第101話 ガルデン王との会談⑤
(お兄様が、この地に来ている――!)
何度その笑顔を心で思い出したかしれない。記憶に残る兄の姿は、いつも優しい表情で、イーリスに向かって笑いかけていた。刺繍がうまくできなくて、針を指に刺してしまい涙を浮かべた時も、兄はいつもポンポンと優しく後ろからイーリスの頭を撫でて励ましてくれたし、歴史で怖い話を聞いた時も、イーリスが枕を持って部屋を訪ねたら、眠くなるまで側について話してくれていた。
そして、リエンラインへ嫁ぐ日に、寂しそうな笑顔で馬車の外から見送ってくれた姿が、兄と会った最後の記憶となったのに――。
ザンと耳の横で、北の風が激しく金色の髪をたなびかせながら流れていく。
「会えるの、ですか……?」
震えながら、イーリスはジールフィリッド王へと尋ねていた。
(会えるのならば、会いたい……!)
ずっと我慢をしていた。だけど、今その兄がこの地に来ているのならば――。
懇願するように、目の前に立つジールフィリッド王を見つめる。そのイーリスの視線に、ジールフィリッド王は余裕のある笑みを浮かべ続ける。
「もちろん。イーリス姫が会いたがっているだろうと思って、連れてきたのだ」
そう頷くと、スッと左手を持ち上げて、建物から横に伸びている道を指し示したではないか。
「この道をまっすぐ行けば、小さな庭がある。そこの池の側にある建物で待っているはずだ。もしイーリス姫が兄君に会いたいのならば、今すぐにでも行ってみられるといい」
今すぐ――。
その言葉が耳から脳に達するや否や、即座に身を屈めた。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘える形となって恐縮ですが、一旦失礼して兄に会ってきたいと思います」
儀礼どおりに挨拶を述べる間も、心はもう走り出したくてたまらなくなってきている。
(お兄様に会える!)
もし、この機会を逃して、ガルデン王が心変わりをすれば、次に会えるのはいつになるかわからないだろう。
だから、上半身を起こすと、すぐさま身を翻した。歩いているつもりなのに、足はどんどんとドレスの中で小走りになっていく。
(お兄様……!)
道は一本だ。迷う恐れもない。
「イーリス……!」
そのまま歩みを進めていくイーリスの様子に、ひとりで行かせるわけにはいかないと思ったのか、ジールフィリッド王に急いで挨拶をすませたリーンハルトが、後ろから護衛と一緒に駆け寄ってくる。
しかし、今はその聞こえてくる足音を振り返って待つ余裕もないほど、ただ兄に会いたかった。
言われたとおりに先ほど示された道を辿り、要塞のような城の壁を曲がると、ふだんは、おそらく城の者たちの憩いの場所になっているだろうと思われる小さな庭が目の前に現れてくる。
庭の周囲に植えられているのは、冬でも葉を落とさない常緑樹たちだ。緑に彩られた庭は、華やかな雰囲気ではないが、ところどころには小さな白い花が咲いている。その木陰の側の道を辿り、奥にある池に近付く。すると、そこに立つ小さな館の側では、一人の金髪の男性が佇み、静かに水面を見つめているではないか。
池の水面を見ているため、こちらに向けているのは背中のようだ。後ろ姿だが、その背中にかかっている繊細な輝きを放つ金色の髪は、さらさらとしていて、幼い頃にくせっ毛のイーリスが羨ましがって、よく触っていた兄のものと同じに見える。
「お兄様……!」
駆け寄りながらこぼれたその声に、池の側に立っていた人物が、ゆっくりと振り返った。
こちらを見つめてくる懐かしい金色の瞳――。
それは、イーリスとまったく同じ色だ。家族の中で、この金色の瞳を持っているのは、父とイーリスと兄しかいない。
金の髪に、金の瞳。六年の歳月をへだてても、兄は昔と変わらずに、イーリスと同じ色を身に宿しているではないか。
振り返った顔は、イーリスが十一歳で別れた時よりも、ずっと大人っぽくなっているものだ。とはいえ、すぐに兄だとわかった昔の面影が残るその顔立ちに、気がつけばイーリスの足は、すぐにその前へと駆け寄っていた。
「お兄様!」
その言葉と同時に、両腕を伸ばして胸へと抱きつく。
「イーリス!」
声は、六年前とは少し変わっている。イーリスよりもふたつ年上の兄は、あの頃声変わりが始まったばかりで、少し話しにくそうにしていた。しかし、今聞いた成長した兄の声は、父が昔自分を慰めるときに囁きかけてくれたのとそっくりなものだ。
その声を聞いて、大きくなった姿を抱き締めながら、ぽろぽろとイーリスの頬には涙がこぼれてきた。
「元気だったのね……! よかったわ……」
よかった、それしか嗚咽とともに喉からは出てこない。
どれだけ会いたかっただろう。六年前に、突然故郷が戦火に包まれて、それきり会えなくなってしまった優しい兄。ずっと――ずっと長い年月、元気で暮らしていて、と遠いリエンラインの地から祈り続けていた。
その兄が、今元気な姿で、目の前にいる。
「イーリス」
名前を呼ぶ兄の声も、少しだけ涙ぐんだものだ。
そして、両手をゆっくりとイーリスの頬に添えた。
「大きくなったな。昔は小さくて、まだ子供だったのに――。少し会えない間に、こんなに綺麗に成長していたなんて……」
イーリスと同じ金色の瞳に涙を浮かべながら、ジッとその姿を覗きこんでくる。
「会えない間、ずっと心配していたんだ。遠い異国の地で、本当にお前が元気でやっているのかって――」
「それは、私も同じよ。会えない間、お兄様やお父様、お母様、それに弟のニックスも元気でやっているのかどうか心配で……。毎日元気でいますようにって、心の中で祈っていたわ……」
気がつけば、知らない間に北の空を眺めていることもあった。きっと陽菜を最初に誤解させたのは、そんな姿を見られていたからだろう。
眦から溢れる涙を、イーリスはそっと指で拭った。涙だが、なんて嬉しい涙なのだろう。ずっと会いたかった兄とこうして再会し、また話すことができるだなんて――。
「父上や母上、それにニックスも元気だ。ここに来るのは私に限定されたが、今回の交渉の対象になっているということで、みんなもこのすぐ近くまでは来ている」
「では――!」
聞いた言葉に、顔が輝いた。
交渉次第では、家族全員に会えるかもしれない。
「家族の身柄について、リエンラインが交渉を申し込んできたと聞いたが――」
「ええ、そうよ! リーンハルトが、ガルデン王に申し込んでくれたの。もしうまくいったら、昔みたいにみんなで暮らせるようにしたいって――」
言いながら、うしろを振り返る。
銀色の髪を揺らしながら近付いてきた人物を紹介するように見つめた瞬間、顔を上げた兄の瞳が冷たさを帯びた。
「紹介するわ、彼がリエンラインの国王リーンハルトよ。お兄様は、直接会うのは初めてだったわよね?」
「ああ――……」
今まで親しげにイーリスを見つめていた瞳が、ゆっくりと銀の髪に包まれた面影を捕らえていく。
「あなたが、あの縁談でイーリスと結婚した……」
少し声が低くなったような気がする。見つめてくるイーリスの兄の眼差しに、リーンハルトのほうから近寄り、自ら手を差し出した。
「初めまして。ご挨拶が今になり、失礼いたしました。六年前イーリスと結婚しましたリエンライン国王、リーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデです」
出されたその手を、兄が握り返す。
「初めまして――。イーリスの兄のフレデリング・ヒューリオス・ルフニアネルです」
そして、一瞬強く力を入れる。
「お噂はかねがね――」
その瞬間フレデリングの瞳が、雪の中で冷やされた金属のように光った。
「お兄様?」
一瞬見たその瞳に、イーリスが怪訝げに声をかける。だが、すぐにフレデリングは、リーンハルトから手を離した。
「では、また後ほど。すぐに晩餐で会えると思うから――」
前半はリーンハルトに、そして後半は、イーリスへと微笑みながら話しかける。
「また、その時にいろいろと話そう。そろそろ戻らなければいけない時間だろう?」
それは、おそらく、今回の交渉相手であるガルデン王を待たせていることを言っているのだろう。
「ええ」
だから頷くと、一度だけ兄はイーリスの頭にぽんと手を置いた。
そして、先ほど挨拶で握った瞬間こめられた力に、リーンハルトが思わず自分の手を見つめている姿を背にして、フレデリングはそのまま立ち去っていった。