第97話 ガルデン王との会談①
その翌日、慌ただしく会見場所へと向かう隊列が整備された。
指定された日付に、ガルデン王の返書にあったトロメンに行こうとすれば、もう今日には旅立たないと間に合わない。
「ガルデン王め、つくづく卑劣な手を――」
腕を組みながらリーンハルトは受け取ったガルデン王の手紙を思い出して、苦々しく呟いている。しかし、それに対して、この大翼宮の正面広場に並ぶ騎士団の人数はどういうことなのか。
「あの、リーンハルト。これは一体……」
並ぶ人波を見て、思わずイーリスの声がうわずりながら尋ねた。
「ああ、こちらに色々と用意する間も与えたくないようだったからな。王宮の警備に必要で残した分以外の近衛騎士団全員を護衛として随行させることにした」
「全員!?」
さすがにこの言葉には驚いてしまう。
「できるだけこちらに会談の準備をさせないつもりみたいだったからな。それならそれで、度肝を抜いてやる!」
(って、やっぱり完全に怒っている――!)
これは、やはり昨日の手紙が原因だろうか。
きっと交渉を中断するためになのだろうが、その方法としてイーリスに求愛しているか如きの文面を書いてきたガルデン王に対して、リーンハルトは正面から威嚇をしてやるつもりなのに違いない。
(なんか、行く前から波乱の予感がするけれど……)
いくら首都の防衛は、ほかの騎士団が担っているとはいえ、さすがにこの人数には顔が引き攣ってくる。
「あ、あのリーンハルト。できるだけ穏便にね……」
なにしろ、今回の件にはイーリスの家族の命がかかっているのだ。無駄に相手を刺激しないように、と願いながら手を伸ばすと、リーンハルトはくるりと顔の向きを変えた。
「もちろん、これはあくまで牽制だ。だがこの人数を見れば、相手も迂闊なことはできん。それに、会見場所が国境のすぐ側とはいえガルデン内を指定された以上、できるだけ慎重になっておいたほうがいいだろう」
「それは、そうよね……」
なにしろ敵国なのだ。会談とはいえ、そこに行く以上、万全を尽くしておいたほうがいい。のには違いないのだが――。
「ああ、もちろん君に不埒な真似などさせないためもあるが――」
(やっぱり、そのことを気にしているのね!)
これはまずい。ガルデン王にすれば、きっとこの交渉を打ち切ろうとして、あんな言葉を暗号文に入れたのだろうが、それを見たリーンハルトの反応が、手紙を見た時のイーリスの予想以上だ。
「では、陛下。旅の間は、しっかりとお留守をお預かりしますので」
護衛につく騎士団の用意が調ったのだろう。後ろでそう頭を下げながら挨拶をしているのは、リーンハルトの叔父であるダンクリッド公爵と、元老院として留守を任されることになったグリゴアだ。
「叔父上、グリゴア、よろしく頼む」
「ああ、留守居役は、兄上が存命の頃からよく任されてきたからな。安心してくれ」
こう見えても留守居役は筋金入りだぞと気さくに公爵は笑っている。そして、なにかあれば、すぐに知らせを送るからと安心させるように話しかけている姿は、叔父だけあってリーンハルトとどこか似ており、髪の色も同じ銀色だ。
「宮廷の貴族たちの見張りは、私にお任せを。この隙になにか企もうとする者がいれば、私の派閥をあげて潰しますので」
冷静な様子で話しているが、グリゴアの言葉はどこか物騒だ。
「うむ、頼んだ」
(その方法に頼んでしまってもいいのかしら……)
穏便さが皆無だとは思うが、心強い話なのは間違いない。エヴリゲ家が動けば、ほかの元老院に名を連ねている家門たちも黙っていることはできないだろう。
再度頭を下げているグリゴアの姿を見つめ、リーンハルトは頷いた。
そして、「では、出発しよう」とイーリスに手を差し出してくる。
大翼宮の階段を歩きだした時、並んだふたりの後ろから近付いてくる声がした。
「陛下」
見れば、それぞれ所属の違う騎士服を着たふたりが駆け寄り、深く体を折っているではないか。
「昨日ご命令をいただきました北部騎士団への早馬を手配しました。陛下が到着される頃にあわせて、現地へ赴く手はずとなっております」
「え、北部騎士団?」
「我が東部騎士団も、明日プロシアンに出発いたします! なにか先方へのご伝言などはございますでしょうか?」
「必要なことは親書に書いた。プロシアンの王女によろしく言っておいてくれ」
「はっ」とふたりは敬礼をして下がっていく。しかし、その姿を見送り、慌ててリーンハルトに声をかけた。
「待って、待って! どうして、北部と東部の騎士団まで動いているの!?」
いったいなにが起こっているのか。
慌てたが、その前で、リーンハルトは目を普段よりも少し開きながら「ああ」と頷いている。
「外交のためとはいえ、王が近くにまで行くんだ。折角だから、通る際に、現地の報告を兼ねて北部全体の状況を、そこを担当する騎士団から聞いておいたほうがいいだろう」
「あ……そうね」
たしかに、北部まで王族が行くことは滅多にない。現地の具体的な状況を聞く良い機会だし、その情報は北部と接するガルデンとの交渉にも役に立つだろう。
(そこまでは、考えつかなかったわ……)
どれだけ家族のことに気を取られていたのか――。
「それに東部騎士団については、前から予定していたプロシアンとの恒例合同訓練の話だ。こちらのスケジュールが急遽変わったので、日程を調整させてもらった」
言われてみれば――。北部の件はともかく、プロシアンの騎士団との合同訓練は、毎年のことだった。
それすら忘れるなんて、自分で思っていたよりも、ずっと家族のことで頭がいっぱいになっていたらしい。
先ほどは怒っているように見えたが、実はリーンハルトのほうが、よほど冷静に今の状況に対処しているのかもしれない。
(ダメね、私。行く前からこんなのでは。もっと冷静にならなくては――)
リーンハルトのように――と乗った馬車から外を見回したが、この視界いっぱいに広がっている騎士たちの数は本当に冷静なのだろうか。
一瞬、疑問に思ったが、パタンと馬車の扉が閉まるや否や、目の前に座ったリーンハルトは、腕を組んで真っ直ぐにイーリスを見つめてくる。
「イーリス、わかっていると思うが」
(冷静じゃない! 絶対に!)
努めて平静な振りで業務に対応していたが、この瞳は間違いなく腹の底が煮えくり返っているものだ。久々に見た底冷えのするアイスブルーの瞳は、まるで目の前にいるイーリスを逃がさないというかのように、その視界に捕らえ続けている。
「ガルデン王がなにかを言ってきたとしても、決して本気にはしないように! あいつは女に関しては、本当にろくでなしだ!」
(なにを心配しているかと思えば――)
思わず呆れてしまった。
「そんな――本気にするわけがないでしょう? あれは交渉を断るための戦法のひとつなのだろうし、だいたいガルデン王には、姫も息子もいるという噂なのに」
一体なにを心配しているのか。
ガルデン王の伴侶についてはあまり伝わってはこないが、子供がいるということは、おそらく既婚者。それならば、あの暗号に綴られていた「したい」という言葉は、むしろイーリスの「死体」の可能性もあったのではないかと考えているぐらいだ。
苦笑しながら答えたが、リーンハルトは、ジッとイーリスを見つめたまま視線を動かさない。
「情報機関に確認すれば、たしかに噂どおり嫡出の姫がいるそうだ。だが、ほかにふたりいるという息子は、どちらもそれぞれ母親が違ううえに庶出という扱いらしい」
「あら、では――」
頬に少し指をあてながら考えた。
「何人も妃がいるということ? そういえば、ガルデンは後宮制だから――」
「それならそれで歴代女たらしというだけの認識ですむが、今のガルデン王のろくでなしさはそんなものではない! 正室の妃が亡くなってから、誰ひとりとして妻には迎えず、愛人としておいたまま、飽きたらとっかえひっかえしているそうだ!」
「うわあ……」
それは、間違いなく女性の敵だろう。聞いた内容に思わず盛大に引き攣ってしまったが、リーンハルトの眼差しは、相変わらず厳しいものから変わらない。
「そのうえで狡猾な人物だ。実際、先代の王は、弟であった今の王の才能を恐れて殺そうと企んだらしいが、結果返り討ちにされたと聞く」
「ああ、たしか兄とその側近を呼びだして、一室に閉じ込めたとか……」
家族のことが心配で、ガルデンについて調べているときに耳にした噂だ。しかし、詳しく知りたくても、それ以上は誰も教えてくれず、イーリスの前ではみんな言葉を濁したために、はっきりと知ることはできなかった。
それを思い出しながら口にしたが、おそらくこの件についてもっと知っていたリーンハルトは、もう隠さないほうがいいと思ったのだろう。
「そうだ。その時に、今のガルデン王の正妻だった女性が亡くなったそうだ。今のガルデン王はその死を心から嘆き悲しみ、昼は棺桶から離れず、夜は夢遊病のようになって、その姿を捜し回ったらしい。そして、ひと月たっても現実を受け入れず、葬式すら行おうとしない姿に、周囲が説得してなんとか葬式をあげさせたそうだが……。ガルデン王は、葬式の日にやってきた兄とその側近一同をある部屋に閉じ込め、室内で漆を燃やして、全員が息ができなくなって倒れたところで、ひとりひとりトドメを刺していったらしい」
「それは……」
耳にした狡猾さにゾッとしてしまう。妻の死で正気を失ったふりをしながら、復讐の機会を淡々と窺っていたというのか。
「ガルデンでは、ふだん使用されるのはペチカだから煙でそんなことにはならない。しかし、葬式を行ったのは、火を入れるにはまだ早い季節だったため、ペチカを暖めるのには時間がかかると言って、夕方の寒さをしのげるように、急遽何個かの火鉢を兄たちの部屋に入れさせたそうだ」
――それが、自分たちを殺すための方法だとも知らずに。
考えてみれば、葬式を遅らせたというのも、その計略を使える時期を待っていたからだろう。
まるで、ハムレットのモデルになったアムレートだ。
巧妙に正気を失ったふりをしながら、着実に復讐を遂げる機会を待っていた。
思わず、息を呑み込む。
「そんな人物が相手だから、大袈裟ではなく、君を守るためには、これぐらいの支度をしておいたほうがいい」
もしなにか計略を使って、イーリスになにかしようものなら、連れてきた騎士たちが容赦はしないぞという脅しなのだろう。
それは同時に、今回の会談で、その身柄の交渉をされるイーリスの家族の安全のためでもある。
「わかったわ」
リーンハルトの言葉に、イーリスも大きく頷いた。
「そうよね、家族や私たちになにかあっては、本末転倒ですもの」
これから行くところは、迂闊に気を抜いていい場所ではないのだ。改めて敵国に向かうという意味を理解する。
「リーンハルトの言うとおり、ガルデン王には十分に気をつけるわ。私も、決して迂闊に気を抜いたりはしないようにするから――だから、リーンハルトも安心して」
そう張り詰めているリーンハルトに告げれば、最後の言葉に少し驚いたのか。ちょっとだけ目を見開いてから、その顔が優しくなった。
「ああ。もちろん、君には指一本触れさせないから」
心配しないでくれと、やっと微笑んだ顔は、怒った顔の裏で本当はイーリスのことをとても考えていたのに違いない。少しだけ優しくなった顔に、イーリスもホッとした。
「陛下!」
その時、突然馬車の外から声が響いた。
なんだろうと窓を覗くと、息を切らした伝令が走ってくる。
「どうした?」
着ている制服は、近衛騎士団のものではない。以前訪ねたギルニッテイで、神殿に関わる騎士たちが身につけていたものだ。
息せき切って走ってくる様子に、なにかただならぬものを感じたのだろう。馬車の扉を開けたリーンハルトに、近寄ってきた伝令は急いで膝をついた。
「ご出発前に申し訳ありません。ギルニッテイから都に護送される途中だった囚人の馬車が事故に遭い、崖下に転落したことをお知らせにまいりました」
「囚人?」
怪訝そうに尋ねるリーンハルトの言葉に、伝令は急いで名前を告げる。
「はい! こちらの大神殿にて審議される予定でしたポルネット伯爵家のマーリン令嬢が乗っておられた馬車だということです」
大きな声で告げられた名前に、その瞬間リーンハルトの顔色が、サッと変わった。