第76話 トリルデン村にて⑦
黒い雲が鏡となって浮かんでいる空に響く声は、以前啓示式の時に聞いたのと同じものだ。
明るくて、楽しげな――。
どこか気さくにさえ感じられる声に、咄嗟にイーリスは響いたあたりの空を見回した。
「まさかミュラー神!?」
(――私を聖女としてこの世界に呼びよせたという)
神の名前は聞いてはいても、ずっと神話の中の人物だと思っていた。しかし、啓示式で初めて実在すると知った存在が、今天にかかる雲の中から姿を現そうとしている。
(まさか、会えるの!?)
ごくっと息を呑んだ。
なまじ前世の知識があるだけに、畏敬の対象である神と話せるなんて思ってもいなかったし、ましてや会えるなどとは考えてもみなかった。
しかし、鏡のさらに上では、空を覆う黒い雲すら押しのけるようにして眩しいほどの金の髪を巻いた女性が圧倒的な迫力で人々の前に姿を現してくるではないか。
開いていく瞳は、空で輝く星さながらだ。瞳孔の中で、金を纏った七色の小さな光が煌めきながら、暗くなった世界の中で、鮮烈な輝きを放っている。
人間でいえば、見た目は二十代後半ぐらいだろうか。無邪気さと大人っぽさが混じった美しい笑みで、面白そうに地上を眺め渡した。その瞳が、立つイーリスを見つけ、優しく細められていく。その瞬間、ふわりと虹色の光が笑みとともに周囲に広がった。
まるで、愛しい我が子を見つけて喜んでいるかのように――。
「顔を合わせるのは、これが初めてね。でも、私はあなたのことをよく見ていましたよ、私のかわいいイーリス」
声と雰囲気は優しく穏やかだが、空に広がった顔は大迫力だ。人ならざる存在への畏怖を感じ、思わずイーリスの喉がごくっと鳴ってしまった。
だが、今のこの状況をなんとかできるとすれば、それはもう神しかいない。
「ミ、ミュラー神。お初にお目にかかります」
うわずる声で祈るように両手を組めば、ふっと優しく神は笑った。
「そんなに緊張しないで。イーリス。あなたは、私が選んでこの世界に遣わした大切な聖姫。そして、陽菜も私が民の求めに応じて遣わした聖女です。言ってみれば、親子も同じ存在――。だから、そんなに硬くならないで」
ほがらかにかけられる言葉から考えると、どうやらギルニッテイの神官たちが言っていたとおり、かなり親しげな神様らしい。それならば、可能性はあるかもしれないと空を見上げて叫んだ。
「ミュラー神、どうかお願いします! お言葉に甘えるようで恐縮なのですが、どうか、あの扉を――異世界への境界を閉じてはいただけないでしょうか!?」
「それは、不可能ではありませんが」
にこっと笑うと、女神は優しくイーリスと地上の人々を見つめ続ける。
「閉じるには、一度その男の魔力が作っている境界を壊して、なんの力もない状態にしなければなりません。そうでないと、余分な力が混ざり、綺麗に境目を閉じられないからです。そのためには、一度完全にあの鏡を開くことになりますが、それでもかまいませんか?」
「でも、それでは――!」
開けば、間違いなく河の水が襲ってくる。
聞いた内容に、ミュラー神を見上げながら焦った時だった。
「イーリス、あなたの心配していることはわかります」
穏やかに神が微笑んだ。
「ですが、これまでも、私は人間たちが一歩一歩自分たちで歩んでいくのを望んでいました。もちろん、少しでも苦労をなくせるように、異世界からあなたたち聖女を喚んではいますが――。私の望みは、人間が成長して、自らの力で解決して進んでいくことです」
では、手を貸してはくれないということなのだろうか。鏡に映る河の様子を眺め、愕然としてしまう。世界を閉じるためとはいえ、もしあれがこの世界に流れ込んでくればどうなるか――。
今も空からは細かな雫が霧雨となって吹きつけてくる。
思わず視線を地面に落とした。
「ですが、あなたは、この世界の者を助けたいと思ってくれました。それに、壊血病を癒やして、これまでに多くの私の民たちを助けてくれています」
その声に、ふと目を上げれば、神は柔らかな笑みでイーリスを見つめているではないか。
「私は、この世界の者を助けてくれた聖姫には、その既に行ってくれた善行や持っている志に報いることにしております。啓示式の時に、お約束しましたでしょう? なにかひとつ私の力をあなたに授けると――」
「あっ!」
今の今まで忘れていた話に目を見開いた。
(では、ミュラー神が今急にここへ姿を現した理由とは――!)
「どうやら、聖戴祭を待つよりも今あなたにはその力が必要なようですね?」
にっこりと優しく声をかけてくる。
「イーリス。あなたは、なにを願いますか?」
空に広がる顔に、思い切り金の瞳を開いて見つめる。
――聖姫として、なんの力を神に願うのか。
それは既にイーリスの中で答えが出ている。
この世界に生まれてから今まで触れあってきた人々を、彼らが生活で幸せだと感じているものを――ただ、守ってあげたい。
だから、空を見上げ、金色の髪が荒れ狂う風に靡くまま答えた。
「この世界の人々を――守りたい」
ただ、それだけだ。毎日を懸命に生きている人々が、少しでも笑顔で過ごせるように。聖女として――そして、ルフニルツの王女、またリエンラインの王妃として暮らしてきた中で、素朴な人々の笑顔に触れるたびに感じた嘘偽りのない素直な気持ちが口からこぼれた。
(ほんの少しでも、民たちを自分の力で守れるのならば――)
「ありがとう。では、この力をあなたに授けます」
イーリスの答えが気に入ったのだろうか。空間に柔らかな鈴の音が鳴るようにミュラー神がふわりと微笑むと、白金の眩しい光をイーリスへと手渡した。
「これは、あなたがこれまで助けてくれた民たちの感謝の祈りを聖なる力へと変えたものです。それを、どう使うかは、あなた次第です」
だとしたら、これはきっと神官が使う神による不思議な力や、隠された民たちの力にも近いものなのだろう。
(これをどう使えばいいのか――)
渡された初めての力を、ただじっと見つめた。