第89話 陽菜の迷い
あのあと、イーリスは陽菜の気分を少し落ち着けるために、王妃宮の出口から庭へと散歩に連れ出していた。ギイトとアンゼルは、ヴィリの件を報告するために、瑞命宮を出るとすぐに神殿へと戻っていったが、残ったふたりで春らしくなっていく庭を見ていても、心はざわざわとして落ち着かない。
(ヴィリが、お父様やお母様たちの交渉役に――)
決心したのはイーリス自身だが、青い空を見ていても、心の中ではやはりもやもやとしたものが渦巻いたままだ。
(本当に、ヴィリを信頼しても大丈夫なのかしら?)
裏切らないように、リーンハルトとグリゴアは何重にも手を打つと約束してくれた。監視役をつけると話していたし、最悪の場合は、逃亡を防ぐために容赦ない手段まで考えているようだ。それだけではなく、成功報酬として、ヴィリ自身の命とその後の地位の保証までしたのだから、打算的なヴィリにすれば、裏切れば損だということはすぐに計算がつくだろう。
(だから、それを信じて任せるしかないけれど……)
流れてくる風に金の髪をすっと手で押さえた。しかし、心の中は、やはり落ち着かない。それは、すぐ側で一緒に歩いている陽菜も同じだったのだろう。
「まさかヴィリが、イーリス様のご家族の交渉役になるなんて……」
足元で咲いているパンジーを見ながら、やはり複雑な表情をしている。
「私、ヴィリに対してどういう顔をしたらいいのかわからなくて……。たしかに、あの時利用されて嘘をつかれたうえに、見捨てられましたけれど。こちらの世界に来て間もない頃、不安だった時に、ずっとヴィリが支えてくれていたのも事実ですし……」
ヴィリにとっては、自身の出世のために行ったことでも、心細かった当時の陽菜にとっては、彼の支えは本当に救いだったのだろう。それだけに、自分を利用していた彼とどう向き合えばいいのかわからないという表情をしている。
「そうね……。私からしたら、思いきり怒ってやって、恨んでもいいと思うけれど」
「それも、やっぱり心の中ではあるんです。でも、いざ手足を落とされるとか、首を切られるという話を聞いていると『やめて』と言いたくなってしまうし、かといって全部許されるかもしれないと思うと、私が幽閉されかけた時の恐怖を思い出して、腹が立ってくるし……」
自分でもなにがなんだかわかりませんと、陽菜は困ったように花に向かって溜め息をついている。
陽菜にしてみれば、ヴィリがいつか死刑になるだろうという話は聞いていたが、まだ判決が出ていないことと、できるだけ陽菜には彼の話をするのを避けていたので、今回与えられる肉刑の生々しい表現を耳にして、さすがに心が乱れているのだろう。
「そうね。でも、それが本来普通なのかもね」
誰だって自分と関わったことのある人が、残酷な刑罰を受けると聞けば、動揺するのは当たり前だ。
ましてや陽菜は、向こうの世界では普通の高校生だったのだから。それが一時とはいえ、親しかった相手が死ぬかもしれないと聞いて、平静でいられるはずがない。
「あ、でもヴィリへの感情はともかく、イーリス様のご家族を助け出してほしいとは思っているんですよ! イーリス様だって、きっとご家族に会いたいでしょうし」
だからと、陽菜は少し困ったような顔で微笑んだ。
「ヴィリに対してどうしたいのか――私もよく考えてみます。イーリス様のご家族のためにも、首だけで帰ってきてほしくはないですし」
――イーリスの家族のために。
それはきっと、家族に会いたいとイーリスが願っているのを知ったのと、ヴィリへの複雑な感情が交ざって、陽菜の口から飛び出したのだろう。
「陽菜――」
どれだけその心中は複雑なことか。
「ありがとう……」
だから、微笑みながらそう告げると、陽菜は少しだけ笑みを浮かべて歩き始めた。
「それでは――私は別宮に戻るので、こちらの道から帰りますね」
「ええ」
その姿を見送り、青い三月の空へとイーリスは顔を上げる。
(そうだわ。もし、ヴィリが成功すれば家族に会える……!)
春の風を吸い込み、その言葉を心で唱える。
いつか家族に会いたいという願いは、この六年間ずっと心に秘めていたものだ。
(もしも、お父様やお母様、兄弟たちにもう一度会えるのならば……!)
なんとしても会いたいと、どうして願わずにいられるだろう。
その思いは、時に狂おしいほどイーリスの脳裏を駆け巡っていった。
だが、それはあの六年前の日から口には出さないようにしていたのだ。そう、あのリーンハルトと決定的にすれ違うことになってしまった洪水からの一連の事件の中で――。
風の中で、瞼を伏せれば、その時の光景が今もまざまざと甦ってくる。脳裏に浮かぶその記憶に、イーリスはそのまま静かに目を閉じた。