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第90話 遠い北の空へ

 あの頃は、まだイーリスの手が、今よりも少し小さかっただろうか。


 六年前の互いに十一歳の時、記憶の中のリーンハルトは連日玉座に座って、洪水のあとの対策に追われていた。


「では、そちらの修復は終わったのだな」


「はい、聖女様の出された案のおかげで、民も生活を早く再建できそうで、喜んでおります」


「そうか――」


 側で見ているイーリスの目に映るリーンハルトは、苦々しい表情だ。きっとこの間の喧嘩が響いているのだろう。そのすぐ近くに立っていても、うまく声をかけることができない。


 ほとんど毎日寝ずに頑張っているリーンハルトの顔色は、ここから見てもあまりよくないものだ。


(きちんと寝ているの?)


 それさえも訊けない今の関係がもどかしくてたまらない。洪水が起こるついこの間までは、互いに仲良く笑って話していたのに。


 それなのに、今は、ほんのひと言がふたりの間で余計な刺激を起こしそうだ。だからイーリスには寄越されないその目に、重苦しいものを感じながら、無言で顔を見続けた。


 その時だった。突然、激しい足音が大翼宮の廊下から響いてくる。


「へ、陛下!」


 駆け込んできた声に、ハッと扉を振り返った。見れば、入ってきたのは、軍部の騎士団長だ。若いが歴戦の猛者で、今ではこの王宮を守る第一騎士団を率いている。


 いつもは軍の重鎮として落ちついた姿をしている彼が、後ろにいる砂で汚れた格好をした使者の男を、ぐいっと腕で前へ引っ張りながら、床へと片膝をついた。


「急襲でございます!」


 その言葉に、その場にいたリエンラインの重臣たちの顔が一斉に強張ったものとなる。


 重臣たちにとっては、聞き慣れた言葉だ。国土の広いリエンラインでは、多くの国と境を接しているため、なにかきっかけがあれば、すぐに小競り合いが起きてしまう。


「どこだ」


 持っていた書類を侍従に急いで渡して、リーンハルトはすぐに使者を連れた騎士団長へと冷静に向き直った。しかし、頭を上げた使者が次に発した言葉で、顔色がはっきりと変わる。


「ルフニルツ王国でございます! ガルデン国が、突然ルフニルツ王国へ攻め込んできたと――」


 聞いた瞬間、イーリス自身の顔からも、さっと血の気が引くのがわかった。


(お父様! お母様!)


 それに兄と弟。結婚で旅発つ日に、馬車に向かって見えなくなるまで手を振っていた姿が脳裏に甦ってくる。嫁ぐイーリスを心配して、両親は代わる代わる頭を撫で、兄弟は何度も別れを惜しむように抱擁してくれたというのに。


「いつだ!?」


 鋭く叫んだリーンハルトの声で、思い出の中に囚われそうだったイーリスの意識が、ハッと現実へと引き戻された。


「それが、一週間ほど前のことだと……」


「なっ……!」


 絶句したのは、自分だけではない。ルフニルツは本当に小国だ。そこを北の猛獣とも称される大国ガルデンに襲いかかられては――。


 ひとたまりもないのは、目に見えている。


「なんで、すぐに知らせなかった!」


 怒りのこもったリーンハルトの声が部屋に響くが、使者は泥だらけの顔でうなだれたままだ。


「それが……、ドリルデン地方の洪水で、下流地域の橋が流され、また道が土砂崩れで埋まっていたために、急襲を知らせるルフニルツ王国からの使者の到着が遅れ……。北方地域の軍支部に、なんとか到着できたあとも、狼煙台が流されていたので早馬を出したのですが、そこから都へは迂回路を使わなければ来ることができなかったのです……」


 それで、到着が今になってしまいましたとうなだれる使者に罪がないのは明らかだ。


「軍の――都への連絡体制の復旧を後に回したのを、狙われたということか……!」


 その瞬間、リーンハルトの顔にはっきりと愕然という色が浮かんだ。民のため、復興で軍関係を後回しにしていたのは、リーンハルトだ。だが、まさかそこを狙われるとは思わなかったのだろう。


 しかし、今は一刻の猶予もない。


「すぐに援軍を派遣しろ! 軍務大臣は、今すぐに動かせる騎士団の選定を! それから農務大臣は、倉庫にある兵糧の確認。工務大臣は、洪水で使えない道を除いたルフニルツ王国への最短ルートを確認しろ!」


「はっ!」


 その場にいた全員が一丸となって動き出していく。


 その様子に、今まで呆然と見ていたイーリスは、からからになった口で、やっとしゃべることができた。


「リーンハルト……。お父様やお母様、お兄様や弟は……」


「わかっている。結婚の時の約束だ。なにがあっても助ける」


「う、うん……。お願いね……。お願い……リーンハルト」


 ただ、お願いと繰り返すことしかできない。聖女なんて言われても、こんな時には実際にはなんの力も持たない小娘だ。


 ただ、戦で負けた国主の末路など、歴史で嫌というほど知っている。


 日本の戦国時代では、禍根を断つために処刑されたりもした。そんな目に家族が遭うかもしれないなんて――。


 考えただけで、胸が潰れてきそうだ。


 出された命令に、大臣や官僚が一斉に動いて、手早く援軍の用意を整えていく。


「まさか聖女様の国が……」


「間に合うのか、一週間前なんて」


 こそこそと話す官僚たちの言葉に、アイスブルーの瞳がギラリと光る。


 その瞳に背中を押されたのもあるのだろう。それに元々リエンラインは、戦慣れをした国だ。全員が急いで、眠らずにことにあたってくれる。


 ――きっと大丈夫。


 これならば、必ず家族の命は助かる。


 そう信じて、イーリスは祈りながら手伝っていたのに――――。


 不吉な風の吹く曇天が、整列した援軍の頭上に広がる日。やっと準備が整い、まさに今援軍が出発しようとしていた矢先に、二回目の早馬が北部から届いたのだ。


「陛下!」


 嫌な予感に、軍の隊列を前にしていたリーンハルトの側に立ちながら、イーリスも声のほうを振り返る。


 するとこの間見た使者よりも、さらにぼろぼろになった服を纏った兵が、曇天の下で駆け寄り、血が滲む腕を手で押さえながら跪いていくではないか。


「ルフニルツ王国が落ちました――!」


「ひっ……!」


 思わず出かけた叫びを呑み込んでしまった。


 ――間に合わなかったのだ……!


 どれだけあの時戦慄しただろう。家族の命が、どうなるかわからない。咄嗟に目の前が真っ暗になり、恐ろしいほどの恐怖が、心の中で駆け巡っていく。


(お父様、お母様! フレデリング兄様、ニックス!)


 どれだけ心の中で叫んだか――――。


 もう二度とあんな思いはしたくはない。


「イーリス」


 ふと、その声に瞼を上げると、後ろではいつの間に近付いてきていたのか、今のリーンハルトが沈痛な顔でイーリスを眺めていた。


「すまなかった。突然の話で、驚かせて――」


 驚いたといえば、そうだ。今までルフニルツの家族については、たまにガルデンに使者がたつときに、手紙のやり取りを頼むぐらいだったのだから。


 返ってきた手紙で、ガルデンで無事に暮らしているとわかるだけで、ホッとしていた。


 だから、リーンハルトをこの件で恨んだことはなかったのだが――。


 自身の失敗で援軍が遅れ、ルフニルツ陥落に結びついてしまったリーンハルトにすれば、そうではなかったのだろう。


「本当は、きちんとガルデンと交渉を行い、君の家族と面談ができるぐらいにまで進めてから話すつもりだったんだ」


 それは、きっとイーリスが口には出さなくても、家族に会いたいと願っているのに気がついていたからだろう。交渉してダメだった場合に、がっかりさせたくなかったのに違いない。期待すればそれだけ悲しみが多くなるのを知っているから――。


 だから、そっと首を横に振った。


「ううん、私を家族に会わせたいと考えてくれただけで嬉しいわ」


「イーリス……」


 まだ少しだけ曇っている表情に、リーンハルトが優しく手を伸ばしてくれる。そして、頭をその腕で優しく抱き締めてくれた。


「君を不安にさせるような交渉役をたてることになってすまない。だけど、俺は必ず君をもう一度家族に会わせてみせるから――。だから、少しだけ俺を信じて、待っていてほしい」


「うん……」


 抱き締めてくるリーンハルトの腕が、イーリスをそっとその広い胸に包み込んでくれる。


 ガルデンの敵国であるリエンラインの王妃である以上、口に出してはいけないとずっと自分に枷をかけてきた。


 だが、リーンハルトの腕の中は温かくて、今ならばイーリス自身の思いを口にしても、リエンラインの王である彼を追いつめることはなく許されるような気がする。


 だから、リーンハルトの背後に広がる遠い北の地へと続く青い空を見つめながら、やっと長い間心に封じていた本当の気持ちを口へと乗せた。


「ありがとう。本当は私――ずっと家族に会いたかったの」



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― 新着の感想 ―
[一言] 内政も外交も大変。まだ、幼さが残る中、リーンハルト、頑張ったんだねぇ…。
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