第78話 トリルデン村にて⑨
もう、境界は砕ける寸前だ。
「間もなく、境界は壊れます。その瞬間、私が向こうの世界とのつなぎ目に手を伸ばし、一度開いた穴をつまんで閉じますから、用意はいいですか?」
「ええ!」
女神の言葉に、オデルにお願いと見つめれば、相手も深く頷いている。
白い光が、オデルの杖に宿り、先で大きく膨れ上がった。
さすが神の力だ。オデルが光を操るのと同時に、すさまじい勢いで、側の岩石や土が動き、異世界の河に繋がる堤を築きながら渓谷までの放水路を作っていく。
ぱしっと空の鏡にひびの入った音がした。
「来るわ!」
空の境界が破れ、そこから黄色い河の水がこちらに迫るように近寄ってくるのと、オデルの力で築かれた堤防が尾根まで完成するのとはほぼ同時だった。
「やめなさい、オデル!」
捕らえている兵士たちの手の中でマーリンがもがいている。さすがに伯爵令嬢の体に直接触れるのははばかられるのか。兵たちが槍で囲っているが、激しいものとなった雨にも負けずに、マーリンは空へと声を張り上げていく。
「待ってください! 女神様、どうか――どうか私を、異世界に行かせてくださいませ!」
「マーリン……」
驚いて、後ろを振り返った。
「私も異世界の知識を身につければ、聖女としてお役に立つことができます! きっと女神様のために働いて見せますから! どうか――」
雨に濡れた髪を顔に張りつかせながら叫ぶ彼女の姿に、ミュラー神の顔が向けられる。しかし、その表情は、どこか困った赤子を諫めるようなものだ。
「あなたの心がけは嬉しく思います。ですが、あなたは適格ではない――。聖女となり人々を導くには、あなたはあまりにもこちらに住む普通の者なのです」
「そんな!」
ミュラー神に聖女としての資格を否定されたことが堪えたのだろう。
「嫌よ! 私は、異世界に行って、リーンハルト様の妻になるの!」
だから、異世界に行くのよと雨の中で兵たちの槍に手をかけながら叫ぶ彼女の姿は、あまりにも悲痛そのもので――。
「マーリン……」
ぐっと胸が痛んだ時だった。
「行け! マーリン!」
はっと声に目を見開けば、ほかの兵士たちに捕らわれていたはずのポルネット大臣が、マーリンを捕まえる兵士に体当たりをしてきたではないか。
「どうして!?」
よく見ると、手には小さな短剣を持っている。手の平に入るほどの小ささだから、きっと護身用として袖の内側に隠し持っていたものなのだろう。振り返れば、それで腕を切られた兵士が青くなりながら、大臣の体を追いかけてきている。
しかし、その隙にマーリンは囲んでいた兵士たちの手から飛び出した。
「私は異世界に行くのよ! 今度こそ、本当の聖女になるのだから!」
そういうと、ひび割れた空の境目近くまで伸びる堤防へと走り、そこから天に向かって登ろうとしているではないか!
「やめなさい、行けばあなたは死ぬわよ!」
正気ではない――。豪雨となって降り注ぐ河の水へと向かい、手を伸ばしているなんて。
「飛ばせなさい! オデル、私をあの穴まで!」
しかし、オデルは堤を築く杖を持ったまま答えない。その隙に急いで、イーリスが後ろから追いつき、マーリンの体を堤の下へと引きずり下ろした。
その瞬間、ぴしっと世界の境界を作っていた鏡の割れる音が響き、雨とは比較にならずに流れ出た水が、体のすぐ横にある堤の中を恐ろしい勢いで下っていく。
「きゃあっ!」
一緒に襲ってきた突風に、飛ばされるかと思った。
だが、堤防の外に落ちたはずのマーリンは、まだ空へと向かい手を伸ばそうとしている。必死で空へ昇れないかと考えているようだ。
「待って! 私は、異世界に行くの! 異世界に行って、本当の聖女となり、今度こそリーンハルト様の妻になるのよ!」
叫びながらも、襲ってくる激しい風に後ろへと容赦なく飛ばされていく。
「きゃあああ!」
なかば転げるようになったせいで、身に纏っていた優雅なドレスは土にまみれて、もうどろどろだ。近くに凄まじい落雷の音が響いた。完全に世界の境界が壊れたのだろう。風に河からの水滴が乗って降り注ぐ雨は、台風のごとき勢いで荒れ狂い、黒雲の中に、ぽっかりと向こうの世界に繋がった穴が見える。
転がって木に当たったマーリンの姿には気がついたが、ここからでは手が届かない。堤に手を添えながら立っているイーリスも凄まじい風に髪を靡かされて、今にも飛ばされていきそうだ。
たとえ河の水から逃れられても、この村は険しい山の中腹だ。もし、マーリンのように木に引っかからず、岩が剥きだしになった山肌をそのまま転がっていけば、どこに落ちていくか――。
「イーリス!」
必死で土に爪を立てた時、後ろから伸びてきた手が自分を抱き締めてくれるのに気がついた。
「リーンハルト……」
『では、世界を閉じます』
厳かに天から巨大な白い手が伸びてくる。
「待って、いや! 私は聖女になるのよ。だから……」
雨の中から叫びながら呻く声が聞こえてくるが、無情な神の手は白く光りながら世界の境界にある黒い穴の中へと伸びると、まるで鍵を閉めるかのような仕草をしていく。その瞬間、音と共に光が世界を覆った。
あまりの眩しさに目を閉じる。やがて、しばらくして光は収まり、出た水がすべて渓谷へと流れ下る凄まじい音とともに遠のいていった。