第84話 陽菜の笑顔
トリルデン村での一連の調査と報告を受け、都に帰ってきたのは、それからさらに数日がたってからだった。
都を出立してから、たいしてたってはいないというのに、宮殿の木々はいつの間にか春めいた雰囲気になっている。
「ほんの少しの間に、花が増えているわね」
「ああ、だんだん暖かくなってきたからな」
いよいよ春だというリーンハルトの言葉を肯定するかのように、王妃宮の外では、葉を落としていた広葉樹たちが、枝に小さな新芽を宿し、その下では、早咲きのすみれやデージーたちが、久し振りに帰還したイーリスに笑いかけている。
それらを見ながら、イーリスは一緒に行っていたギイトたちや、出迎えに来ていたグリゴアと一緒に王妃宮に入ると、待ち構えていたように別宮から陽菜がアンゼルを連れてやってきた。
急いで階段を上り、部屋の扉を開けるや否や、到着したばかりのイーリスに駆け寄ってくる。
「イーリス様、ご無事でなによりてす……!」
「陽菜」
おそらく、馬車が到着した知らせを聞いて、住まいからすぐに走ってきてくれたのだろう。
こちらを見上げてくる姿が、半分涙目なのは、トリルデン村であった一連の騒ぎを、もう知っているからかもしれない。
グッと泣くのをこらえているような顔で、イーリスを見つめてきた。
「大変なことがあったと伺いました。詳しくは伝わってこなかったのですが、山で鉄砲水みたいなのがあったとか。すごい量の水が突然山を下っていったので、なにか災害が起こったのではないかと、旅人が噂していたと聞きましたが――」
「ああ――」
なるほどと、その噂に頷いた。
おそらく、リーンハルトが、トリルデン村であったことに箝口令を敷いたので、その麓に住んでいた人たちは、山でなにか自然災害が起こって水が流れてきたのではないかと思ったのだろう。
そのあと国王の命令で、現地の調査がされていたから、余計にそう考えたのかもしれない。
ポルネット大臣が捕らえられたことも、宮廷ではまだ極秘扱いなはずだ。伝えられているのは、おそらく元老院や大臣のごくひと握りぐらい。もっとも、ナディナは、マーリンの犯した罪が教義法の違反だったので、神殿の上層部に仕えることもあり、内々で知ったみたいだったが――。
だが、今戻ってきた王妃宮の部屋にいるのは、ふだん見知った顔ばかりだ。リーンハルトとギイト。それにコリンナとアンゼル、それからグリゴア。それならば、今陽菜に真実を打ち明けても大丈夫だろう。
だから、もう一度陽菜の顔を見て、それから切り出した。
「安心して。実はね、まだ公にはできないけれど、ポルネット大臣とレナを捕まえることができたの」
「え?」
驚いている様子からすると、どうやらグリゴアは、まだ陽菜にも伏せていたみたいだ。
しばらく、黒い睫をぱちぱちと瞬きしてから、グリゴアのほうに顔を向けた。
「え、でも、グリゴアさんは――訊いても、今までなんとも……」
「陛下のご命令でしたので、許可を受けるまでは内密にさせていただきました」
「私にまで――!?」
さすがに、陽菜はショックを受けたようだ。しかし、あの石頭ではリーンハルトの許可が出ない限り、イーリスが頼んでも絶対に話さなかっただろう。
「ひどい……! ずっと心配していたのに!」
「だから、この間もう心配する必要はなくなったようだと言ったではないですか」
「やっぱり、そういう意味だったんですか、あれ!?」
尋ね返した意味で合っていたじゃないですかーと叫んでいるところをみると、どうやら、ふたりの間ではなにか言外の腹の探り合いがあったようだ。
ぷんと頬を膨らませた陽菜を宥めるように、イーリスが横からまあまあと声をかけた。
「それでね、その時、陽菜を元の世界に帰してあげられる方法も見つかったの」
「え?」
突然の話に、驚いたように、陽菜がイーリスのほうを向いた。
ぱちりと黒い目を開け、今聞いた言葉が本当なのかというようにイーリスを凝視している。
だから、その顔に優しく笑いかけた。
「ポルネット大臣を捕まえるのと同時に、陽菜をこちらの世界に召喚した術を使った人を見つけることができたの。それで、ポルネット大臣に加担して聖女召喚を行った罪を償うために、陽菜が向こうの世界へ帰れるよう、今後協力してくれることになったわ」
「え……それは……では、本当に……」
改めて聞いても、まだ信じきれないようだ。イーリスの前で、黒い瞳を大きく見開き、やがて、その顎が、小刻みに震えだした。
「私、帰れるんですか……? 家族のもとに……、生まれ育った神奈川の家に……」
「ええ。世界をきちんと繋げるのには、大きな魔力がいるそうだけれど。安定して繋げる魔力さえできれば、陽菜を住んでいた世界に帰してあげられるわ」
「イーリス様……!」
告げられた言葉に、陽菜の見開かれていた目に涙が溢れてくる。
そして、ついに、感極まったように飛びつくと、そのまま陽菜は両腕でイーリスを抱き締めてきた。
「ありがとうございます……! 私、本当は、ずっとまた家族や友人に会いたかったんです……! でも、これを言ったら、皆さんを困らせてしまうと思って……」
「我慢していたのよね。わかっていたわ、時折見せる表情や言葉で」
――いつか帰れたら、そう思っているのが、言葉の端々に現れていた。
旅行の間も持ち歩いていた『いつか帰った時用のいいねノート』。陽菜はあまり表だって口にはしなかったが、やはり故郷に帰りたいと願い続けていたのだろう。いいねのためと話しながら、二度と帰れないとは思いたくなくて――。
故郷の家族や友人のすべてから切り離され、たったひとりで放り込まれた異世界で、ずっと我慢していた陽菜の本心が、涙とともに嗚咽となってこぼれて落ちてくる。
「ごめんなさい、我慢していた、つもりだったのに……バレていたのですね。でも、帰れる方法があるのなら、私……帰りたいです……。元の世界に戻れるのなら、なんだってしますから……! だから……!」
しゃくりあげながら流す陽菜の涙を、イーリスは取り出したハンカチで優しく拭ってやった。
「私もね、陽菜を家族に会わせてあげたいわ。だから、もう少しだけ待ってて。必ずや世界を無事に繋げ、陽菜が帰れるようにしてあげるから」
大丈夫よ、こちらに来られたぐらいですもの、きっと繋げられるわと話せば、陽菜はまた涙を流しながら大きく頷く。
「はいっ……!」
その笑顔を見て、後ろで立っていたアンゼルが、悲しげな声で叫んだ。
「えー! 陽菜様、異世界に帰ってしまわれるのですか!?」
「すぐにじゃないわ。それに、アンゼルも陽菜が向こうの家族を大切に思っているのは、気がついていたでしょう。だから、ね。帰るのは寂しいけれど。それまでは、陽菜をこれまでどおり守ってあげてね?」
「帰れるまでなんて言わず、一生だってお守りしますのに――!」
どうやら、アンゼルを宥めるのには、もう少しかかりそうだ。だけど、半分涙目になって、陽菜に帰ってほしくないと叫んでいるアンゼルは、それだけ本気で大事に思っていたからだろう。おそらく、聖女や神官としてだけではなく、本当の友人のような気安さで。だから、嘆くアンゼルを宥めるように、陽菜がその頭を撫でた。
「ありがとう、アンゼル。あなたのおかげで毎日とても楽しく暮らせたわ」
「ううっ……そんな長のお別れみたいな言葉はいりません……」
「帰るといっても、今すぐではないみたいだし。だから、もうしばらくは、これまでどおり仲良くしてね」
すっかりしょんぼりとしているアンゼルを、陽菜が励ますように優しく笑いかけている。
その様子を見て、苦笑しながら息をひとつついた。
「これで、無事、全部終わりだといいのだけれど……」
そのイーリスの様子に、後ろからギイトが声をかけた。
「イーリス様。ほかにも、なにか心配事が?」
「いえ、たいしたことではないのだけど……。ただ、ポルネット大臣がマーリンを助けた時のあの行動が引っかかっていてね」
本当に、あんな状況で、異世界に行けると思って、マーリンを助けたのだろうか?
声を潜めながら話せば、生真面目なギイトは、ああという顔で頷いている。
「そのことを、ご心配されていましたね」
「ええ、たいしたことではないといいのだけれど……」
すると、ギイトとふたりで話しているのが、気になったのか。先ほどまでは、陽菜とイーリスの様子を、無言でジッと見つめていたリーンハルトが側に近寄ってきた。
「それについては、先ほど、現地の隊から知らせが届いた。どうやら、俺たちが出たあと、早馬で追いかけてきたらしい。イーリスが心配していた件については、トリルデン村では、特になにか気になるようなものや跡は残されていなかったそうだ」
「そう……」
少し考え込む。
「なにもなかったの?」
「ああ。とはいっても、雨で多くのものが土ごと流されてしまったので、今では残っている痕跡が碌になかったそうだが」
「ああ、ひどい雨だったから……」
水害は防げても、あれだけの雨が降れば、いろいろなものがもう地表からは、流されていったあとだっただろう。
「そのため念を入れて、その付近や水が流れたところも探したが、特におかしなことはなかったそうだ」
「それなら、やっぱりあれは私の気のせいだったのかしら?」
あれから特になにかおかしなことはない。
もう逃げ場がないと悟った大臣が、最後に、マーリンの望みを叶えさせてやりたいと起こした無謀な行動だったのだろうか。
(わからないわ……)
思わず首を捻った。ここまで打算的に行動してきた大臣が、いくら土壇場とはいえ、そんな感情だけの動きをするものだろうか。
(本当に、ただの自暴自棄だったの……?)
睫を伏せて考え込むと、上から広い手のひらが、ぽんとイーリスの金の髪に置かれた。
「安心しろ。君のことは、なにがあっても俺が守る」
見上げれば、アイスブルーの瞳が、ひどく優しく瞬いている。
「これからは、なにがあっても――。だから、イーリス……」
じっと、こちらを見つめてくる。
「これからも、側にいてくれるか?」
ぽんと顔が赤くなったような気がした。
「え、ええ。だから、一緒に帰ってきたんだし――」
赤くなりすぎて、なんて言えばいいのかわからない。だから、思わずしどろもどろに返した。
「あ、それならリーンハルトのことは、私が守るわね! 戦うことはできないけれど、困っているときの相談とかなら乗れるから」
言ってしまってから、以前それをやりすぎて夫婦仲がうまくいかなかったのを思い出した。
(あああ、私の馬鹿――! もっと言い方があるでしょうに!)
そうは思ったが、なぜか目の前のリーンハルトは、少しはにかんだ顔で嬉しそうに笑っているではないか。
「ありがとう。俺は、最近、君が俺を守りたいという気持ちは、告白のように聞こえてくるようになった」
「え……!」
完全に顔が真っ赤になって爆発した。だが、言われてみれば、そもそもこの感情は好意を持っているから生まれてきたのかもしれない。
(ひょっとして、リーンハルトが、私が好きだという思いに気づいているのって、こういうところ――!?)
知らない間に、自分も気持ちを、好きだという言葉以外で伝えていたのだろうか。
(あああ、穴があったら入りたい!)
指摘されて気がついたが、今の言葉は多分そういう感情で言ったから、間違いはないだろう。
真っ赤になって顔を隠していると、そっとその金色の頭を抱き締められた。
「ありがとう。俺は、これからも君に大切だと思ってもらえるように、そして同時に、守られる以上にイーリスを支えていけるようになってみせるから――」
きっと、このリーンハルトの腕に抱き締められている一瞬が、イーリスの気持ちをすごく温かくさせていることまでは、気がついていないのだろう。
「だから、どうかこれからも俺の側にいてくれ」
続けられた言葉に、こくんと頷く。百日間毎日通ってくれたらね、という言葉が、もう頭に浮かんでくる間もないぐらい、素直に頷けた。
それは、きっと百日すぎても、ずっと側にいたいからだ。
そして、今の二人ならば、そうなれるのに違いないと思えるようになったから――。
真っ赤になって頷いたイーリスを見つめ、リーンハルトがやっと微笑みながら手を離した。
ふと、周りの視線が気になって見回せば、陽菜はまだ泣いているアンゼルを宥めるのに手間取っているようだ。
「嫌です――! 俺は、陽菜様が大好きなんですよう。だから、しばらくなんて言わず、ずっとお側でお仕えさせてくださいー」
その様子に、苦笑したリーンハルトが、こちらを見ていたギイトへと首を向けた。
「ギイト、イーリスと陽菜が困っている。休ませるために、そろそろアンゼルを神殿に連れていけ」
(わっ! 私たちを気遣うのと同時に、ギイトを部屋から追い出した!)
どうやら、ギイトへの行動は以前と変わらないようだ。なにがあっても、イーリスの側に長くいさせたくはないらしい。しかし、先ほどのリーンハルトとのやり取りを見られて恥ずかしいのもあるから、できれば、今は顔を合わせないですむ時間があったほうがありがたいのも本音だ。
(まあ、神殿までなら、往復してもすぐだし……)
この顔のほてりを冷ますぐらいの時間はできるだろう。だから、退出を促してくれたリーンハルトを感謝しながら見ると、その瞬間、髪を柔らかく撫でられた。
「そろそろ留守の間の仕事を片付けなければならないので、瑞命宮に戻る。また、あとで来るから」
そして、額にそっと一瞬キスをした。
「わわっ!」
またしても、顔から火が出そうだ。だけど、目の前で、アイスブルーの瞳を柔らかく輝かせているリーンハルトの愛しげな表情を見ていると、なにも言えないのも本当で――。
(なんだか、この間再婚したいと思っていると伝えてから、ますます自信を持ってきたみたい)
きっと、ふだんリーンハルトが感じていたイーリスの言葉にしない気持ちが、考えていたとおりだったから、安心したのだろう。それと同時に、はっきりと口にしてもらえたことで、リーンハルトも率直に愛情表現ができるだけの自信が持てたのかもしれない。だけど、好きな人から同じ気持ちを伝えてもらえるというのは、なんて嬉しくてたまらないものなのか。
この幸せで甘い感覚に、心が素直になっていくようだ。
だから、イーリスも感化されたように、微笑みながら答えた。
「うん、待っているわ」
――会えるのを期待しているという意味をこめて。
その顔に優しく笑みを返し、リーンハルトはグリゴアを連れて、部屋から出ていった。
※※※※※
コツコツという靴音が、王妃宮から瑞命宮に続く人気の少ない壮麗な渡り廊下に響いていく。
花を描いたタイルの上を歩いている人影は、廊下の端にいる衛兵以外では、今は、リーンハルトとグリゴアのふたりだけだ。
ただ靴音だけが響く廊下で、無言で前を歩くリーンハルトの背中を見つめていたグリゴアが、不思議そうに声をかけた。
「リーンハルト様、どうかされましたか?」
「いや――」
特に何か、怒ったように歩いていたわけではない。
歩くスピードが変わったわけでもないのに、ただ無言で歩く姿を腑に落ちないように尋ねる幼い頃の指導役の言葉に振り返る。
「そうですか。先ほどのイーリス様とのご様子だと、どうやら旅先で、おふたりの間には進展があったようですが」
「ああ。イーリスは、約束の百日後には、再婚したいと考えていると言ってくれた」
「ほう。それは画期的な進歩ですね。いつものリーンハルト様ならば、そこまで行ったのならイーリス様のお気が変わられないうちに、さらに再婚への足場を固めたいと思われるところですのに……。なにも命じられないとは、どうかなされましたか?」
「お前、俺のことをなんだと……」
うっと言葉に詰まる。だが、その間もじっと見つめてくる紫色の瞳に、少し悩んだあと、口を開いた。
「いや――たしかに考えはしたが……」
「したのですか?」
「ああ。だが――」
一度、言葉を区切り、決意をするように、ゆっくりと唇を開いた。
「その前にやるべきことができた」
「ほう、それはいったいどのような?」
問いかけるグリゴアに、リーンハルトは、自らの一番信頼している側近を正面から見つめ返す。
そして、先ほどからずっと考えていた内容を、口に乗せた。
「グリゴア――イーリスを、ガルデンにいる家族となんとか会わせてやることはできないだろうか?」
ここまでで第三部終わりとなります。
現在多忙のため、また、続きが書けましたら再開しますので、どうかなにとぞよろしくお願いいたします。