄ということもあり、時折心配そうにリーンハルトの様子を窺っている。
どこか緊張感を孕んだ空気だ。しかし、その中で、フレデリングの隣に座っていたガルデン王は、その雰囲気を壊すかのように明るく口を開いた。
「リーンハルト王とイーリス姫は、ガルデンの料理を食べられるのは、おそらく初めてだな? お味はいかがかな?」
どう思うかと尋ねながらも、ジークフリッド王の顔はひどく自信ありげだ。その姿に、リーンハルトは簡潔に答えた。
「ああ、大変おいしい料理だ。この肉は、ふだん食べ慣れない味だが」
その言葉に続けて、イーリスも頷く。
「ええ、とてもおいしいですわ。この肉は、鹿の一種ですか?」
「ああ、それはトナカイの肉だな。ヘラジカとどちらにしようかと考えたのだが、もしもお二人が本当にガルデンに来てくれるのたったら、もてなしには珍しいほうがいいだろうと思ってな。俺が、直接狩ってきたんだ」
「トナカイ!」
その言葉に驚いてしまう。
「まあ、初めて食べましたわ!」
トナカイの料理は、前世でもよく耳にしていた。実際、今食べてみると、意外とクセが少なくて、淡泊ながらもおいしい肉だ。
(これがトナカイ!)
前世でも、トナカイは長い歴史の中で、荷物を運ぶ運搬用のみならず、その全身を食用や衣服、さらには加工品として利用されてきた。
(まさか、こちらの世界でその肉を味わうことができるなんて――!)
思いがけないことに、つい目がキラキラとしてしまう。
「イーリスは、今でもその土地特有の料理が好きなんだなあ」
今のイーリスの様子に、兄が、少し懐かしげに見つめている。
おそらく、フレデリングは、昔イーリスが幼い頃、お土産にもらった各地の名産品を珍しがって喜んでいたのを覚えているのだろう。今のイーリスの表情に、昔と変わらない姿を見つけて、嬉しそうに微笑んでいる。
「そうか、イーリス姫は、各地の料理が好きなのか」
それならば――と、隣にいたジールフィリッド王が、楽しそうにこちらを見つめた。
「トナカイだけではないぞ? ガルデンには、もっと他国にはないような美味しい料理がいくつもある。イーリス姫が気に入られたのならば、このままガルデンの奥に入り、しばらく滞在をしていただけたら、もっといろいろな料理がお出しできるが?」
「え……」
思わず返事に詰まってしまった。
(これは、ひょっとして――あの手紙の続き!?)
まさか食事が始まった途端、こんなところで仕掛けてくるなんて!
予想外だったが、ジールフィリッド王はイーリスの姿を瞳に捉えたまま、にこやかに話し続けている。
「どうだ、イーリス姫。このままガルデンに残って、俺と一緒に各地を巡ってはみないか?」
そうすれば、さらに美味しい料理を用意できるがと微笑むガルデン王の言葉に、咄嗟にどう返したら、うまく断れるのか――。
(もしも、ここで機嫌を損ねたら、近くに来ているお父様やお母様たちがどうなるかわからないし……)
だからといって、受けるのは論外だ。
目の前にいる兄のフレデリングと家族たちを連れて、ガルデンからリエンラインへと帰るのが目的なのだから!
(どうしよう!? どう断ったら、角が立たずにすむの!?)
悩んで、目をガルデン王から逃がすように料理を見つめた瞬間だった。
「生憎と――」
「うん?」
隣から一つの声が響いてくる。
その声に顔を上げれば、隣に座っているリーンハルトが、ガルデン王を正面から見つめながら、ゆっくりと話しかけているではないか。
「どんなにおいしいものでも、たまに食べるからご馳走なのだ。実際、イーリスは、ふだんの食事は、リエンラインの料理が一番よく体に合うと言っている。ご馳走はたまににしたほうが、折角の用意してくれた特別感のためにも胃の調子のためにもいいものだろう」
(リーンハルト……)
相手の言葉を否定せずに、即座に断ってくれたリーンハルトの機転に感謝する。
だから、その言葉に大きく頷いた。
「ええ。ガルデン王、そのご厚意には感謝いたします。ですが欲張らず、今回はこれだけで十分ですわ」
微笑みながら答えると、ジールフィリッド王の瞳は、面白そうにイーリスを見つめている。
「ははっ、それは欲がないことだな。ますますイーリス姫が気になってきた」
(だから、なんでそうなるのよ!?)
思わず心の中で叫んだが、その瞬間、隣のリーンハルトとガルデン王との間で、火花が散るようなにらみ合いが交わされたような気がする。
それからも、二人の言葉の端々には応酬が感じられる部分があったが、どうにか会食が終わり、やっと皿が片付けられるようになった頃だった。
「あら――?」
見れば、正面にある兄の前に並んだ料理には、まったく手がつけられていないではないか。
「お兄様、どこかお体の具合でも悪いのですか?」
「うん?」
その言葉に、フレデリングが幼い頃と同じ柔らかな笑みを浮かべる。
「ああ――いや。少しトナカイの肉の匂いが苦手でね」
「え、でも……」
(それは……わざわざリーンハルトの料理と交換してまで、並べさせたものなのに?)
苦手だったのならば、どうしてそこまで自分にこの料理を優先させたのか――。
昔の思いやり深い兄の姿とは、重ならない様子に眉を寄せると、そのイーリスの前で、フレデリングは明るい顔で立ち上がった。
「匂いで、少し食欲がなくなっただけさ。大丈夫、その代わり果実水をもらっていたから。それよりも――」
そう話すと、笑いながらイーリスの側へと近寄ってくる。
「ガルデンでは、食事のあとにはダンスの席を設けるのが恒例なんだ。どうだろう、久々の再会なんだし、この兄と昔みたいに一緒に踊ってはくれないだろうか?」
「え、それは……」
まさか、先ほどの料理に続いて、こんなことを言い出すなんて!
ファーストダンスは、パートナーと。いくらガルデン式のもてなしとはいえ、その慣例はここでも変わらないはずなのに。
「待って、お兄様……!」
(それならば、先にリーンハルトと踊ってからでないと――)
「フレデリング王子」
隣にいるリーンハルトが、焦って立ち上がりながら声をかける。
「義兄上にとっては、久し振りに会った妹だし、いろいろと王子なりの思いもあるだろう。しかし、ここでのイーリスのパートナーは俺だ。フレデリング王子には申し訳ないが、ここは先に俺と踊ってから――」
(ちょっと、目が本気で譲る気がないんだけれど!?)
さすがにリーンハルトも、イーリスとのファーストダンスは渡すつもりがないらしい。
ジッとアイスブルーの瞳で、こちらの様子を窺うように見つめてくる。
その姿に、フレデリングの瞳が、ちらりとリーンハルトを見つめた。
「なんだい? まさかひょっとしてだけど、リエンライン王は、自分のパートナーが先にほかの者と踊るのは嫌なのかな?」
「それはそうでしょう、お兄様。いくらなんでも――」
さすがにこれ以上、兄にリーンハルトを蔑ろにするような態度を続けさせるわけにはいかない。
だから、焦りながら止めようとすると、フレデリングは自分を見下ろしているリーンハルトに薄い笑みを浮かべた。
「ああ、それは意外だねえ」
(意外?)
なにが――。意外に思うことなど今の状況ではなにもないはずなのに。
兄のその言葉が心の中でひっかかる。
「だが、考え方を変えてみようよ。国賓が異性の場合は、もてなしのために、主催者がまず一緒に踊るのが慣例だろう? それは、リエンラインでも同じなはずだ。それならば、もてなす側として、私がイーリスと踊っても問題はないはず。そうだろう、リーンハルト王?」
「それは……!」
まさか、ここで外交慣例を引き合いに出してくるとは思わなかった。
「だが、フレデリング王子はイーリスの兄だ。この場の主催者ではないから――」
言いにくそうにリーンハルトが言葉を紡ぐ。さすがに、フレデリングがガルデン国に囚われも同然の身であることは、あまり口にはしたくはないようだ。それとも、たとえ兄であっても、イーリスにとっての一番の座は譲りたくないと思っているのか。
渋るリーンハルトの顔に、ふとイーリスも気がついてしまった。
(そう言えば、リエンラインでは、国賓が来た時にはなぜか晩餐会が多かったわ……)
武芸にも長けて、活動的なプロシアンの王女が来た時とかは、ともかく――。
なぜ、国賓のもてなしに晩餐会が多くて、舞踏会が少なかったのか――今、その理由がなんとなくわかったような気がする。
(ひょっとして、リーンハルトが、私が国賓でもほかの男性と自分より先に踊るのは嫌で、晩餐会にしていたの……?)
てっきり相手の希望に合わせて、夜会の内容が予定されているのだと思っていた。しかし、ここにきて違う可能性が強く浮上してくる。
「だから、どんな理由があるにしても、まずイーリスの側にいるのは俺でないと――!」
そうリーンハルトが、フレデリングと並んでいるイーリスの手を取ろうとした時だった。
「まあ、待て、お二人とも」
そう言いながら、テーブルを回ってきたのは、ガルデン王だ。そして、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「国賓をもてなすためのダンスならば、姫の一番を務めるのは、この場の主催者である俺の役目だろう?」
「えっ!?」
その言葉に、思わず、リーンハルトとイーリスの声が重なった。