第86話 ガルデンからの条件①
王妃宮の窓から、暖かくなり始めた春の日差しが降り注いでいる。
この間まで冬だったのに、随分と寒さも和らいできた王妃宮の室内では、イーリスと一緒に陽菜が目の前に並んだドレスのデザイン画を見ている。
「イーリス様なら、こちらにあるデザインのドレスたちのほうが似合いますよ!」
「でも、ちょっと派手じゃないかしら?」
王妃宮の居間で、テーブルに置かれたドレスのデザイン画と布地の見本帳を見ながら答えると、目の前に座った陽菜は、屈託なくイーリスに笑いかけている。
「そんなことないですよ! 再婚式用に作られるのなら、むしろもっと豪華にしてもいいぐらいです」
「そうかしら」
地味好きだと言われる自覚があったので、同じ年頃の陽菜にそう明るくアドバイスされると悩んでしまう。その側でお茶を出していたコリンナが、陽菜が机に並べたデザイン画を覗きこんだ。
「そうですね。お祝いの席ですから、これぐらい華やかなほうがいいと思いますよ」
「コリンナ」
信頼している侍女の声に金色の目を上げる。するとコリンナは、お茶を置いたお盆を抱えながら、にっこりと笑った。
「だって、イーリス様と陛下がもう一度ご結婚なされる日なのでしょう。それならば、思いきり美しいイーリス様を陛下に見せて、一生その姿を忘れられなくしてあげたいではないですか」
一生忘れられない姿にする――そう心で呟くと、ぽっと頬に朱色が点った。
そのコリンナの言葉に、陽菜も両手を合わせて「そうそう」と頷いている。
「それにこちらのデザインならば、おふたりで並ばれた姿もとてもステキですし」
その言葉に、花嫁と対になっているリーンハルトの衣装も見つめた。
レナの件の決着がつき、リーンハルトと再婚しても大丈夫と、はっきりと心が定まったので、近付いてくる再婚の日に備えて、式典用のドレスのデザイン画を取り寄せていたのだ。色とりどりに並ぶそれはどれも美しいが、ここにあるドレスを着てリーンハルトの側に並ぶ自分の姿を想像してみると、なんだか急速に顔が熱くなってくる。
(なんだか、照れくさいような……。ものすごく心の中がキュンとして、ドキドキが止まらないような……)
前回は政略結婚で不安ばかりが大きかったから感じなかったが、ひょっとしたら結婚式前の花嫁というのは、みんなこんな甘酸っぱい気持ちを味わうものなのだろうか。
並べられているドレスのデザイン画に目を落としながら、一緒に描かれている男性用の服も見つめた。
(この中のどれかをリーンハルトが着るのね……)
ここに描かれた花婿用の服を着て、婚礼用のドレスを纏った自分と、もう一度神の像の前に歩いていく。そして、そこで改めて互いに生涯の愛を誓い、もう一度夫婦としての口付けを交わすのだ。
あのアイスブルーの瞳が、イーリスに向かって優しく微笑み、銀の髪とともにやがて視界いっぱいに広がっていく姿を想像すると、その瞬間、顔が爆発するように赤くなってしまった。
(わわっ! 私、なにを想像しているのよ――!)
キスなんて、やり直すと決めてから何度もしたはずだ。それなのに、改めて、自分の頬に両手を添えて近付いてくるリーンハルトの顔を想像すると、それだけで胸がバクバクとして止まらなくなってくる。
(ちょっと待って! こんなので、私、再婚式まで心臓がもつの!?)
まさか、両想いになってから、以前よりもイーリスに甘い顔を見せるようになったリーンハルトに、動悸が止まらないだなんて――。
「イーリス様?」
そのイーリスの様子に気がついたのだろう。コリンナが側で、不思議そうに声をかけた。その時だった。
コンコンと部屋の扉をノックする音がする。
「はい?」
コリンナが返事をするために視線が逸れたのに、思わずホッとした。
「お集まりのところ、申し訳ありません。陛下がイーリス様をお呼びです」
「リーンハルトが?」
助かった。これでなにを妄想していたのかは、コリンナと陽菜には知られずにすむだろう。
「では、すぐに行かなくてはね。あ、でも陽菜は――」
扉から現れたリーンハルトの侍従に返事をしてから、陽菜に目をやる。すると、侍従は恭しく腰を折った。
「陽菜様もできましたらご一緒に――と承っております」
「そう、では一緒に行くわね」
珍しい。リーンハルトが、イーリスだけではなく、陽菜まで呼び出すなんて。
「それぞれの側近である神官の方も、どうかご一緒にということです」
なんだろう。リーンハルトが、ギイトまで一緒にというのは、本当に滅多とないことだ。
「ひょっとして、なにか悪い話なの?」
ギイトまで呼ぶと聞いて、思わず勘ぐってしまうのは仕方がないだろう。
「いえ、そういうことではなく――。ただ、いずれお伝えしなければならないことだそうですので……」
ますますわからない。しかし、きっとなにか理由があるのだろうと思い、それぞれの補佐であるギイトとアンゼルを連れながら、茶大理石で作られた瑞命宮の奥にあるリーンハルトの居間へと足を運んだ。
(なんの用事なのかしら?)
そう思う間にも、侍従の「イーリス様と陽菜様たちがおなりです」という言葉に、扉の向こうからは「入れ」と短く返ってくる。
それを確かめてから、かちゃりと侍従が扉を開けると、中では、薄い香色の大理石の壁に包まれた部屋の中央にリーンハルトが座り、グリゴアと一緒にイーリスたちが入ってくるのを待ち構えていた。
「お呼びと伺いまして――」
リーンハルトのアイスブルーの瞳に、さっきの妄想を思い出し、思わず赤くなりそうな頬を、こほんと咳払いをすることで誤魔化した。
そして、少しだけ目を動かすと、その視線が、リーンハルトとグリゴアの前に立つ人物に留まり、「あっ」と弾んだ声をあげる。
「オデル!」
目の前で栗色の髪をひとつに纏めているのは、トリルデン村で異世界の水から助けてくれたオデルだ。山を下りてからは、ポルネット大臣によって強要された内容と、人質にされていた母親を助けるために、秘密裏に取り調べを受けていたのだが――。
「もう、取り調べは終わったの? では、人質にされていたお母様も無事救出されて?」
笑顔で勢い込みながら尋ねると、オデルは穏やかな顔に、にこっと笑みを浮かべている。
「はい、国王陛下のお力のおかげで、先日母も助け出されたと知らせが届きました。長い間閉じ込められていたせいで足腰が弱っているみたいなのですが、命に別状はなく、休みながらこちらへ向かっているそうです」
「そうなのね。お母様が無事救出されてよかったわ」
本当によかった。人里離れたところで静かに暮らしていたのに、魔道具を作る能力を持っていたが故に、脅されて利用されたのだ。これからは、望んでいたとおり、家族一緒に平和に過ごしてほしい。
そのイーリスたちの姿に、座っていたリーンハルトが静かに口を開く。
「捕らえたレナの側にいた女の召使いは、一連の事件について否定しているそうだ。人違いだと主張しているらしいが、顔も身元も間違いないので、これから詳しく取り調べる予定だ」
「そうなのね」
「それと、今回巻き込まれた隠された民には、この王都の近くの直轄地に、新しい土地を与えるようにした。日当たりもいいし、適度に郊外で、首都の喧噪にも巻き込まれないから、今後は、王家の庇護の元で静かに暮らしていけるはずだ」
「よかったわ。王家の直轄領ならば、誰も手を出すことができないし」
ずっと過去にあった出来事のせいで、迫害を受けながら苦労してきた一族だ。だが、これからは、王家の庇護を受けるのなら、そんな風潮もなくなっていくだろう。
ほっとしてオデルを見つめると、側で聞いていた陽菜も、顔を笑みで輝かせた。
「よかったです! これからは家族で暮らせるんですね!」
陽菜にしてみれば、自分をこの世界に連れてきた原因でもある一族だ。それなのに、事情を知ってからは、逆に、連れ去られた母親を思うオデルの気持ちに同情していた。きっとそれは、家族と引き離されて、その安否のわからない辛さがわかるからだろう。
「陽菜様……その節は、脅されたからとはいえ、大変申し訳ありませんでした」
こちらの世界に無理やり召喚したことを真摯に謝るオデルに、陽菜は優しく首を横に振っている。
「母親や子供を人質にとられたら、私でも断るなんてできなかったと思います。それにこれからは、オデルさんは、私が元の世界に帰れるように協力してくださるんでしょう?」
「それは、もちろん」
その言葉で、横にいるイーリスも頷く。
「そうね。これからは、オデルは、きちんと陽菜が帰れるように考えてくれるそうだから」
だからきっと家族に会えるわと笑顔で続けると、その言葉を聞いた陽菜が、嬉しそうにはにかんだ笑みをこぼす。
「はい……ありがとうございます!」
「えーっ、陽菜様。やっぱり帰ってしまうんですか? 会えなくなるなんて、俺は嫌ですよう」
「これ、アンゼル」
また叫びだしたアンゼルを、困ったようにギイトが側で窘めている。
「それが、陽菜様の望みなのだから。補佐をする神官としては、聖女様の望みに添うようにしなければ」
「そうかもしれませんけれど! やっぱり、それっきり会えないなんて悲しすぎるじゃないですか!」
うわーんと陽菜にすがりつく姿に、額につい汗が流れてくる。
「うーん、なにか映像付きの電話みたいなものでもあればいいのだけれど……」
また始まってしまったと思いながら、イーリスが口にすると、前にいたリーンハルトが不思議そうに首を傾げている。
「映像付きの電話?」
「ああ。互いの姿を見ながら通話できる装置なの。それがあったら、離れていても顔を見て話せるから……」
「それならば」
ふむと、リーンハルトが手を組んだ。
「今後アンゼルが陽菜と別れたくなくて、帰らせないために暴走しても厄介だ。オデル、似たようなものが作れないか、試してみてもらえないだろうか?」
(え? 時空をこえるものを?)
思わずリーンハルトの発言に、その顔を凝視してしまった。しかし、アイスブルーの瞳の持ち主は、しれっとした顔で命じている。
「もし、できそうなら、俺の元に試作品を持ってきてくれ。念のためにふたつ。多くの者で試したほうが、早く完成するだろう」
「はい、では引っ越しがすみ次第、できるか村の者と相談してみます」
(どうして、ふたつも頼むのかしら……?)
アンゼルと陽菜で試せばすむ話なのに。なぜかほかのことも企んでいるような気がして、思わずジッとリーンハルトを見つめてしまった。
だが、陽菜を元の世界に帰すためには、アンゼルに納得してもらうのは必要だ。
「通話の装置! それがあれば、陽菜様とも会えなくはならないのですか!?」
「まあ……直接ではないけれど、会って話せるわね」
そう答えると、アンゼルの顔がぱっと輝いている。これだけでも、陽菜の帰還に向けての準備が、一歩前進したのかもしれない。
(それに、安全に帰るためには、いろいろと打ち合わせも必要だろうし……)
そう思い、リーンハルトに向き直った。
「ありがとう。いろいろと考えてくれて。今日私と陽菜をここに呼び出したのは、オデルと引き合わせるためだったの?」
微笑みながらこそっと尋ねると、リーンハルトはジッとこちらを見つめている。
「いや、今日の目的はそれではなく――」
しばらく、考え込むようにして口を閉じた。そして、金色の瞳に視線を定めたまま、再度口を開く。
「ガルデンと君の家族について、交渉を始めることにした」
「えっ!?」
予想もしなかった言葉だ。それに、思わずイーリスの口から声が漏れた。
「それは――」
(まさか、お父様やお母様、それに生き別れた兄弟たちに会えるの……?)
一瞬で、脳裏に故国ルフニルツで過ごした幼い頃が甦ってくる。
争いが嫌いで穏やかだった父と母。喧嘩もしたが、仲良く遊んだ兄と弟。
からかいながらも、いつもイーリスに優しかった兄や、少し甘えん坊で側にいるのが大好きだった弟の顔と、いつもそれを優しく眺めていた両親の姿が、瞬時に脳裏を駆け巡っていく。
いつか叶うのならば、もう一度会いたいとずっと願っていた。
しかし、ガルデンと敵対するリエンラインに嫁いだ身では、それを口にすることはできないと、一度も言葉に出したことはなかったのに――。
まさかリーンハルトが、それを考えてくれていたなんて。
「リーンハルト……」
「君の家族については、俺もずっと気になっていた。だから、できるならば再婚式に出席してもらえるようにしたい。いや、可能ならば、そのままリエンラインに留まって、君といつでも会えるようになってほしいと考えているんだが――」
話すリーンハルトが、ぎゅっと目の前で拳を握りしめる。
「ただ、ガルデンが交渉にあたって条件を出してきた」
「条件!?」
「ああ、それも、よりによって死者を交渉役に立てろと言ってきたんだ」
死者を交渉役に――。その予想もしなかった言葉に、イーリスは大きく目を見開いた。