第75話 トリルデン村にて⑥
黒い雲が世界を覆っていく。今まで光が射していたのに、まるで輝く太陽を隠すように天に雲が集まりだしたではないか。
冷たい風が、空から吹きつけ始めた。
黒い雲の間では、いくつもの稲光が轟いている。縦横に走っていたそれが、やがて一つの金色の図形となって、かっと空に紋様を刻んだ。
その瞬間、巨大な魔法陣が空に浮かび上がり、次いでそこに集まった雲が鏡の如く澄み渡っていく。
(わからない)
その光景を眺めながら、イーリスの脳裏では様々な思いが駆け巡っていった。今の自分が、本当に異世界と扉が繋がることを望んでいないのかどうか――。
レナを異世界に行かせて、聖女と名乗らせてはいけないのはよくわかっている。
たとえミュラー神ではなくても、彼女の今まで育んだ性格に聖女の資質がないのは明らかだ。
以前、陽菜も言っていた。聖女が持っているのは、違う常識。彼女が異世界の知識を得たとしても、あの人の命すら軽んじる貴族然とした考え方を改められるとは思えない。
ましてや、異世界に無事繋がるのかもわからないこんな状況なら、無謀な賭けは絶対にやめさせなければならないのに――。
空に浮かぶ魔法陣の向こうで、変化していく雲がだんだんと透明な鏡になっていくのを見ていると、あの向こうには懐かしい世界が広がっているのかと、息をするのすら苦しいほどの思いが湧き上がってくる。
前世でイーリスを育ててくれた父や母。歴史書ばかり読んでいたから、たまには合コンにも行きなさいと彼氏がいないことを心配してくれていた妹。陽菜から聞いた話で、自分が死んでから向こうで流れた歳月を考えても、彼らはまだあの鏡の彼方で生きていてもおかしくはないのだ。
いつも優しかった家族たち。歴史にばかり夢中なイーリスを温かく見守ってくれていた家族の眼差しを思い出すと、どうしても繋がる異世界の扉から目が離せなくなってしまう。
(会えるの……? お父さんやお母さんに……?)
この世界でも、自分は家族との縁が薄かった。どちらの家族にも、もう二度と会えないかもしれないと思っていただけに、あの鏡の向こうに今も彼らがいると思うと身動くことさえできない。
ごうっと凄まじい風が周囲で起こった。
「イーリス!」
嵐のような風の中で、髪を乱したまま微動だにせず空を見上げているイーリスの様子に、リーンハルトが不審に思ったのだろう。ぐいっと肩を掴まれた。
「どうした!? しっかりしろ!」
その体温で、やっと気持ちが今の時間へと引き戻されてくる。
「あ……、ごめんなさい。ただ、あの向こうに、前世の家族がいるかもしれないと思ったら……」
何気ないように話したつもりだったのに、声が震えていたのだろう。
急に、目を開いたリーンハルトにぐっと抱き締められた。
「リ、リーンハルト!?」
「すまない! 君がこちらの家族に会えないのは、俺のせいだ! だけど、頼む。行かないでくれ……!」
強く寄せられた眉に、やっとリーンハルトがなにを心配しているのかがわかった。
(ああ)
胸から伝わってくる体温は、なんて温かいのだろう。もう戻れない過去に切なくなりかけていた心が、そっと優しく包まれていく。
強く抱き締めてくれる体に腕を伸ばした。
「大丈夫よ、ただもしひと目でも会えるのならと思ってしまっただけで……。私が生きていく場所は、ここだから」
「イーリス……」
「ふん、そんなことが言えるのも今のうちだけよ!」
はっと目をやれば、空から吹きつけてくる風にミルクティーベージュの髪を後ろへと広がしながら、マーリンが陰惨な笑みを浮かべているではないか。
「私が異世界に行って帰ってくれば、私はあなたと同じ立場になれるのですもの――」
そして、空に浮かんだ鏡を見上げた。
黒い雲でできているはずなのに、澄んだその向こうで渦巻いている茶褐色のうねりはなになのか。不気味に鏡に打ち寄せ、凄まじい音を響かせている。
なぜだろう、すごく嫌な予感がする。
どうして、こんなに叩きつけるように鏡に押し寄せているのか。
「ま、待って! やめなさい、これは少しおかしいわ――!」
(こんな茶色い渦を巻くところなんて――)
いくら異世界といえど、まともな場所に繋がったとは思えない。
「ダメ! やめて、オデル!」
ひょっとしたら、変な繋がり方をしたせいで、開ければこちらの世界も大変なことになってしまうかもしれない。
だから叫んだのだが、立っているオデルの顔は、もう真っ青だ。
「イーリス様……」
「なにをしているの! 早く、世界を繋げなさい!」
「リーンハルト!」
「ああ!」
今からでもやめさせなければと、慌ててマーリンを兵に拘束させようとしたが、「なにをするの、放しなさい」と叫んでいる。
「私は伯爵令嬢よ? お前たちごときが体に触れるなんて――」
その言葉に、一瞬だけ兵たちが、確認するようにリーンハルトへ視線をやった時だった。
空中に凄まじい音が轟いた。
「やったの!?」
兵たちに腕を掴まれそうになりながらも、レナは瞳を開いて空を見上げていく。たが、鏡の奥に移っているのは、茶色い波ばかりだ。
「これは……」
「すみません、マーリン様……。私一人では、うまく繋げられなくて……」
魔力を使いすぎて、真っ青になったオデルの声に、はっとイーリスも目を見開いた。
ゆらゆらと鏡の向こうで動く茶色い雫はなになのか。
ちゃぷりと蠢く水の向こうでは、本で眺めたことがあるような建物群が見える。手前にある整備された岸辺。人の手が入っていることを感じさせるが、ここはとても陽菜が召喚された場所と同じだとは思えない。
遠くのほうで、水の向こうにもうひとつの岸辺がうっすらと見えた。
「まさか――これは、河!?」
黄色に近い水ということは、まさか黄河に繋がってしまったのだろうか。
(そうか。陽菜は海に行って、こちらの世界に喚ばれたと言っていたわ)
そして、召喚された歴代の聖女もみんな海に関係していた。では、間違って繋がってしまったとはいえ、やはり水に関係する場所に繋がってしまったのだろう。
よく見れば、遠くのほうにあるのは、平遥古城によく似た建物だ。見える角楼や城壁などが、さほどの時の流れを感じさせずに並んでいる様子から考えると、繋がったのはイーリスが暮らしていた現代ではないのかもしれない。
「そうだわ……。過去の聖女でも時空を飛び越えたと思われる例があった……」
だとしたら、建物からして鏡の向こうは明代の中国の黄河なのかもしれない。
いや、ひょっとしたら、別な川なのかもしれないが、そんなところに扉が開いては、このあたり一面が洪水になってしまう。
「オデル! 待って! 開けてはダメ!」
必死で声を張り上げる。
「なんとか扉を閉じられない!?」
「すみません、一人なせいか、以前よりも扉がひどく重くて……」
オデルが、ぐっと唇を噛んだ。きっとそれは、魔力が足りないだけではなく、普通に繋げるはずが、時空までも捻じ曲がってしまったからだろう。さらに、扉の向こうでは、すさまじい水が流れている。とても一人で支えきれるものではない。
「でも、このまま繋がってしまったら!」
悲鳴のように叫んだ時、ぴしぴしと境界の鏡の割れる音が響いた。
「兵たち! 急いで民たちをここから避難させろ!」
マーリンは最少の人数でいい、そちらを最優先しろとリーンハルトも叫んでいる。
このままでは、六年前と同じように国内で洪水が起こると感じたのに違いない。
「急げ! 全員を避難させろ!」
「はいっ!」
急いで、兵たちが走っていく。
王と王妃が来たということで、多くの村人はここにいたようだ。その者たちを兵が誘導し、さらに並んでいる家にも声をかけていく。
だが、その間にもオデルの力は限界に近づいたようだ。
ぴしっと音がして、河の水が霧雨のように注いできた。
「ああ、異世界に繋がったみたいね。では、開けてくれたら母親の場所を教えるわ!」
二人だけ残った兵に、左右を槍で囲まれながらマーリンが高笑いをしている。
「ダメよ、マーリン!」
「待て!」
「お願い、オデル! 扉を閉じて!」
必死で叫ぶが、オデルの力はもう完全に尽きてしまったようだ。
「申し訳ありません……。イーリス様……」
さらに、ぴしっと世界の境界の軋む音がした。
このまま境界が繋がればどうなるか――。
この村や、辺り一帯が洪水に襲われてしまう。
「どうしたら……! どうやったら、みんなを助けられるの……?」
(もう閉じる力もないだなんて――)
もし、向こうが黄河だったら、とんでもない量の河の水が押し寄せてくる。六年前と同じように、また国内で洪水が起きる。絶望的な気持ちがイーリスを襲ってきた時だった。
突然、空中にきらきらとした虹色の光が舞いだす。
そして、歌うようにほがらかな声が、天から人々の上に響き渡ったのだ。
『困っているようね、私の大切な聖姫イーリス』
「あなたは――!」
ギルニッテイの神殿でも一度聞いたことのある澄んだ神の声に、イーリスは俯きかけていた顔をはっと輝きだした空へ向かって持ち上げた。