第81話 雨が止んだあとに③
村人の安否の確認と、損傷した家屋の確認が一通りすんだ頃、空は薄い紫色になり、金色の一番星が瞬き始めていた。
「ふう、どうにか住まいには大きな被害が出ていないようね」
村の広場の近くにあったベンチにイーリスは近づき、村々の家で灯りだした明かりを見つめた。
「ああ、農地の詳細な検証は明日だが、少し時間がかかってもこの村が飢えたりすることはないようにできそうだ。主要産業である鏡工房には、窓ガラスに少し罅が入っただけですんだようだし」
ベンチでは先に来たリーンハルトが座っている。人々の無事を確認でき、夜を越すにはどうやら問題がなさそうなので、ギルニッテイの街に一旦戻ることにしたのだ。
ただ、車輪がぬかるみに沈んでいたので、馬車の点検をする間、ここで待っていてほしいとお付きの者たちに頼まれた。そのため、案内されたリーンハルトの隣に腰かけながら、聞いた言葉にホッとして笑みを浮かべていく。
「それなら、よかったわ。ただでさえ、水銀中毒と脚気で大変な村ですもの。これ以上村人が苦しまないですむのならば――」
「ああ、農地の流された種は植え直さないといけないかもしれないが、その人手は軍から手配しようと思う」
地方の兵士たちには、出身が農家の次男三男も多い。農地を兄弟で分けていては食いつなぐことができないので兵役に就いた人間も多いから、募れば畑仕事に慣れている者も多いだろうというリーンハルトの言葉に、イーリスも柔らかな眼差しで頷いた。
「それならば、きっとこの村は、すぐに元通りになっていくわね」
「ああ。ついでに、傷んだ潅漑施設を直すのと一緒に点検で弱いところがわかった部分ももう少し補強しておこう。折角王と王妃が来たんだ。災害や病気の解明だけでなく、少しは暮らしやすくなったと思ってもらいたいからな」
「そうね――本当に」
以前とは違うのだと。前より、暮らしやすくなったと住んでいる人に思ってもらえるのなら、どれだけ嬉しいことか。
(そうして、時は一秒一秒過ぎていくのだわ)
もう、二度と後戻りをすることはなく、ゆっくりと確かな歩みで。
空を見上げれば、紫色になった空には、金色の一番星が輝いていた。
数か月前の冬には、逃亡先のワリテルゼの街で、もっと暗い闇に包まれていたのと同じ時間だというのに。
冬至を越え、夜を迎えるのもだんだんと遅くなり、今ではこの夕刻の時間はゆったりとした紫色の春の色に覆われている。
まだ少し冷えてはいるが、柔らかな風がイーリスとリーンハルトの側を吹き抜けていった。
少しだけ首を竦めたイーリスにリーンハルトが心配そうに見つめてくる。
「寒くはないか?」
「大丈夫よ、それにすぐに馬車の用意もできるし」
纏っていたコートは、お互いに濡れた村人たちに先ほど貸したから、イーリスが今着ているのは、旅用のドレスだけだ。
動きやすい品だが、飾りが少ないそれでは薄着に見えたのだろう。
「そうか、でももし君が風邪を引いたら大変だ。これを――」
言うと同時に、羽織っていた上着を脱いで、リーンハルトがイーリスの肩にかけてくる。
ふわりとリーンハルトの温もりが体を包んだ。
(こんなふうに声をかけてくれるようになった――)
昔は、心配していても、ぶっきらぼうに「王妃が風邪を引いては困る」とだけ言っていた。今ならば、あれが素直でないリーンハルトにできた精一杯の気遣いの言葉だったとわかるのだけれども、当時は同じように不器用な自分も、てっきり王妃だから言ってくれているのだと思っていて――。
(いつのまにか、素直な気持ちを口に出してくれるようになった……)
やり直したいと頑張ってくれている気持ち。それがこんな何気ないひとことからも伝わってくる。
だから、肩にリーンハルトの手が伸び、上着を落ちないように直してくれた時、微笑みながら言葉がこぼれた。
「私――今は、再婚してもいいと思っているわ」
「え……」
(そうよ、やっと誕生日で約束した素直な今の気持ちを伝えられたわ)
このひとことを言うために、どれだけの葛藤を乗り越えてきたのか。だが、たしかに進んでいた時間がイーリスの背中を後押ししてくれる。
二度とあのすれ違ってしまった時には戻らないと、確信できたから――。
恥ずかしさよりも、リーンハルトの努力してくれていた時間が愛おしくてたまらない。
見つめれば、肩の上着に手を伸ばしていたリーンハルトのアイスブルーの瞳は、かつてないほど丸くなっていた。
身動くことすら忘れたかのようだ。
「今の、本当に……」
「ええ、誕生日プレゼントに約束したでしょう。あの時は、うまく言えなかったけれど」
「誕生日の約束の……」
渡した婚約指輪で考えている気持ちは伝わったようだったが、まさか改めて言葉にしてもらえるとは思わなかったのだろう。今聞いた言葉にリーンハルトの全身が雷で打たれたように、イーリスの金色の瞳をじっと覗きこみながら、指の先まで動きを止めている。だから、その瞳を見つめて、優しく微笑むことができた。
――リーンハルトにとっても、この瞬間が身動きできないほど大事なのだと伝わってきたから。
「再婚してもいいと、いえ――約束の日には再婚したいと思っているの。本当は……前から伝えたかったのだけれど、どうしても言葉が口から出てこなくて……」
今から思えば、気づかない不安が心にまだあったのかもしれない。だから、その微妙な躊躇いが恥ずかしさを乗り越えられなかったのだ。
だが、たしかに流れていた歳月が、もう二人をあの時間に戻すことはないのだという確信を持たせていく。
「イーリス!」
微笑んで再度伝えた瞬間、強く抱き締められた。
「ありがとう! では、約束の日には、再婚してくれるということだな!?」
「ええ。もちろん、最初の約束のとおり、これからも毎日会いには来てね。そうすれば、私はもっと――リーンハルトの側にいたいと思うようになる気がするから……」
自分ながら、この告白には耳まで赤くなってしまう。だが、それが、リーンハルトをもっと好きになっていくという意味だと気がついて、さらに強く抱き締められた。
「ああ、約束する! 君がもっと俺を好きになってくれるというのなら、それ以上幸せなことはない! 再婚してくれたら、今度は絶対に幸せにする! 二度と別れたいと思われるような、ひどいことはしないから――!」
「うん……ありがとう。私も、もっとあなたのことをよくわかっていきたいの。だから、側にいて、あなたをもっと理解できるように頑張るわ」
もう二度とすれ違わないように――。
リーンハルトが、少ない言葉でも自分を思いやってくれていたのだと気が付いたのは、別れを決めて、やり直す努力を始めてからだった。
ほんの些細な言葉が棘にも、相手をいたわる気持ちにもなっていく。
(これからは、あなたの真意を間違えないように受け止めていきたい――)
お互いに、相手を大切に思っているのだから。
ふと、見つめれば、嬉しすぎる涙で、リーンハルトの端整な顔はもうぐしゃぐしゃだ。兵たちがいないところで告白をしてよかった。今のイーリスの顔も、リーンハルトの様子に嬉し涙を浮かべながら、きっと真っ赤になっていて、とても誰かに見せられたものではないだろう。
それでも互いの顔に浮かぶ笑みは、なんて温かく優しいものか――。
「ありがとう。約束した日がくれば、今度は、きっといい夫になるから――」
「うん。私も今度はあなたの気持ちをわかってあげられる妻になれるように努力するわ。これからもたまには喧嘩をするかもしれないけれど……」
その時は、あなたの気持ちを言葉で説明してねとお願いすれば、頬の横で、リーンハルトは何度も顔を縦に振っている。
「うん……なんでも訊いてくれ。言葉が足りないところは、頑張って説明するようにするから……」
きっとこの世の中に、一度もすれ違わない夫婦などいない。
それでも、お互いに側にいたいという気持ちがあるのならば、きっと約束した百日後には、もう一度夫婦として歩いていけると思いながら、一番星の下で、イーリスはいつまでもリーンハルトの背中を抱き締め続けた。