第91話 二巻発売記念お礼小話 縁談※イーリス視点
ベランダで椅子に座り、九歳のイーリスは、緊張しながら前を見つめていた。
「うーん、表情が硬いですねえ」
目の前にいる画家は、なかなか思うような笑みを作れないイーリスを気遣って話しかけてくる。
「姫様はお顔立ちがとても愛らしいのですから、もう少し笑顔になれたらいいんですけどねえ。時々なら、お膝の上にある本を眺められても、大丈夫ですよ」
長時間ですからね、気分を紛らわせながら座っていてください、と目の前で絵筆を滑らている画家は言ってくるが、本当はあまり目線を動かすのもよくないのだろう。
幼い姫だから、ひとつの姿勢を取り続けるのは苦痛だろうと思い、絵に描いても大丈夫なイーリスの好きな歴史の本まで用意しておいてくれたのだが――。
正直に言えば、今婚約相手に届ける絵を描かれているのだと思うと、緊張して、文字があまりよく頭に入ってこない。
「姉上、結婚してしまうの?」
そう寂しげに側で呟いているのは、弟のニックスだ。金の髪に、鮮やかな黄緑の瞳。三歳違いの弟は、まだ甘えた声で姉であるイーリスを見つめている。
「ニックス……」
幼い弟のふわふわとした金色の髪を優しく撫でてやった。
「仕方がないんだ。イーリスが異世界の記憶をもつ聖女ということが、知られてしまったのだから」
そう椅子の手すりにもたれている弟を宥めるように、背後から声をかけてきたのは、兄であるフレデリングだ。
イーリスと同じ金色の髪と瞳を持ち、優しげな表情で弟の肩にぽんと手を置いた。
「それは聞いたけれど……。でも、姉上が遠くにいってしまうのはやっぱり寂しいよ」
うるうると目を潤ませている幼い弟は、昔から本当にイーリスのことを慕っている。
「大丈夫よ。結婚するとはいっても同じ大陸ですもの。また、会えると思うし」
そうは言っても、政略結婚な以上、それが簡単ではないことはイーリスもよく知っている。
(本音をいえば、不安だわ――)
大国リエンラインの王太子妃に望まれた。小国の姫にとっては、名誉な話だ。ルフニルツの過去の姫たちのように、結婚という名の人質で嫁がされるわけではなく、後宮のある国で側室のひとりにという話でもない。
きちんとした正室として望まれ、国が崇拝する聖女として迎えるという――。
ありがたい話には違いないのだが、それでも膝の上にある本に置いた手が、少しだけ震えてしまうのは、慣習も文化も違う国へ嫁ぐ不安があるからだろう。ましてや、知りあいが誰もいない国だ。
我慢していたが、少しだけ手が震えているイーリスに気がついたのか。
ぽんとフレデリングが、イーリスの金色の頭を撫でてくれた。
「大丈夫、リエンラインは聖女を本当に大切にしている国らしい。だから、イーリスもきっと大切にしてくれる」
励ましてくれる兄の手から、じんわりと温もりが伝わってくる。
「それに、父上に聞いたんだが、今のリエンライン国王は政略結婚で迎えた亡き王妃を死ぬまで大切に愛し続けていたそうだよ。そんな人が、息子の妻としてお前を迎えたいと言ってくれたんだ。政略結婚であっても、きっとイーリスも大切にしてくれるさ」
そっと撫でてくれる兄の手が優しい。その優しい手つきと言葉に、心がゆっくりと温められていくようだ。
「うん――」
安心させるように話してくれた言葉に、少しだけホッとした。
その様子に、少し離れたところで見ていた父が近寄ってくると、優しくイーリスの肩に手を置いてくれる。
「すまないな、イーリス。リエンラインからの話を断り切れなくて――」
「そんな、お父様、謝らないで」
父がどれだけイーリスのことを大切に思ってくれているのかは知っている。おそらく異世界の記憶を持った聖女ということを隠していたのは、イーリスの身を考えてのことだったのだろう。
「できれば、お前には、好きな人と一緒になって、幸せな人生を歩んでほしかったのだが……」
それが、この小国ルフニルツの王女としては、どれだけ難しいかは父もよく知っている。
「だが、聖女ということが知られた以上、リエンラインは決して諦めずに、お前を手に入れようとしてくるだろう。それならば、下手な争いなど起こさず、ここで望まれた形で嫁ぐほうが、お前にとっても幸せになれる可能性が高いはずだ」
そう言いながらも、父の顔はひどく苦しげだ。それは、きっと娘の無事と幸せを願う父としての親心と、大国リエンラインとの関係を考慮した小国ルフニルツの王としての複雑な感情が混ざり合った末の決断だったからだろう。
だから、イーリスはわざと元気な表情を作った。
「心配しないで、お父様。リエンラインの国王陛下は、政略結婚した王妃様をずっと大切にされていたのでしょう? それならば、その方のご子息ですもの。きっと私も、リエンラインの王太子殿下と幸せになれるわ」
そうだ、最初から不安だけになることもない。きっと良い未来も待っていると思いながら、家族に話しかける。
「ああ、そうだな。今代のリエンラインの王は勇猛なことで有名だ。そして、そのひとり息子であるリーンハルト王太子は、毎日勉強に励み、武芸でも努力を惜しまない王子だと聞いている。だから、本が好きなお前とは、きっと話も合うだろう」
「そうなのね。本が好きな方なのなら、お話しするのが楽しみだわ」
「ああ、年も同じだ。仲良くなれば、きっと幸せになれる。政略で結婚が決まって不安だとは思うが――どうか幸せになってくれ」
「うん、そうね。私も相手がどんな人かは、まだ少ししか知らないけれど……」
(でも――)
「その王太子様と、仲の良い夫婦になりたいわ」
そう今願ったことを口に出すと、自然と笑みがこぼれた。
「きっとふたりで幸せになっていけるように頑張るから――」
まだ顔も知らない婚約者だ。けれど、頑張れば叶わない願いではないはず――。そう思うと、今までとは違い、遠くの婚約者への願いに、照れたような、はにかんだような笑みがこぼれてくる。
「おっ! いいですな、その笑顔」
その顔を描きますから、心の中で今の言葉を念じ続けておいてくださいと、画家が話しながら絵筆を動かしていく。
それは、遠い昔の出来事だったが――。
入ったリーンハルトの部屋の一室で、あの時の絵を見ながら、イーリスは九歳の時の記憶を思い出していた。
肖像画の中の自分は、あの時の気持ちを表しているかのように、少しだけ緊張を残したはにかんだ笑みを浮かべている。
「君が読みたがっていた本は、たしかこの辺にあったと思うが――」
そう言いながら、リーンハルトは自身が幼い頃勉強していた部屋で、参考書に使っていた本を探してくれている。
「この絵――」
そのうしろで、イーリスは壁に大切にかけられていた肖像画を眺めていた。
(あの時の……)
婚約が決まって、その相手に送るという肖像画を描かれていた時に家族と交わした会話を思い出す。
「うん?」
その声に、リーンハルトが振り返った。
「ここにずっと飾ってくれていたのね……」
送られたのが九歳の時ならば、リーンハルトは毎日この部屋に来て勉強をしていたはずだ。
学ぶ合間に、壁にかけられた自分の絵を眺め、どんなふうに見つめていたのか――。
(わわっ!)
なんか、ポンと顔が赤くなったような気がした。
「ああ、婚約の時に送られた絵だな。その絵を見ると、毎日頑張ろうという気持ちになれたから、そこに飾っていたんだ」
リーンハルトは、さらっと言ってくれるが、とんでもない爆弾発言だ。
(まさか、私がリーンハルトと幸せになりたいと思った時に描かれた絵を、毎日見られていたなんて――)
見合い写真の代わりの肖像画だったから、見れば王室関係者用のどこかに飾られるか記録用に保管されて終わりだと思っていた。
それなのに、まさかリーンハルトが毎日見て、将来嫁いでくる自分の姿に頑張ろうと思ってくれていたなんて――。
(どうしよう。どんな顔をしたらいいのかわからない)
あの時、緊張しながらリーンハルトと幸せになりたいと願っていた自分の姿が、ここにそのまま写し取られているようで。
(大丈夫、声までは描かれていないから!)
そうわかってはいても、この絵を描かれた時、たしかに自分は願っていたのだ。
リーンハルトと、幸せな夫婦になりたいと――。
「どうした、急に顔が赤くなったが」
突然、イーリスの顔色が変化したのに驚いたのだろう。リーンハルトが一瞬きょとんとして、すぐに手を伸ばし、イーリスの額の温度を測っている。
「熱はないようだが……」
近付いてくる顔は、九歳の時、イーリスの絵が贈られるのと引き換えにリエンラインから届けられたのと同じ人物の面差しだ。
リーンハルトの幼い肖像画を見た時、イーリスは内心ではすごくホッとしたのだ。
(本当に、同い歳の男の子だわ……)
それまでは、政略結婚ということで、相手についての話しか聞いたことがなかったけれど、絵の中ではたしかに生きているリーンハルトの面差しがある。
(真面目そうだわ……。それに、本当に勉強家なのね……)
肖像画には、その人物の姿以外の特徴や性格も示すため、好むものなども一緒に描かれている。椅子に座って机に向かっているリーンハルトの側にあるのは、勉強している本や紙と、それに剣が一緒に置かれている。なんだかひどく眩しい容姿だが、それは絵だからかもしれない。
たとえ絵だからだとしても、相手が生きていると実感できた。
(この人と幸せな夫婦になりたいわ……)
見た瞬間思った気持ちを、肖像画より成長した目の前の姿に改めて思い出す。
「な、なんでもないわ。ただ、この肖像画を大切にしてくれていたのが、嬉しかっただけで……」
あの時の願いは叶わなかったと思っていたが、遠回りをして、今目の前に現れてきたような気分だ。
「そうなのか。だが、大事にするのは当たり前だろう。大切な君の絵なのだから――」
その瞬間、さらにぼんとイーリスの顔が赤くなった。
「た、大切って……!」
この絵が届いた時は、お互いに会ったこともなかったのに。
「俺は、この絵を見た瞬間、いつか君に会える日がとても楽しみになったんだ。だから、その時から、君は俺にとって特別な存在になった」
(まさか、リーンハルトがそんなふうに思ってくれていたなんて……!)
今まで知らなかっただけに、心臓がドキドキとして止まらなくなる。
「だから、六年も悲しませて悪かった。これからは、もっと素直に君のことを大切だと伝えるから――」
どうか、これからも俺の側にいてほしいと、そっと口付けをしてくる。
「うん……」
それを受け止めながら、小さく返事をした。
そして、壁の肖像画を見れば、緊張してはにかんでいたはずの幼い自分の笑みが、なぜか一瞬とても幸せそうに見えたではないか。
すぐに絵は元の表情に戻ったが、きっと今のイーリスの気持ちでそう見えたのだろう。
だから、イーリスも普段よりは素直に口にできた。
「ありがとう、私にとっても、リーンハルトはとても大切な存在よ……」
それを示すように、ゆっくりとイーリスから抱き締める。その瞬間、リーンハルトの顔がすごく幸せそうになり、倍以上に強い力で抱き締め返された。
お互いに大切だと伝え、もう一度世界でただひと組の夫婦となっていく。それを感じながら、イーリスも幸せそうに笑った。