第17話 第一試験
染毛――――毛染めは、二十世紀になってから日本の若い女性達に爆発的に支持されるようになったおしゃれだ。だが歴史は古く、古代エジプトにおいては、ヘナで髪染めが行われたし、金髪に憧れるローマの女性達も脱色を頑張っていたらしい。
日本においても、白髪染めの歴史は長く、平家物語にも出てくるぐらいだから、それこそ人類史と共に毛染めの歴史はあったといえよう。
(だからって! なんで聖女の奇跡が、毛染めなのよ!?)
あまりのギャップに頭がくらりとしてくるが、マリウス神教官は蕩々と話し始める。
「その昔、この世界には髪を染めるという考えはございませんでした。そのため、年を老いた者、また若くにして白髪の生えた者は、自分の見た目を気にして生きなければなりませんでした。そればかりではなく、人種の違いによる髪の色、仕事による髪の脱色などで、過酷な人生を強いられる者達も少なくはございませんでした。ですが、これを第十四代聖女蕗子様は、転移の際にお持ちになっていた道具で、皆を人種や年齢の帰属意識から解放するという偉業を成し遂げられたのでございます!」
(それ! 蕗子様って絶対に美容師だったんでしょう――!)
興奮して語る神教官の言葉に思わずツッコミをいれたくなるが、確かに毛染めがない世界ならば、蕗子がもたらした意識の改革は、とてつもない偉業になったのかもしれない。
(確かに、私だって金色の目というだけで、ルフニア人と一発でばれるものね……)
「はい、昔は奴隷の髪には黒が多く、それだけに黒髪というだけで忌まれたり差別を受けたりもしていました。けれど、蕗子様が、人の髪の色などいくらでも自由に変えられるという御業を広められたお蔭で、皆外見による差別の考えから解放されたのでございます」
「なるほど――」
神教官の言葉に、ふんふんと隣で頷いているのは陽菜だ。
「じゃあ、つまり蕗子様のように、私達のどちらかがより上手に髪を染められるかですね?」
「そういうことです。一応、この国で広く利用されている髪染め薬をご用意いたしました。染めてもらう役には、この館のメイドを二人お借りしましたので、存分に聖女の御業を発揮してください!」
見れば、言われた通り、部屋の端には二人のメイドの女性が紺に近い服を着て立っている。
「なるほど。では、どうぞ!」
置かれていたエプロンをさらっと取り上げると、陽菜は後ろにいるメイド達を振り返った。
「どちらか――いいえ、そうね。手前のくせっ毛の方がいいわ。こちらに来て座ってくださる?」
そして、くるりとイーリスを振り返る。
「私、負けませんわ。だってイーリス様は、離婚されたいのですよね?」
(なに、嫌味?)
とは思ったが、確かにその通りだ。
「ええ。だから、私も負けないわ」
「ふふっ。だったら楽しみです。私が勝って、聖姫の位になったら絶対にイーリス様と陛下を別れさせてさしあげますから!」
(なによ、この子!)
別の世界から来て心細いだろうと少しでも同情したのが馬鹿みたいだ。
(まさか、こんなに性根が悪いなんて――――!)
リーンハルトとなんてお似合いなのだろう。勝手に幸せになればとは思うが、だからと言って、負けるつもりはない。
(私は勝つ! そして、リーンハルトとこの女の悔しがる顔を見ながら、優雅に三行半をたたきつけるのよ!)
人生の勝利を掴むためにもと、むんずと櫛を握ると、椅子の側までおずおずと来ていたもう一人の女性を手招いた。
「ああ、取りあえず座ってくださる?」
「王妃様のお手で染めていただけるなんて、光栄です。どんな感じにしていただけるのですか?」
「えーと、まかせてよ。今より、もう少しだけ明るい色に変えてみせるから」
とはいったものの、実は毛染めなんてしたことがない。
(だって、私が生きていた頃は、まだおしゃれ染めがはやりだしたばかりで、そんなに髪色もなかったし――)
基本的に武将の奥方のような黒髪が理想だったから、流行の茶髪や赤に染めるよりは、しっとりとした濡れ羽色の方が好みだったのだ。
「そうですね。王妃様の聖女の御業を信じます」
(うっ!)
年の頃は、まだ二十歳になったかどうかというメイドだ。言われたまま座って、足首まで覆うエプロンを着けながら期待した顔を輝かせているが、見ているイーリスの方が、引きつってくる。
(どうしよう……私、自分で染めたことってないのだけど……)
茶髪や金髪には興味を感じなかったが、当時カタログで見た藍色に光る髪色には憧れを抱いた。
(だから、綺麗に染めるために美容室でやってもらったのよ! だって、働いていたら、お金を出しても短時間で確実に美しくなりたいじゃない!?)
さすがプロのできあがりには満足したが、その時にやってもらった髪染めの手順までは生憎と詳しく覚えてはいない。
迷って隣を見れば、陽菜はもう最初に呼んだメイドの茶色の髪を幾つもの房に分けて縛っていっているではないか。
(そうよ! 確か、最初は髪を後ろで上げて、奥の方から少しずつ染めていっていたわ!)
陽菜の手つきに、昔鏡越しに見た美容師の手順を必死に思い出す。
蕗子が何者かは知らないが、名前からしておそらく昭和から平成の生まれで、昔のリエンラインに飛ばされてしまったのだろう。
(だとしたら、私が受けた方法とあまりやり方は違わないはず!)
そう考えつくと、メイドの子のストレートの長髪を急いでいくつかの束にして纏めた。次いで、側にあった薬剤を調合していく。
「これは、どれくらい混ぜるように作られているの?」
「はい。蕗子様によれば、そこに書いてある量同士を混ぜ合わせれば、髪に丁度の染料になるそうです」
なるほど。つまり、脱色と着色の効果をもつ薬剤なのだろう。
見れば、側には着色の配合量と、染めるための時間が記されている。
その中から書いてある一つを選び、手元の二つの薬剤を一気に混ぜ合わせた。そして頭の後ろの髪から塗り始めたが、刷毛を動かす度に立ちこめてくる臭いがすごい。
「ごめんなさい、臭いわよね?」
そういえば、昔美容室でも同じ臭いを嗅いだ。鼻をつんとする不快な刺激臭に謝ったのに、メイドの子はいいえと首を振っている。
「どんな色になるのか楽しみなのです。私、染毛って初めてなので」
「え? 皮膚テストとかは?」
「それは、事前に受けた医療検査で問題がないと出ました。特に染毛に反応するような体質はもっていないと言われていて」
なるほど。こちらでは、パッチテストではなく、なにかの医療検査方式で、アレルギーの確認をしているらしい。
納得したが、やはり期待されているのなら、綺麗に染めてあげたくなる。
だから、後ろにまんべんなく塗って次に横、そして前と同じように丁寧に塗った。
全てに塗るとなると、時間はかなりかかったが、美容室で見たのとだいたい同じ手順なはずだ。
「さて、そろそろ時間だから、あとはお湯で染料を流せばよいはずだけれど――」
しかし、隣をちらっと見ると、まだ陽菜は自分の前にいるメイドの頭を触っている。
イーリスも陽菜も、並んで革手袋をつけて髪を染めていたが、今陽菜はなぜか少しだけメイドの髪を濡らして、またかき混ぜているではないか。
(なんで全部流さないの?)
不思議に思ったが、もう自分はメイドの子の後ろ側の髪を、盥で受けながら流し始めている。
(大丈夫よ。染料を塗って、置いていた時間も紙に書かれていた通りのものだったし――――)
これで間違いはないはずと、手伝いに来てくれた別のメイドに、横から盥を支えてもらいながら、髪から落とす染料を流し込んでいく。しかし、白い泡になった染料が落ちていくのに従い、現れた下の髪からははっきりと色の違いが見えてくる。
「うん?」
(まさか――。時間通りにしたはずなのに!)
慌ててもう一度見つめたが、染料を落とした前髪の中央は、一緒に現れてきた頭頂部に対して、明らかに色が黒い。
「どうして!?」
染料の泡がまだ残る髪を急いで摘まむが、どう見ても髪の色はまだらだ。前髪だけではない。よくみれば、もみあげの色もまだ黒い。
(きちんと均一に塗ったし、放置時間も指定通りにしたのに!)
「あーあ」
こちらが慌てている様子に気がついたのだろう。陽菜が苦笑を浮かべた。
「やってしまいましたね。ちゃんと最後に乳化しないとムラになりやすいんですよ」
「乳化?」
そんな言葉自体聞いたことがない。けれど陽菜はよくわかっているようで、今染めている子の髪を摘まんで持ち上げている。
「カラー染料はだいたい油成分なんです。だから、先にお湯でゆっくりマッサージしてあげることで、色が定着しやすくなるし、染料もおとしやすくなるんですよ」
(そんなこと――)
「知らなかったわ……」
思わず呆然と呟いてしまうのに、陽菜は屈託のない笑みだ。
「特に、前髪の真ん中とかもみあげは、色が染まりにくいんですよ。逆に頭頂部は染まりやすいから、ここで色が染まったか見極めようとすると、どうしても失敗しやすくなるんですよね」
「詳しいのね……」
悔しいが、今回ばかりは完全にイーリスの失敗だ。それなのに、陽菜はひょいと自分の茶色い髪を持ちあげている。
「だって、この髪も染めているからですもの。それに、うまく染めてSNSにあげたら、みんないいねをしてくれるんですよ? だから、すごい美人風にしてみたり、ミュージカルのキャラを真似てみたり! やっぱりSNS映えってすごく大事じゃないですか!」
つまり、ほかから認められるためには、努力を惜しまないタイプだったらしい。
「あの、私のこの髪……」
鏡で自分の髪を見たメイドの女の子が、自分の髪と、ムラなく染まった同僚の頭とを見比べながら、不安そうな顔をしている。ぐっと、イーリスは櫛を握りしめた。
「ごめんなさい……」
謝ったが、どう見ても自分の失敗だ。
「今から、やり直すから……」
今度はうまくできるのかなんて自信がない。それでもなんとか直してあげなければと、唇を噛みしめるイーリスの側に陽菜が来ると、今まで使っていたテーブルを見て、鏡を不安そうに覗きこんでいる子に、にこりと笑いかけた。
「ああ、大丈夫。まだ同じ染料が残っているから。じゃあ、染まっていないところだけ同じ薬液を塗って、少し温めたら、色むらもかなりごまかせるはずよ!」
「よかった!」
ありがとうございますとメイドの子は涙をためて喜んでいるが、横に立っているイーリスにすれば敗北感しかない。
(負けた――――!)
完成度で負けただけではない。自分の失敗を、陽菜によって修復してもらうという完膚なきまでに惨めな展開だ。
誰も否定できない圧倒的な陽菜の勝利の前に、イーリスはただ唇を噛みしめることしかできなかった。