第82話 雨が止んだあとに④
二人で抱き締め合ったまま、しばらく夕闇の中で過ごしていた。空の紫はさらに濃くなり、たくさんの星が輝きだしていく。
涼しい風が二人の側を通り過ぎた。風がいよいよ夜の冷たさを運んできたのを心配したように、遠くからは声が響いてくる。
「イーリス様、陛下! 馬車の準備が調いました!」
手を振りながら、松明を持ってこちらに走ってくるのはギイトだ。
「あれ? なにかございましたか?」
「ギイト」
走りながら近寄ってくる声に、慌ててイーリスがリーンハルトから体を離して、腕で突っ張ったためだろう。
リーンハルトの腕が、イーリスの肩にかかっている形になり、突然引き剥がされた体は、がっくりとうなだれてしまっている。
その様子にギイトが首を捻った。
「陛下、どうなされたのですか? ひょっとして、なにかご気分でも?」
「ああ、最高に悪い」
お前が邪魔したからだとイーリスにだけ聞こえる声で呟いているが、おかげでおそらくギイトには届いていない。
代わりに、ひどく驚いた表情をした。
「それは大変です! 今すぐに、この村に来ている医者を呼びますので!」
さすが、生真面目なことにかけては随一だ。リーンハルトの嫌みを本気にして、走っていこうとする姿を、慌てて後ろから呼び止める。
「待って! 少し体が冷えただけみたいなの」
嘘なのは申し訳ないが、今の事態は、ギイトに見られるのが照れくさくて、突然体を離してしまった自分にもある。だから、焦って言い訳をすると、真面目なギイトは納得したようにリーンハルトを見つめた。
「ああ、そういえば、先ほどからずっと水の中を歩いて、家々を回っておられましたね」
その前にも、雨で濡れておられましたしと納得したように頷いている。だから、イーリスも急いでその言葉に首を縦に振った。
「ええ。だから、馬車に入って、体を温めれば、すぐに気分もよくなると思うわ」
(そこならば、ギイトも入ってこられないし)
少なくとも、これ以上リーンハルトが拗ねたりすることはないはずだ。
すると、ギイトも真面目な顔で頷いた。
「わかりました。では、急いで馬車にご案内しますね」
そう言うと、松明をかざしながら馬車までの道を照らそうとする。
その姿を眺め、リーンハルトも立ち上がった。
「行こう。暗くなると、山道は危ない。ここもぬかるんでいるから、こけないように俺の手に掴まってくれ」
エスコートをするようにイーリスに手を差し出しながら、一緒に歩いていこうと誘ってくれる。
「ええ」
だから、素直に微笑んでその手を取った。
馬車までの道は遠くはないが、先ほどの雨と流れてきた川の水とで、村にはあちこちに水溜まりができている。暗いから、道にあるそれを見極めるのも難しい。穴が空いているとはいえ、ブーツを履いているリーンハルトが先を歩き、松明に照らされた暗い道を水溜まりにはまることなくイーリスを案内していってくれる。靴がぬかるんだ土で滑らないか、リーンハルトがこちらを振り返ってたびたび確かめてくれた。
そんななんでもない時間が嬉しい。
(これからも、こうして二人で歩いていきたいわ)
馬車までだけではなく、これから迎える本格的な春の季節も、そして生きていく長い時間も一緒に――。
考えていることが伝わったかのように、前を歩くリーンハルトも優しくイーリスを見つめてくれる。
一緒に歩く時間を、イーリスと同じくかけがえのないものだと思っているかのように。
ずっと一緒に歩いていたかったが、短かった村の道は、すぐに待っている馬車へと辿り着き、側で兵たちが出迎えていた。
「暗い中、ご苦労だった。ギルニッテイに着いたら、ゆっくり休んでくれ」
兵たちも今日は休みなしで働いてくれていたからだろう。リーンハルトが労い、それから馬車へと進んだ。
踏み台の側に立ち、上るイーリスが滑らないように手を持ったまま見ていてくれる。
「大丈夫か? 踏み台もまだ濡れているから気をつけて」
その言葉に、ふと横を向いた。
「ありがとう。おかげでここまで転ばずにこられたわ」
見れば、今の言葉でリーンハルトの顔は、少しだけ赤くなっているではないか。その顔に思わず笑みがこぼれた。そして周りの兵たちへと声をかける。
「今日は、みんな本当にありがとう。おかげでこの村もなんとか復興できそうだわ」
お礼を言って振り返れば、周りの兵たちは感動したように見つめている。
そして、ふとその後ろにある村に目をやった。
今では山の夕闇の中に沈んでいこうとしている村は、暗がりの中でいくつもの橙色の明かりを灯している。
こうしていると、今日の午後にあったことが夢みたいだ。この村の上で、異世界への扉がつながり、まさかミュラー神に出会うことになるとは思わなかった。
暗く闇に沈んでいこうとしている今では、空に浮かんでいた異世界への扉は消え去り、なにもかもが終わって、ただ静寂のみがこの村に訪れてきている。
ぴちゃりと水音をさせながら、馬が蹄を踏みならした。
(そういえば――)
その音に、雨が降っていた当時のことを思い出す。
(異世界への扉は、今から考えても高い空にあったのに、大臣は本当にマーリンが行けると思ったのかしら?)
兵たちを振り切り、捕まっていたマーリンをその手から逃していた。
(本当に、あれは異世界に行かせるためだったの?)
――たしかに、あの時堤防は異世界の扉のすぐ下まで延びていたけれども。
思いきり飛び上がったとしても、手が届く距離とは思えない。
なにかが引っかかった気がして、あの時二人が立っていた場所を眺めた。
「イーリス?」
その様子に、リーンハルトが不思議に思ったのだろう。
かけられた声に、そちらに頭を向ける。
「どうした? なにか気になることが?」
「あ、いえ、たいしたことではないのだけれど……」
考えすぎかもしれない。どちらにせよ、今はもうこの暗さだ。気になるのならば、明日陽が昇ってから、もう一度その場所を調査するか、もしくはポルネット大臣を取り調べればすむだろう。
それに、兵たちも今日はすっかり疲れた顔をしている。
一旦ギルニッテイの街に戻るのが最良なのに違いない。
だから、柔らかく首を振った。
「ううん、またあとで話すわ」
どちらにせよ、夜の闇に包まれた村と当の大臣がいない状態ではなにもわからない。
疲れている兵たちに心配をかけないように、今は明るく微笑み、イーリスはリーンハルトと一緒に馬車へと乗り込んだ。