第88話 ガルデンからの条件③
落ち着かない気持ちで待っていた部屋に、ヴィリが騎士たちに連れられてやってきたのは、それから四半時ほどがたってからだった。
「お召しにより参上いたしました」
薄汚れた神官服は、捕らえられた当時のままのものだ。あちこち泥や砂がついているのは、おそらく取り調べのときに、それなりの拷問が加えられたからだろう。それでも、裁判のために、命にかかわるほどのことはされなかったのか。髪と髭こそ伸び放題だが、以前より痩せた面影の中で光る眼差しは、昔よりも鋭い光を放ち続けている。
「ヴィリ……」
両手足に鎖で繋いだ枷をつけられたまま、高位神官であった時と同じように挨拶をするヴィリの姿を見て、思わず陽菜の口から名前が洩れた。
陽菜にすれば、自分を騙していた相手だ。再会して、なにも思わないわけがない。ましてや、この世界に来てからあの事件まで、ずっと信頼していた者ならばなおさら――。
息を呑んで唇に手をあてた陽菜の姿を、ヴィリはじゃらっと手足の鎖を鳴らしながら見つめた。
「ヴィリ」
その視線に、リーンハルトがすぐに鋭い眼差しを向ける。
「お前を牢から出したのは、イーリスの家族についての交渉を行う役に、ガルデンが六年前の停戦時に、調停にいた者を指名してきたからだ」
「ほう――」
それだけで、ヴィリはここに呼ばれた理由がわかったのだろう。
鋭い鳶色の瞳で、窺うようにリーンハルトを見つめている。
「死者を指名してくるとは。簡潔なお断りの返事ですな」
「そういうことだ。そこまですぐに理解したのならば、俺がここにお前を呼んだわけもわかっただろう」
同じように鋭く返すアイスブルーの瞳に、ヴィリは口元に薄い笑みを刷いたまま聞いている。
「つまり、私にガルデンへ行って交渉をしてこいと?」
罪人とは思えないほど、余裕のある態度だ。
その姿を、リーンハルトはジッと見つめた。
「そうだ。高位の神官になるほど学を積んだお前ならば知っていると思うが――敵国への使者は、ひとたび交渉が決裂すれば、その首を刎ねて送り返されることもある危険な任務だ。このままだと、死刑を免れないお前には、ふさわしい役目だろう」
「なるほど、刑の執行前に死にたくなければ、成功させろということですな」
ですが――と、ヴィリは薄い笑みを浮かべたまま、リーンハルトを見つめ続けている。
「それを、私がすることで得られるものとはなにですか?」
突然の言葉に、イーリスのうしろにいたギイトが口を開いた。
「お前……! よくも、そんなことを……!」
ギイトにしてみれば、人の命がかかった交渉で、自分の利益を天秤にかけるのが信じられないのだろう。ましてや、今回の件はイーリスの家族の身柄についてだ。損得をはかるのが信じられないというギイトの表情に、ヴィリは相変わらず嘲るように「ふん」と、視線を寄越す。そして、すぐに元通り向き直った。
「このままでは、私は裁判が終わり次第、どちらにしても首を刎ねられます。それをわざわざ危険な任務で、時期を早める必要はないでしょう」
「ヴィリ、お前っ……!」
ぎゅっと拳を握りしめたギイトが飛び出していきそうなのを、側にいたイーリスが、腕で遮って前に進むのを止める。
「ギイト、落ち着いて」
「イーリス様、しかし!」
その様子ですらヴィリは面白そうに眺めている。いや、本当に面白いのかもしれない。あんな狭い暗い牢獄に、長期間閉じ込められていたのだから――。
ヴィリの態度に、イーリスの額にも冷や汗が浮かんできそうだ。それを感じながら見つめていると、その視線の前でリーンハルトが身動きをした。
「獄吏たちの話によると――お前は、何度も脱走を企んでいたそうだな」
「企みをね。実際にしてはいませんよ、まだ。失敗して捕まれば、その場で殺されても文句は言えませんからね」
相変わらずの狡猾さだ。前に牢で会った時に、ヴィリが己の身については自分でなんとかすると話していたのは、本心だったのか。ならば――。
ふと、あの時ヴィリが話題にしたことを思い出した。
「お前は、以前牢の中で、イーリスに自分を側近として取り立ててほしいと言ったそうだな?」
思い返していた言葉を言われ、ドキンと心臓が跳ねた。
「ええ、申しましたね。私は利己的なので、自身の栄達が叶うのならば、陽菜様の補佐でもイーリス様の側近でもかまわないのですよ」
「なっ……!」
叫んだのは、陽菜だったのか、それともギイトだったのか。ギイトは、当時側で共に聞いていたはずだが、陽菜を前にしてのあまりの言葉に、さすがに憤りが勝ったのかもしれない。
「ヴィリ、お前っ! 無礼にしても、あまりにも――」
今にも飛び出しそうなギイトの前で、しかしリーンハルトは冷静に言葉を返した。
「ならば、俺でも問題はなかろう」
「リーンハルト!?」
「リーンハルト様!?」
耳にした言葉に、咄嗟にイーリスとグリゴアが見つめた。しかし、肝心のリーンハルトは動かずに、ジッとヴィリに視線をやったままだ。
「お前はイーリスや陽菜の側に置くには危険すぎる。だが、今回の交渉を成功させ、無事イーリスの家族を取り返すことに尽力したのなら、『国に貢献した者には、王が褒賞を与える』という決まりにしたがい、減刑のうえお前をグリゴアの配下に迎える手配をしてやろう」
「ほう――それは」
ヴィリの髭の中で、唇がゆっくりと吊り上がっていく。
「悪い条件では、ないですね。いささか上司が手強そうですが」
「ただし、褒賞を期待するのなら、最低限としてガルデン王の返書は持ち帰れ。決して相手に門前払いをさせず、なんとしても今回の交渉のテーブルに引き出すんだ」
射るように厳しくアイスブルーの瞳が見つめている。そのあまりにも苛烈な気迫に、一瞬だけヴィリの表情が変わった。
「イーリス様」
「は、はいっ!?」
なぜ、ここでヴィリがイーリスの名前を呼ぶのか――。
わからなかったが、見つめた先で、鳶色の瞳はイーリスを探るように見つめてくる。
「あの時、私が条件として出したケリーの件は……」
「ああ、彼女のことなら、あのあと私の聖姫就任時の恩赦の対象になることに決まったから、牢からもう少し暮らしやすい幽閉先へと移されたけれど……」
塔に近い建物で、外に出ることはできないが、恩赦までの間を寒い思いなどをせずに過ごすことはできるはずだ。
「そうですか……」
その返事に、ヴィリの顔が一瞬ホッとしたように見えた。
(それが、気がかりだったのかしら……?)
幼い頃、林檎を半分分けてくれたという従姉の安否が――。
ふと、そう思う間にも、ヴィリの目は前に動き、はっきりと笑みを描きながらリーンハルトを見つめていく。
「では、拒む理由はどこにもありませんね。承りました。ですが、陛下もゆめゆめ、お約束をお忘れなきよう――」
「それはお前が生きて帰ってきてから言え。失敗して戻ってきたのが首だけなら、容赦なく罪人として葬ってやるからな」
その言葉にヴィリは、深々と頭を下げていく。
「わかりました。では、私は全力をつくして、必ずやガルデン王の返書を持ち帰ってみせましょう」
そして、頭を上げてから部屋を退出しようとして、ふと後ろにいる陽菜に目を留めた。
「陽菜様もお元気そうでなによりです」
(利用した挙げ句、裏切っておいてなにをいけしゃあしゃあと――)
「ヴィリ……」
どう言葉を返したらいいのかわからない様子の陽菜の前に立ち、咄嗟にその姿を隠す。
だが、返事は期待していなかったのか、ヴィリはイーリスの様子に面白そうな笑みを浮かべると、すぐにグリゴアに連れられて部屋を出ていった。