第73話 トリルデン村にて④
突然聞こえてきた地を這うような笑い声に、イーリスは自分を見つめているレナの姿を凝視した。
「妻……妻ですって? あんな小国の――ましてや、今では地上から亡くなった国の女がリーンハルト様の……!?」
こちらを見つめたままかっと目を見開く。
「認めないわ! リーンハルト様の妻に相応しいのは、この私よ!」
「あっ!」
兵士たちが止めようとするのよりも早く、囲まれていた槍の下をくぐり、レナがこちらへと突進してくる。
「待て!」
後ろで護衛が咄嗟に槍を構えたが、まだ偽物だと決定したわけではないのに、突き刺せば聖女を殺してしまうと思ったのか。
一瞬だけ躊躇した間に、レナの足は、近くに立っているイーリスの側へと駆け寄っていた。
「あなたなんか……! 少しもリーンハルト様にふさわしくなんかないのに!」
イーリスに掴みかかろうとする顔は嫉妬に狂ったものだ。
よく手入れをされた爪は、イーリスの顔を狙っているのだろう。引き裂いてやりたいといった形相で、その爪を立て、イーリスの額から顔全体を狙って伸ばしてくる。
「やめろ、レナ!」
急いでリーンハルトが、イーリスを守ろうと二人の間に手を伸ばした。
しかし、リーンハルトの体が二人の間に入るのよりもわずかに早く、突進してきたレナの手がイーリスの顔にかかっていく。
「あっ!」
咄嗟に顔を庇おうと持ち上げた左手の扇子の房が宙を舞い、襲ってきたレナの頬にあたった。
その瞬間だった。
レナの白い顔に光るような亀裂が入る。
「え……」
息を呑んで見つめた。その前で、イーリスの扇子についた赤い房飾りにあたった白い顔は、薄い水色の光を発しながら、ひび割れるように細かな亀裂が縦横無尽に走っていく。
「これは――!」
はっと息を呑んで、レナの顔の前で揺れている今も扇子についたままの赤い房飾りを見つめた。
(これは、確か――。あの時、オデルがくれた魔道具の邪気を祓うお守り!)
これに触れて崩れるということは、レナの顔は魔道具だったのだろうか。
身動くことすら忘れてレナの姿を見つめる。美しかった顔は、いつの間にか肌色が失せ、次第にひびだらけの白い仮面になっていくではないか。
目を見張り、視線を逸らすことができない。
その前で薄い青の光がレナの白い仮面に縦横に入ったひびから溢れるように迸り、やがてすさまじい閃光を放ってぱんと砕けたのだ。
「あなたは!」
その下から現れた顔は――。
亜麻色だった髪が、ふわりとミルクティベージュの波となって視界に広がっていく。翡翠色だった瞳は、今では涼やかな水にも似た青色だ。だが、突然の事態にも拘わらず、憎々しげに今もイーリスを睨みつけたままのこの顔は知っている。
ごくりと息を呑む。
「あなた……ポルネット伯爵令嬢マーリン……!」
どうして忘れることができるだろう。幼い頃のリーンハルトの婚約者候補の一人であり、イーリスと結婚してからも、隙さえあればリーンハルトに近づこうとしていた相手!
(まさかとは思っていたけれど……彼女がレナだったのなら、すべてが腑に落ちる)
どうして、あんなにリーンハルトに執着していたのか。偽物の聖女を騙りながらも、隠しきれなかった貴族然とした物言い。
レナが偽物の聖女なのではないかと聞いた時から、胸の中で浮かんでは打ち消していた面影だった。
ぐっと金の眉を寄せたイーリスの前で、正体を暴かれたレナはマーリンの顔で、憎しみをこめたままじっと見つめてくる。
「そうよ。やっと気がついたのね」
くすっと笑う声は、突然の事態に戸惑いながらも嘲っているかのようだ。
「あなたなんかリーンハルト様にふさわしくない! 政略だけで結婚して、リーンハルト様のお心に少しも寄り添えなかったあなたなんて――!」
消えてしまえばいいのに!
顔も声もすべてがイーリスに向かってそう叫んでいるかのようだ。
「マーリン……」
リーンハルトも面識があったからだろう。幼い頃に婚約者候補として引き合わされてから、何度も出会ってきた彼女の姿を、どこか呆然とした様子で見つめている。
「なぜ君がこんな愚かな話に……」
「なぜ? だって、リーンハルト様の妻には聖女でなければなれないのでしょう? だから、私は――」
アクアマリンの瞳に涙を溜めながら、すぐ側に立つリーンハルトに駆け寄る。
「私はリーンハルト様の妃になるために、小さい頃から必死で努力をしてきました! お忘れですか? 陛下のお爺様が婚約者候補の令嬢たちと顔合わせをさせるために設けられた庭園での茶会で、初めてお会いした時のことを――!」
駆け寄りながら、彼女の手はリーンハルトに縋っている。しかし、リーンハルトの顔はただ色をなくして見つめるだけだ。
「私は緊張していたため、ご挨拶をするのが精一杯で。やっと一言だけした会話もその場に出ていたお茶についてだけで」
きっと幼いリーンハルトの気持ちをたいして引くものではなかったのだろう。困惑している顔に、マーリンは必死で言い募る。
「うまく話しかけられなくて緊張していた私が父と一緒に退出しようとした時、袖のレースに引っかかった小道の薔薇の枝を、腕を取りながら丁寧に外してくださったではありませんか!」
「あ……」
一瞬だけ、リーンハルトの瞳が円くなる。
それと同時に、聞いていたイーリスにも、その遠い日の光景が目の前に浮かんでくるような気がした。
会ったこともない幼い頃のリーンハルト。そして薔薇の棘に袖のレースをとられて困っていたマーリンの姿が。きっとお茶会用に準備された高価なドレスを破いてしまうと焦っていたのだろう。その困っている姿に、銀の髪を揺らしたリーンハルトが近づき、静かに腕を取りながら丁寧にレースを棘から外してくれる。
目の前で銀の髪が王子様の煌めきで揺れながら――。
それは、幼い女の子だったら、誰もが胸のときめくシーンなのに違いない。ましてや、それが自分の婚約者候補で、将来の運命の人になるかもしれない相手だと聞いていたのならばなおさら。
「私はあの時――本当にリーンハルト様の妻になりたいと願ったのです! ほかの誰でもない、ただこの人だけの側にいたいと」
涙をこぼしながら告げるマーリンの言葉はきっと本物だ。
困ったようにリーンハルトが、その姿を見つめたまま視線を動かしていく。
「だから、陛下のお爺さまが私のことを推してくれていると伺った時には、夢のように嬉しくて……。陛下に相応しいお妃様になりたい、陛下に愛される存在になりたいと、それだけをどれほど願ってきたことか――。それなのに」
きっと鋭いアクアマリンの瞳でイーリスを見つめる。
「その女が、聖女だというだけで、すべてを持っていってしまった……!」
「マーリン……!」
見つめるリーンハルトも言葉がうまく出てこないのだろう。
辛そうに目を歪め、ぐっと銀色の眉根を寄せている。
まだ幼い王子の未来の妃候補に選ばれ、恋してしまったために、マーリンはこんなことを引き起こしてしまった。それは、親であるポルネット大臣のせいもあったのかもしれない。
きっと、何度もリーンハルトの妻になるように、頭を撫でながら励まされていたのだろう。
「マーリン……」
老いた顔で、泣く娘を見つめているポルネット大臣は、本当に姉の復讐をするためだけにマーリンを利用していたのだろうか。もちろん、自分の家系を王家に認めさせたいという思いもあったのに違いない。復讐のために、マーリンを近づけ、陽菜を召喚したのだろう。だが、陽菜が失敗したあと、マーリン自身を偽の聖女に仕立てたのは、復讐と同時に、自分の野望が娘に植え付けてしまった恋心を叶えてやりたいという親心もあったからなのかもしれない。まるで贖罪のように。
「イーリスのせいではない……! 確かに彼女は異世界から来た。だが、離婚を引き留めたのは俺だ。そして、俺が結婚相手としてイーリスを迎えることにしたのも、聖女だからだけではなく、――俺はもらった絵に描いてあった彼女本人に会いたくて……!」
「リーンハルト……」
それは、今までに一度も聞いたことのないリーンハルトの告白だった。
「確かに国が、婚約者を彼女に決めたのは、イーリスが聖女だったからだ。でも、俺が彼女との結婚を続けたのは――それを望んだのは、イーリスが聖女だったからではなく――!」
「いいえ、いいえ……! 聞きたくなんてありません! リーンハルト様はイーリス様が聖女でなければ、ご婚約はされなかったはずです!」
「それは――」
「マーリン……! 確かに、聖女というだけであなたの恋を邪魔してしまったのは悪いと思うわ。でも、それは国の決まりごとでリーンハルトのせいでも、あなたのせいでもないの」
だから、どうかもう辛い恋のことは忘れてと言おうとした時だった。
「そうですね。イーリス様は聖女だから、リーンハルト様の伴侶に選ばれた。――ならば」
ふっとマーリンの笑みが禍々しいものに変わる。
「偽物ではだめなのなら、私が異世界に行って本物の聖女になればよろしいのですわ」
「なっ!」
目を見開くと同時だった。
「オデル!」
その言葉に、騎士たちから隠れて潜んでいた一人の姿に気がつく。
馬車の側に身を隠していたのだろう。
名前を呼ばれて出てきた姿は、マーリンの側にいつも仕えていたあの従者ではないか。
「あなた……!」
呼ばれた名前にさらに目を見張っていく。
「イーリス様、ご恩をこのような形で返すことになってしまい申し訳ありません」
顔立ちこそ違うが、名前で気がついた。
頭を下げながら、オデルは顔に貼り付けていた仮面を剥がした。皮膚から離れると同時に、白くなっていく仮面の下では、間違いなくあの隠された民の村で見た父親の姿があるではないか。
そして、この声は、以前街に出て馬車が襲われた時に、助けを呼んだくれたあの男性のものだ!
「あなたが、私を助けてくれていたのね……」
「イーリス様には、子供を助けていただいたご恩がありましたので……」
そう呟く声には、彼の苦渋が滲んでいる。しかし、そのオデルの姿に、マーリンははっと笑うように眼差しをやった。
「なにをしているの! 今すぐ異世界への扉を開いて、私を本物の聖女にしなさい!」