第100話 ガルデン王との会談④
「ようこそ我がガルデンへ、イーリス姫。私は、このガルデンを治めておりますジールフィリッド・オランドール・ガルリアースと申します。どうか、これを機会にお見知りおきいただけますよう――」
そう言うと、捧げ持った右手に恭しくキスをしてくる。
(わっ!)
まさか、こんな礼をされるとは思わなかった。
たしかに諸外国で用いられる礼だが、リエンラインでは王妃が聖女なことも多いので、慣例が違うのか。深く頭を下げて、礼をされるのが一般的だったのに――。
とはいえ、外国の紳士が行うのとしては、完璧な礼だ。きっとバルドリック将軍ならば、外国に行った時にはこんなふうに貴族令嬢に膝をついたりするのだろう。しかし、思わず連想してしまった人物からして、頭の中では警告信号が明滅している。ましてや、今隣では、一瞬でリーンハルトの顔に変化が起きた。
「ガルデン国王陛下、お招きいただきありがとうございます。イーリス・エウラリアと申します」
慌ててこちらから幼い頃に習った外国用の礼をする。
(怒らないで! 手袋の上からだけだから!)
きっと、今キスをされたのが素肌だったら、この瞬間斬り合いが始まっていただろうと思うぐらいリーンハルトの雰囲気が剣呑だ。
これが外国では一般的な礼だと知っているから、おそらく怒るに怒れないのだろう。
とはいえ、横から漂ってくるのは、顔を向けるのさえ怖い雰囲気だ。
「では、イーリス姫」
(どうして、姫!?)
そんな呼び方は結婚してからはされたことがない。
(これでは、まるで独身の姫君に対するかのような――)
さすがに、手を持ったまま話すガルデン王ジールフィリッドの態度に、リーンハルトも苛立ちを抑え切れなくなったのだろう。
「ガルデン王、イーリスはリエンラインの王妃として遇してほしい」
つまり意訳をすると、諸外国で使われているような礼法ではなく、リエンラインの礼法に則って対応してほしいということだ。
(今! さりげなく二度と手にキスをするなと言ったわね!?)
どれだけ、これが腹に据えかねているのか――。
思わず横を見ると、アイスブルーの瞳が真剣な怒りを湛えて、ガルデン王を睨みつけているではないか。そのリーンハルトの様子に、ジールフィリッドは薄い笑みを浮かべた。
「おや、だが、イーリス姫は、リエンライン国王とは離婚が決まっているのであろう? それならば、イーリス姫は独身に戻られるのだから、我がガルデンが吸収したとはいえ、故ルフニルツ王国の姫として扱ったので問題がなかろう?」
さらに、こちらを見てにこりとしてくる。
「それに、そのほうが、姫もいろんな求婚者が来ても、無礼な扱いをされずにすむであろうし」
求婚者! その言葉に、慌てて口を開く。
「いえ、あのっ! もう次の結婚相手は決まっていまして!」
「結婚するまではあくまで未確定だ。姫も独身に戻られるのなら、ゆっくり選び直したほうがいいぞ?」
どんどん隣の空気が悪くなってくる。
「折角の機会なんだしな」
ちらりと横を見ただけでも、リーンハルトの瞳がかつてないほど吊り上がっているではないか。
なんだか、このまま返書に書いてあった件を持ち出されそうな雰囲気だ。
「実際、イーリス姫は綺麗で、独身に戻られるのならば、俺が求婚したいほどの美女だ」
(うーわーっ!)
明らかに話の流れがまずい。だから、慌てて口を開いた。
「いえ、でも……! あの、ガルデン王からの返書にあった私を『したいこう』って、私の死体を望まれているとも読めたのですが……?」
違うと思いたい。だが、もしそれならば、ここに呼ばれたのは危険な意味だ。しかし、それ以上に、今隣で嫉妬を爆発させそうなリーンハルトが怖い。だから慌てて、求婚にそのまま流れそうなこの場を誤魔化すために言ったのだが、そのイーリスの言葉に、ジールフィリッドは目をきょとんとさせている。
「死体?」
(あ、よかったわ。たぶんこれなら違うし、この場も誤魔化せそう)
「いえ、違うのならばいいのです。きっと慣れない異世界の言葉なので、勘違いされただけでしょうし――」
これで、先ほどの話題と返書に記されていた暗号については有耶無耶にできただろう。加えて、あの返書の暗号は、イーリスにとっては、自分の死体を希望されたものだと受け取られた――と思ってもらえるのに違いない。なぜあんな求婚まがいの言葉を書いてきたのかはわからないが、きっとリーンハルトを今のように挑発するためだったのだろう。
だから、不発だったとして両方の話題を終わらせようとしたのに、そのイーリスの言葉に、ジールフィリッドは腕を組みながらおおらかに笑っている。
「そういう意味もあるのか? 記録にあった異世界語を参考に書いたのだが、使い慣れない言葉は難しいな」
ホッとした。きっとこれで、この件は終わりにできる。
「では、改めて言おう。あれはイーリス姫を恋い慕うという意味だった」
(藪蛇になった!)
「貴様っ!」
リーンハルトが瞬間的に声を荒らげるが、ジールフィリッドは豪快な笑みを見せている。
「なにを怒る? 姫は独身に戻られるのだろう? ならば、なにもおかしくはないはず」
慌ててリーンハルトを制しながら前に出た。
「リーンハルト、待って! そうは言われても、ジールフィリッド王、私たちはそもそも一度も会ったことがありませんよね? どなたかとお間違いでは?」
「いやいや、間違いはない。六年前にルフニルツを滅ぼした時、そこの王宮に飾ってあった姫の絵の愛らしい姿を忘れられず、心を惹かれた――といえば、信じていただけるだろうか?」
(とんでもない大嘘が来た――!)
ルフニルツの王宮に飾ってあったイーリスの肖像画といえば、嫁いだ十一歳よりも前のものばかりだ。それなのに、ルフニルツを攻めた当時、二十代後半から三十代になったばかりぐらいだったジールフィリッド王が心惹かれたというのなら、それは特殊な性癖の疑いが出てくる。
(いいえ、それならなおさら今の私の姿になんて、興味をもたないはずよ!)
自慢ではないが、女性としてのスタイルは人よりもかなりいいと言われているほうだ。リーンハルトが嫌がるから避けているが、コリンナはもう少し胸元を強調するドレスを着ても似合いそうなのにと、いつも残念がっているぐらいだ。それを考えると、そういう性癖の人物から見て、イーリスの姿に今でも触手が動くとは思わない。というか、思いたくない。
そう拳を握って考えた瞬間、側にいたリーンハルトが一歩前に踏み出していた。
「よくも俺のイーリスに、そんな無礼を――」
「リーンハルト!」
俺のイーリスと言ってくれるのは嬉しいが、今はそんな状況ではない。
「待って! ジールフィリッド王はこちらを挑発しているだけよ!」
そういう性癖ではないのに、あえて子供姿しか知らない自分へ恋文のような手紙を送ってきたり、求愛めいた言葉をちらつかせたりするのは、リーンハルトを挑発するためなのだろう。
そう確信すると、慌てて両手でその体を止めた。
そのイーリスとリーンハルトの様子を、ジールフィリッド王は面白そうにくすくすと見つめている。
「おや、信じていただけないとは残念だ――」
ここで怒らせて、会談を壊すことがこの王の目的なのに違いない。狙った獲物の様子を見定めるように笑っている緑の瞳を、警戒しながら見返した時だった。
「折角、イーリス姫への贈り物として、そのご家族をこの地に連れてきたというのに」
「えっ……」
瞬間、思ってもみなかった言葉に、ジールフィリッドの顔を見つめた。そのイーリスの視線に、油断のならない王は、余裕のある顔で笑っている。
「自分の命を狙った罪人を牢から出してまで、交渉を求めてきたのだ。よほど家族に会いたいのだろうと思ってな。イーリス姫の兄君をこの地にまで連れてきている」
「お兄様が……!」
予想もしていなかった。六年前、嫁入りの馬車の窓から見たのを最後に別れた優しかった兄が、この地に来ているなんて――。
ガルデンの王の笑う姿を思わず食い入るように見つめるイーリスの側で、北の風が一瞬荒れ狂うように流れていった。