第80話 雨が止んだあとに②
リーンハルトの言葉で、ハッとオデルを見つめた。
イーリスから受け取った魔力で放水路を作り、すべての力を使い果たしてしまったのだろう。服が泥まみれになるのもかまわず座り込んでいたオデルは、リーンハルトが向けるアイスブルーの瞳にのろのろと顔を上げた。
その間もリーンハルトは、ジッとオデルの顔を見続けている。
「この命令書では、聖女召喚に関わった者はすべて厳罰に処すべしと書いてある」
そうだ。オデルは、ほかの誰でもない、陽菜を召喚する術を操った本人だ。
「でも、それは脅されて……!」
それはリーンハルトも知っているはずなのに。慌てて口を開きかけたが、その前で、リーンハルトはイーリスにわかっているというように頷く。
「だが、お前の事情は聞いた。一緒に残されていた記録によると、聖女を元の世界に送り返すことに貢献した者たちは、過去でも特別に厳罰を免れたらしい。お前が罪を償うため、陽菜を元の世界に帰してやることに貢献するのならば、特別に刑を減じてやることもできるが――どうする?」
その言葉に、ポルネット大臣の逮捕の間も呆然としていたオデルは、ハッと居住まいを正した。手も足も、もう重くて思うように動けないのだろう。それでも懸命に動かし泥の中で両手をつくと、深く頭を下げる。
ぴしゃりと空から降った水が、服の裾を濡らしていく。
「ありがとうございます……! 村長として、今回の陛下のお慈悲をありがたく思い、必ずや一族の者すべてで、陽菜様が安全に帰還できるように尽力させていただきます」
「うむ、騒動に加担していたとはいえ、脅されていたお前たちも被害者だ。陽菜を無事に帰すことができれば、罪は償えるだろう。先ほど見たが、術はまだ不安定なのか?」
「は、はい……。今生き残っている隠された民の魔力では、全部合わせても、異世界にうまく繋げられるかは、正直賭けに近いものでして……」
「陽菜の命をこれ以上危険に晒すことはできない。無事に帰せるように協力をしてくれるのならば、一族の命と生活は保障しよう」
「あ……ありがとうございます……!」
今回の件が公になれば、自分も一族も、きっと過去の粛正と同じ目に遭うと思っていたオデルの肩が泣きながら震え、水溜まりに顔を埋めるかのようにもう一度深く頭が下げられていく。
その様子を見つめていたリーンハルトが一度頷き、そして視線を村へと向けた。
「洪水を免れたとはいえ、被害が出たな……」
話している視線の先を見つめれば、リーンハルトの眼差しは水をかぶった家や畑に注がれているようだ。
「そうね、ひどい風と雨だったから……」
嵐も同然だった。時ならぬ暴風雨に襲われた家々の屋根は、灰色の瓦がところどころ吹き飛び、下の板が剥きだしになっている。軒先に吊されていた玉葱や人参は風雨で泥水の中に落ち、今から拾ってもきっとすぐに腐ってしまうだろう。
畑を見回せば、随分と土が流されてしまったようだ。春先だから、既に種が蒔かれていたのなら、土ごと流された可能性が高い。
(急いで手を打たないと――)
これでは、この村の民の生活が成り立たなくなってしまう。
緊張にごくっと喉が鳴り、声を出そうとした時だった。
「急いで第一分隊は、村人の安全を確認しろ。ついで、第二分隊の半数は家財や農地の被害の確認。残りの半数は、村を出て、近隣地区への被害の調査を行え」
「はいっ!」
「え?」
イーリスが口を開くよりも早くにリーンハルトが命じた内容で、兵たちがすぐにそれぞれの場所へと散っていく。
素早い命令に金色の瞳を大きく開いて見つめてしまった。
眼差しの先で、自分よりも背が高くなったリーンハルトは、雲間からこぼれる太陽の光に銀の髪を輝かせながら、侍従を側へと呼びつけている。
「それと、お前は今すぐギルニッテイの街まで戻り、急いでグリゴアに、財務省の予備費からこの村の被害にあてる財源を確保するように伝えろ。それと、もしこの一帯の橋や崖に被害が出ていた場合、即時対応できる工務省の大臣が必要だが、たった今不在になった。国王の名において、副大臣に臨時で大臣職を命じるので、すぐに対応するように通達しろ」
正式な書類は、ここの現状を確認してギルニッテイの街に戻り次第出すと言うリーンハルトの姿に侍従が頷き、急いで一頭の馬に乗り、山を駆け下っていく。
その様子を、イーリスは金色の瞳孔が円くなるほど開き、見つめていた。
「さあ、では俺たちも村人の救援に行こうか」
「え、ええ……」
(違う、なにもかもが……)
イーリスに声をかけ、歩いていくリーンハルトは、もう六年前洪水が起きた時に焦りながら事にあたっていた姿と同じではない。
なにから手をつければいいのかわからず、ただ目の前の報告に対処するので精一杯だった幼い頃のリーンハルト。
今見れば、当時に比べてなんと背が高くなり、肩幅も広くなったのだろう。
(ああ、そうだわ……。たしかに時間は経っていたのよ……)
長い間こじれていた二人の関係。だけど、今のリーンハルトは、明らかに六年前の幼い頃とは違っているではないか。
目の前で、ずぶ濡れになった農民の手を取り、恐縮している姿に馬車に積まれていた野営用の毛布を持ってくるように兵たちに命じているリーンハルトは、いつの間にか緊急事態に対処する力を身につけた王に成長している。
(それに、さっきも私を助けてくれた……)
女神から渡された力をどう使えばいいのか迷っていた時、必要な方法を示してくれたのはリーンハルトだった。
(変わっていたのだわ……。いつの間にか六年という歳月の中で)
イーリスが不器用なリーンハルトの優しさにいつしか惹かれていたように。その間、リーンハルトも、もう二度とあの時のようにはならないと、立派な王に成長しようとしていたのだろう。
思い返してみれば、法律に精通していたり、民たちの生活をよく気にかけていたり、幾つもそんな兆候はあった。
(――もう、大丈夫)
二度と六年前と同じになることはない。
だから、イーリスは、泥まみれになって民たちの安否を確認しているリーンハルトの許へと走りながら、いつしかその顔に笑みが溢れていた。