第72話 トリルデン村にて③
こん――と、音をたてて、たしかに今扇はベンの足にあたった。
扇とはいえ、貝細工で骨を作られているから、かなり硬い。それが今、間違いなく膝のすぐ下にあたったはずなのに、足にはなんの反応もないではないか。
「え――?」
いつもならば、気にもしないことだっただろう。
ただ、宙ぶらりんになっている足に扇があたったのに、まったく無反応なことに目を見開いた。
(あら? なんか、今ひっかかったような……)
昔、病院に行った時によく足を叩かれた。
「あれはなんの意味があるのかしら?」
不思議に思って学校の友達に尋ねた時に、側で聞いていた保健の先生が、「そう、たとえば……」と、その反射とも関係する歴史の話を教えてくれたことがあったからだろうか。
(いえ、まさか……)
とは思うが、妙に気になる。
「ねえ、ベンさんをちょっと腰かけさせてもらえるかしら?」
近くにある家の前にある椅子を持ってきて、足が浮くように敷物をしてからベンの体を座らせてもらうと、イーリスはそのすぐ前に屈みこんでみた。
「イーリス?」
「お、王妃様」
突然椅子の前にしゃがみこんで、男のズボンをまくりあげたから、リーンハルトもベン自身もぎょっとしたような顔をしている。その様子にかまわずに足を見つめ続けると、ベンの足は、ひどく不健康なように感じた。
長い間、ズボンに隠れ、日にあたっていなかったのだろう。白くなった足をじっと見つめて、その膝の下のくぼんだところをもう一度扇の要でこんと叩いてみる。
「王妃様?」
この村で診察を命じていた医師たちも、イーリスの様子に気がついて側に近寄ってきた。
だが、多くの人たちが見守る前でも、ベンの足はなにも反応を示さないではないか。
「――これは!」
はっと、その様子に大きく目を開いた。
「これは、まさか脚気!?」
「脚気?」
ざわっと、周りにいた村人たちが聞き慣れない名前に顔を見合わせている。
「ええ。私が前世いた国で、過去に流行った病気なの。ビタミンB1と呼ばれる栄養の欠乏から起きる病気なのだけれど……」
日本の江戸時代から近代化の頃にかけて、流行した病だ。当時は、原因がわからず、江戸などの大都市で起こることから「江戸わずらい」と呼ばれていたが――。
(どうして……? 昔の日本は、精米でこの病気にかかったけれど、この村の主食は米ではないわ)
第一、この村は経済的に恵まれていて、食べ物が偏るおそれもない。
条件的には、かかりにくいはずだ。
(でも、脚気ならば彼らの病が改善しないことにも納得がいく)
そうだ。脚気は初期が体のだるさから始まる。そして手足のしびれや感覚の麻痺など水銀中毒とも共通した症状を起こす。ひどくなって合併症を起こせば、うまく歩けなくなったり、言葉を話しにくくなったりもするし、昏睡に陥ったりもする。最悪の場合は、心不全を起こして亡くなることもある恐ろしい病気だ。
(水銀中毒の症状の後ろに隠れていたのだ! この病が!)
おそらく共通する症状があるせいで、医者たちも見逃してしまっていたのだろう。この世界では、詳しい検査方法などはないのだから!
「今すぐに、彼らを再診察してもらって!」
「は、はい……!」
急いで医師たちが、すぐ側に駆け寄ってくる。
「ですが、王妃様。どうして彼らにだけ、こんな病が……」
「それは……」
ふと、考えて前に会った時のベンの様子を思い出した。
「そうよ、お酒……」
はっと、頭の中に、あの時ベンがお酒の匂いを纏っていたことを思い出す。
酒場の女将も言っていたではないか。この村は、ほかの場所より飲んだくればっかりだと。
だとしたら。
「アルコール依存症だわ……」
おそらく間違いないと、頭の中で思い出した知識に頷く。
「脚気は、アルコール依存症でも起こりやすくなるのよ……! アルコールを分解するために、B1を使うから!」
だから過去の病と思い侮ることなかれと、あとで詳しく調べた本には書いてあった。
かぶっている症状があったから、水銀中毒と同時に脚気を起こしていたのが、見過ごされていたのだ!
「で、では、この病気は酒のせいで……」
目を見開いて屈んだままのイーリスを見つめるベンの顔に、明るく笑いかけてやる。
「ええ。だからお酒をやめて、B1を多く含む食品――豚肉や大豆やごま、うなぎなどを食べるとだんだんとよくなっていくと思うわ」
「うなぎ!? あのにょろっとしたのを!?」
(あ……こちらでは、うなぎを食べる習慣はなかったのね……)
「ええ! 蒲焼きにしたらふかふかでとてもおいしいの! だからお薬とは思わず、きっと楽しんで食べられると思うわ!」
「ふかふか……」
「おいしい……」
ベンの周りにいたほかの病人たちが、戸惑いながらも一斉にごくりと唾を飲みこんでいる。
「食べてみて。そして、お酒は絶対にやめること。そうすれば、きっとあなたたちもよくなっていくから――」
「俺たちも……体が楽になるんですか……?」
こくりと頷く。
「きっとなれるわ! だから、諦めないで……」
――生きることを。
どんなときでも、もうこれ以上は無理なんだと捨て鉢にはならないでほしい。どんなに絶望的な状況でも、最後の最後にはなにか新しいことが起こるかもしれないのだから。
手を握って強く頷くと、ベンの目から涙がぽろりとこぼれた。
「聖姫様……」
「ありがとうございます、聖姫様……」
啜り泣くように、周囲が一斉にイーリスに対して泣きながら膝をついている。
「こんな私たちを最後までお見捨てにならずに……。助かることができない病に、いつかはかかると言われて、子供の頃からずっと怖かった……。それを助けてくださったばかりか、俺たちが自分で招いた病気まで治してくださるなんて……」
ありがとうございます。まるで祈るように唱えていくその言葉は、この治療が、彼らがずっと神に願っていたものだからなのだろう。
「顔を上げて」
慌てて、近くで蹲っている男の手を取った。
「治療はまだこれからよ。まずは、みんなが元気にならないと」
「イーリス」
声がするほうを見ると、側にいたリーンハルトがイーリスに手を差し伸べ、立ち上がるのを助けてくれようとしている。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。私の手に砂がついているから、取ったらリーンハルトの手を汚してしまうわ」
「君の手についているものならなんでもかまわないさ。ましてや、聖女の君が俺の国民をいたわってくれた。俺の妻としてこれほどありがたい行為はないのに、どうして俺がそれを気にするんだ」
むしろ君のこの手の汚れは、俺への勲章だと軽くキスを落とすと、周りの村人たちの顔が堪えきれなかったように微笑ましいものへと変わっていく。
「あらあら。陛下は本当に王妃様のことがお好きなんですね」
「それでは、再婚式ももうすぐですね」
きっとこの二人ならば、幸せに国を導いてくれるわねと小さな囁き声が聞こえてくる。
「ふふふ」
しかし、その時イーリスたちの背後から不穏な笑い声がした。
振り返って見れば、兵たちに取り囲まれているレナが不気味な笑いを浮かべているではないか。
そして、ぎろりと翡翠色の瞳でイーリスを見つめた。