第96話 ガルデンからの返事⑤
机の側を歩き、素早くリーンハルトがイーリスの前へと近付いてくる。吊り上がったアイスブルーの瞳が、すぐにイーリスの目前へと迫った。
「どういうことだ!? なぜガルデンの王が君に恋文など送ってくる!?」
「知らないわよ! 私だって、一体なにがなんだか――」
家族の命を助けるために求めた返書なのに、なぜこんな求愛とも受け取らねかねない文章を書いてきたのか。
わけがわからなくて、頭を抱えたいのはイーリスのほうだ。だから、きっと解読を間違えたのだろうと思って、ほかになにかが隠されてはいないかと探そうとしたのに――。
だが、今のイーリスの言葉では納得できなかったのか。リーンハルトは、目を鋭くしてジッとイーリスを見つめている。
「まさか、以前ガルデン王と会ったことがあるのか? 君の故郷はガルデンのすぐ隣だった。幼い頃に国交で会っていたとしても、おかしくはないが――」
その不審げな瞳に、急いで首を横に振る。
「それはないと思うわ。私に前世の記憶が現れてから、お父様はできるだけ人前に出さないようにしていたし――。第一、それより昔となると、八歳より前の幼女の頃ということになるもの」
「君は知らないかもしれないが、世の中には特にそういう年頃を好む性癖の男もいるんだ。ひょっとしたら、その頃に君を見初めて……」
「いや、待って! さすがに、それはないから!」
たしかに、故国はガルデンのすぐ隣で、国同士の行き来がまったくなかったわけではない。だが、両親はそこまでガルデンと親密ではなかったし、むしろ、急激に勢力を拡大していたガルデンが、ルフニルツにいつ手を伸ばしてこないかと、そちらを警戒していた。
第一、今のリーンハルトの話だと、ガルデン王がとんでもない性癖の持ち主だということになってしまうではないか!
「そんな幼い頃に、ガルデンの王族と会ったことはなかったはずよ。だからガルデン王が、幼かった私を気に入る機会もなかったわ!」
慌てて言い募れば、目の前にいるリーンハルトは、先ほどの紙をバッと持ち上げる。
「だったら、どうして君にこんな恋文を寄越してくるんだ!」
「それは――私にも、よくわからない文面で……」
冷や汗を流しながら答えると、側で見ていた陽菜が目をぱちぱちとさせて口を開く。
「あの、それは陛下が書かれたものではないのですか?」
「ああ。なんでか知らないが、ガルデン王が返書に暗号で書いてきたんだ」
「ええっ!?」
さすがに陽菜も驚いた顔をしている。
そのふたりに、慌ててイーリスが口を開く。
「あ、でも向こうの言葉の『こう』って、『恋う』っていう意味だけではなく、『乞う』という意味もあるのよ。だから、これは私に来てほしいという意味の念押しでは――」
慌てて場を取り繕うように言えば、リーンハルトは陽菜に視線を向ける。
「ちなみに『したい』には『慕い』以外の意味もあるのか?」
「あー……、そうですね」
なんとなく場の雰囲気を察した陽菜が、懸命にほかの言葉を探している。
「『死体』とか……」
一瞬で恐ろしい意味になった。
「あとは、『肢体』とかですかね……」
その瞬間、ぐしゃっとその紙が、リーンハルトの手の中で握りつぶされた。
「ガルデン王……! どの意味でも許さん!」
最後に聞いた言葉で、リーンハルトの怒りに火が点いている。
「あいつ、イーリスに恋文を送っただけではなく、それ以上がほしいだと!? もしその意味ならば、絶対に許さん!」
手の中で紙のあげる悲鳴が、リーンハルトの怒りを如実に表しているかのようだ。銀の眉が険しく寄せられ、紙を持った拳が、肌に青い血管を浮かせながら、力の限り握りしめられていく。
「誰が、あいつにイーリスを会わせるものか!」
そして、そのままダンと拳が机に叩きつけられた。
「待って! でも返書には、リーンハルトと私がトロメンの城に来るようにと指定されているわ」
まずい! このままでは、この交渉は決裂するだろう。
それを感じ、急いでその言葉を思い出させたが、リーンハルトは苦虫を噛みつぶしたような表情のままだ。
「だからって、こんな手紙を寄越す奴のところに、君を連れていけるか!」
「でも――」
(どうしよう、このままでは本当に会談が成立しなくなってしまうわ)
焦りながら考えた時、近くで立っていたグリゴアが、静かに口を開いた。
「ですが、考えようによっては――それがガルデン王の狙いなのかもしれません」
「――なに……?」
やっと冷静になったリーンハルトが、怪訝げな顔をしながら自分の補佐をしている男の顔を見つめる。
「ガルデン王は、ひょっとしたら、最近のリーンハルト様が、イーリス様に向ける寵愛について耳にしたのかもしれません。それならば、こんな手紙を寄越されれば、リーンハルト様の反応はおひとつ。怒り、交渉をなしとするか、もしくは警戒して、会談場所に返書で指名されたイーリス様を連れていかないかのどちらかになります。そのどちらを選んでも、ガルデン王にすれば、交渉をなしとすることができますでしょう」
――交渉をなしにするために。
こんな手紙を送ってきたというのか。
「では、私が行かなかったら、ガルデン王はこの交渉を打ち切るつもりなの!?」
「返書で会談相手に指名された片方がいないのですから。ガルデン王にすれば、条件を満たしていないということで、断る口実にはできると思います」
「そんな……」
先ほどの混乱が嘘のように消え去り、サッと顔から血の気が引いた。
脳裏では、やっと会えるかと思った家族の姿が駆け巡っていく。
ずっと我慢していた。ようやく会えるかと思って、嬉しくてたまらなかったのに――。
「つまり……、この返書はこちらを攪乱させるためのものだということ?」
「可能性はありますが。しかし、そうとばかりも言いきれません。ガルデン王が、聖女であるイーリス様に、本当に文面どおりの意味の興味がないのかどうかはわかりませんので……」
「要するに、相手の狙いの可能性としては、こちらが返書の意味に気がつけば、交渉を打ち切りにすることができるかもしれないということか――」
卑劣な手をと、リーンハルトが悔しそうに眉根を寄せている。イーリスを危険に晒すことはできない。そう悩んでいる姿を見つめて、イーリスは一度ぎゅっと拳を握りしめた。
「私、行くわ」
「イーリス!?」
リーンハルトが驚いたようにイーリスを見つめてくる。そのアイスブルーの瞳に、まっすぐに視線を合わせた。
「だって、行かなければ、相手の狙いどおりに交渉が終わりになってしまうかもしれないのでしょう? 私、家族に会えると思って、すごく嬉しかったの。それならば、多少の危険があっても、このチャンスに賭けてみたいわ」
「イーリス……」
「それに、たとえここに書かれているのが、ガルデン王の本心でも大丈夫よ。だって――」
ぼんと顔が赤くなる。
「私が……結婚してもいいと思っているのは、リーンハルトだけなのですもの……」
蚊が鳴くように小さな声だったが、どうにかリーンハルトの耳には届いたようだ。
まるで、茹で蛸のようにこれ以上ないほど赤くなったイーリスの姿を見て、そっと腕で隠すように抱き締めてくれる。
「――わかった。だが、護衛は十分に連れていこう。向こうでも、決してガルデン王とふたりにはなったりしないように――」
どんな策略を仕掛けてくる気かわからないと呟いている姿は、半分は本気で、半分はあの手紙への懸念なのだろう。
だから、その腕に包まれながら、ゆっくりと頷いた。
「――うん。ありがとう」
本当は心配だろうに、イーリスの気持ちを考えて、交渉が打ち切られないようにしてくれる。だから、腕の中でそっと目を閉じながらお礼を言った。
その様子に、グリゴアが慌てる。
「ですが、やはり危険です! 会談のためとはいえ、リーンハルト様とイーリス様ご自身が直接ガルデンに赴くというのは――!」
いつもは冷静なグリゴアが本気で心配するのもわかる。しかし、行かなければ交渉自体が打ち切りにされる。
――とはいえ、リーンハルトが危険な目に遭うのは嫌だ。
悩むように見つめると、それを察してリーンハルトが温かく包み込むように見つめてくれた。そして、グリゴアへと目をやる。
「ああ、だから護衛は十分にと言った。ここからは俺とお前で相談して、具体的に決めようではないか」
そうリーンハルトが言うと、さすがにこれ以上反対はできなかったのだろう。
「承りました。では、御身のために、一緒に万全の態勢を考えさせていただきます」
そして、深く身を折った。