第74話 トリルデン村にて⑤
「なっ!」
マーリンの命じた内容に、イーリスとオデルが同時に叫んだ。
側で、リーンハルトも目を見開いている。
(――異世界への扉を開く?)
叫ばれた言葉に、イーリスの脳裏では、咄嗟に前世で暮らした神戸の六甲山の緑や、懐かしい海辺が甦ってきた。
二度と見ることはできないと思っていた前世の故郷――。
「マーリン、なにを言っている!?」
しかし、寸暇を置かずに叫んだリーンハルトの言葉で、はっと我に返った。
「異世界に行くだなどと! そうすれば、自分も聖女になれると思っているのか!?」
「あら、ですが、実際異世界の記憶を持っている者が、この世界では聖女とされているのですわよね? それならば、私も異世界に行き、そちらの知識を持ちさえすれば、本物の聖女になれるはずですわ!」
「聖女は、神によって選ばれた、記憶をもったまま世界を越えることを許された者に与えられる称号です! 異世界に行けば、聖女になれるだなどと――。それは、神の領域を侵すにも等しい恐ろしい行為だとわかっているのですか!?」
後ろから、ギイトも大きな声で叫んでいる。
だが、マーリンはふっと笑った。
「神が選んだから、記憶を持ったまま世界を越えることができるのならば――、私だって、別の世界に行き、記憶を失わずに帰ってこられたら、神も認めたということになりますわ。そうしたら、私も陽菜様同様、正式な聖女ですわよね?」
たとえ、魔法の力を借りて、世界を越えたのだとしても――。
そう笑うレナの姿は、黄昏が近付いた金色の光の中で、なんと禍々しく輝いていることか。
本来の柔らかなミルクティーベージュの髪がざらりと風に光りながら亜麻色に靡き、アクアマリンの瞳が、金の光を浴びて翡翠色に煌めいた。
「――あ……」
なぜ、レナが偽の聖女を騙る時に、あの色を選んだのかがわかったような気がした。
まるで、今の色から少しでも聖女の色に近いものを選んだかのように。
「だから、リーンハルト様。少しの間だけ、待っていてくださいね」
そうすれば、私が聖女となって終生変わらぬ愛を捧げて見せますからと笑う姿は、息を呑むほど無邪気なものだ。
聖女というリーンハルトの妻の位に、レナがどれほどの思いを重ねてきたのか。
「無理です!」
まざまざと見せつけられた心地に、イーリスは身動きすらできなくなった。しかし、側で瞬時に返したオデルの言葉に、イーリスは迷路にはまりかけていた思考からはっと引き戻された。
「異世界へ空間を繋げるのには、膨大な魔力が必要です! 前回は、村で有力な術者の多くがいた! さらに王宮の地下に埋まっている聖女召喚の魔法陣を透視して、よく似た図形を作ってまで挑んだのに! 今回はそのどちらもがないなんて!」
無謀すぎて成功するはずがない――そう、オデルが全身で訴えているが、マーリンは薄く笑ったままだ。
「あら? 今回は前みたいに、神に誰かを選ぶように乞うて喚べとは言ってはいないわ。ただ、私が行けるように世界の境界を繋げればいいだけなのよ? それぐらいならば、できないこともないでしょう」
無邪気に微笑んでいるが、オデルの顔は強張ったものから変わらない。
「ですが! それだけだとしても、世界を繋げるのには大きな魔力が!」
「やれと言っているのよ」
ふっとマーリンの表情が変わった。
「私はお願いをしているわけじゃないわ。それとも――父の手元に残っているお前の母親の命がどうなってもいいの?」
酷薄な眼差しに、オデルがはっとマーリンを見つめる。
「母親!? まさか、マーリン! あなた子供だけではなく、ほかにも人質を――」
叫ぶのと同時に、脳裏ではオデルの家にあった四つのカップが思い浮かんだ。オデルとハンナと息子のカイと――では、あのもう一つのカップが母親のものだったというのか!
「隠された民は利用価値がありますもの。それに、陽菜を召喚したことを、もし話されても困りますからね。人質はとっておくべきでしょう?」
「――あなた方は、どこまで人の命を……!」
(なんだと思っているのか! 人目を隠れながらも、穏やかな生活を営んでいた者たちに!)
怒りが頭に湧き起こってくるが、マーリンはふふっと面白そうに話し続けている。
「安心して。私と父上が捕まれば、母親は、お前を証言させないために、より厳重な場所へ監禁するように家来に言ってあるわ」
驚いたようにオデルが顔を上げた。
「でも万が一にでも、すべてが明るみに出た時には、証人を減らすために、秘密裏に殺すように侍女へ命じてあるの。死体が出なければ、お前もどちらかわからなくて、証言はできないでしょうし――。ねえ、知らない間に母親が殺されるなんて、嫌でしょう?」
「あなた――!」
堪らずイーリスが口を開いたが、マーリンはくすくすと笑っている。
そして、ふっとその笑みを抑えた。
「だから、母親の命を助けたいのなら、私に協力しなさい! 異世界の扉を開きさえすれば、母親が監禁されている場所も特別に教えてあげるわ」
告げられた残酷な言葉に、ぐっとオデルが杖を握り締めた。
「申し訳ありません。イーリス様……」
その言葉がなにを意味しているのか。
急いで振り返ったが、その前でオデルは服の内側から取り出した杖を振り上げていくではないか。
「ダメ!」
「やめろ!」
自分とリーンハルトの両方が叫んだが、間に合わない。
突然つむじ風が吹いたかと思うと、空に掲げられた杖の先に雲が集まりだし、大きな黒い渦を作り始めた。
かっと凄まじい稲光が世界に轟いた。