第71話 トリルデン村にて②
突き飛ばされて地面に転がったベンを見るレナの顔は、憎々しげに怒りを湛えたものだ。
驚いて、ついという感じではない。まるで、自分に触れるのが最初から間違いだったとでもいうかのような――。
「誰の許しを得て、私に触れているの!? 私はそもそもお前たちが近づくこともできないような――」
「そもそも……?」
すっと唇を開いて、今のレナの言葉を唱える。
イーリスのその仕草に、レナがはっとした顔をした。
「そもそも……なんだと言うのかしら?」
「あ、いえ。これは……!」
とっさの言葉ほど本音の出るものはない。
「この人たちは、あなたが以前配ったお薬をほしいとお願いしただけでしょう?」
それなのに突き飛ばすなんてと、じっと見つめれば、ベンの後ろで明らかに動揺したように見つめていた人たちも、やっと自分たちが望んでいたものを思い出したようだ。
「そ、そうです。俺たちは、ただ聖女様の作られた薬がほしかっただけで……」
「あれを飲んだら、すごく体が軽くなったような気がしたんです! 陛下が遣わしてくださったお医者様には感謝していますが、毎日俺らだけがどんどん足の感覚がなくなっていく……! むくみや痺れもひどくなってきて、もう酒でもごまかせねえ! だから、どうか薬を……!」
口々に言い募る人々にレナも焦ったのだろう。
「あ、あの薬はもうありませんわ。持ってきていた原料がもうありませんし……」
「あら? 薬品名と調合の仕方さえ教えてもらえれば、ここにいるのは都でも優秀な医師ばかりですもの。すぐに調合をして、同じのを作ってくれるわよ」
白い扇を握りながら言うと、きっとレナがイーリスを見つめてくる。
「だから……! 私は違う世界から来たと申したではありませんか! 薬の原料だって、その世界から持ってきたもので……」
「それは変ね? 今までミュラー神に招かれた聖女は、すべて同じ世界から来たと記録が証明してくれたけれど?」
「え?」
翡翠色の瞳を開くレナの前で、ギイトに一枚の紙を持ってこさせる。
「あなたからその話を聞いて、私たちで過去の聖女の出身地について調べてみたの。記録に残されていた言葉から読み解けば、彼女たちはみんな、陽菜と前世の私が暮らしていた世界から召喚されているわ」
ぱらりと、ギイトが、広げた紙をレナの前に掲げてみせた。それは、過去の聖女たちが口にしていた前世の地名や文物の産地についての一覧表だ。
目にした瞬間、明らかにレナの表情が強張った。
「それは……」
「陽菜様とイーリス様が、過去の聖女と同じ世界から来られた! だからといって、違う世界から来たレナ様が聖女ではないという証明にはならないはずじゃ!」
突然後ろから衛兵たちを分けるようにして響いてきたのは、ポルネット大臣の声だ。
「ミュラー神から初めて違う世界から招かれた可能性だってある!」
急いでレナの側に駆け寄ると、まるでかばうようにその前に立ったではないか。
その姿に、ギイトがくるりとイーリスを振り返った。
「そうね、確かにその可能性もあるわ。でもね」
扇を広げながら、じっと金色の瞳でレナとポルネット大臣を見つめる。
「その違う世界からもたらした薬が麻黄湯だったというのは、どういうことなのかしら? あれは、この世界でも私が昔住んでいた世界でもある薬だったけれど?」
もう奇跡の正体はばれているのだと告げてやれば、はっとレナの瞳が開いた。
「あれは、違う世界からもたらした特別な原料でもなんでもない。ましてや、この村の人々を治療するだけの効果もない――ただ、精神を興奮状態にして、まるで病気がよくなったかのように錯覚させるだけのお薬よ!」
「ええっ!?」
後ろにいた村人たちが、どよっと叫びをあげている。
国王夫妻が来たと聞いて、遠巻きに集まってきていた人たちも、みんな今のイーリスの言葉に、驚きを隠せないようだ。
「レナ。あなたは、本当に聖女なのかしら? 聖女として現れ、奇跡を起こしたように見せかけたけれど、薬の中味はこの世界で作れるもので、彼らの病気にはまったく効果のない品だった」
いや、むしろ弱った体に、用法の違う薬を使えば、逆に害になったかもしれない。
「しかも、あなたが降臨した地は、後ろ盾のポルネット大臣の領地で、ほかの土地の者は誰もあなたが降臨したところを知らない」
こつんと一歩近づく。
「困れば、私たちとは違う世界から来たと言うけれど、今までの聖女はすべて同じ世界から召喚されていた人たちばかり」
ぐっとレナが、亜麻色の眉を強く寄せた。
「そして、あなたがみんなに見せていた異世界の品だという不思議な細工物には、この国の隠された民によって作られた魔道具があった! 本当のことを言いなさい、あなたはほかの世界から召喚されたのでもなんでもない! ただ、聖女の名前を騙っただけのこの世界で生まれ育った者なのでしょう!?」
ばっと顔に扇をつきつける。
「レナ様……」
その瞬間、ポルネット大臣がレナの前に庇うように入り、扇を手で弾いた。
「あっ!」
「元王妃とはいえ、失礼すぎますぞ! 本物かそうでないか――神に喚ばれた聖女が、今回に限り違う世界からだったというのが、どうしてありえないと言い切れるのか!」
「それについては、この件が終わり次第、改めてギルニッテイの神殿で神託をお願いしよう。啓示式で、親しげにイーリスに声をかけてくれた神だ。イーリスが直接問いかければ、レナが本物かどうか答えてくれるのではないか?」
「それは……」
ぐっとポルネット大臣が、リーンハルトの言葉に押し黙った。
まさか召喚した神本人に訊くとは思わなかったのだろう。神託など、特別な神官以外にはほとんど示されない。それだけに、イーリスが話せるとは考えもしなかったのだろうが。
「レナの件は、ここが終わり次第、改めてギルニッテイの神殿で神託を問い、得られなければ、真偽を問う法廷を設ける! それまでは、身柄を拘束しておくように!」
リーンハルトの命令で、周囲にいた兵士たちが、急いでレナとポルネット大臣の周りを囲む。
さすがに、現役の大臣とまだ聖女かもしれない女性に縄をかけることは躊躇われたのだろう。槍を持って周囲を囲むと、ぐるりと逃げられないように取り巻いた。
「そ、そんな……」
その様子を見て、へなへなと座り込んでしまったのは、さっき出てきたベンという村人だ。
「聖女様が、に、偽物? では、俺らは、も、もう……」
「このまま、死んでいくしかないのか……」
一緒にレナの薬を求めていた村人たちも力をなくしたように座り込んでいる。
「へ、陛下と王妃様が、こ、来られて……お医者様を、よ、寄越してくださって……やっと、助かると思ったのに……」
手で涙を拭いながら呟く間も、その指は微かに震えている。
だが、力が入りにくいのか、その腕すらも落としてぼろぼろと涙をこぼし続けた。
「ま、まだ、死にたくはないのに……」
――なぜ、彼らだけよくはならないのか。
それでも、死にたくないと呟く人たちを見捨てたくはなかった。
「お願いします、どうかもう一度だけ医者に診せていただけないでしょうか。いろんな手を尽くして、きっとあなたたちを治す方法を探してみせますから――」
力の入らない腕をそっと取ると、ベンは驚いたように顔を上げた。
「なにか――きっと、なにか原因があるはずです。それさえ見つかれば、きっと助けることができると思いますから……」
心からの言葉を、金色の眼差しにこめて見つめる。すると、泣いていた男の顔が、くしゃっと歪んだ。
「ありがとう……ございます。でも、さっき歩いたので、もう立ち上がる力も出なくて……」
「それならば、手をお貸ししますから。一緒に諦めないで探しましょう」
ぎゅっと手を握って微笑むと、ベンの顔が泣きながら笑った。
「そう……だ、よな。聖女様が偽物だって……そ、そのあとに聖姫様を遣わしてくださったのも、神様だもんな。ま、まだ、諦めるなということだよな……」
ぐすっと鼻をすすり上げた。
「はい! 一緒に頑張りましょう!」
自分に聖姫としてなにが彼らにできるのかなんてわからない。それでも、少しでも心の支えになれるのなら、寄り添いたくて微笑んだ。
呼びよせた兵士たちに、立ち上がれないベンの体を背中に負ってもらう。そして、他の村人たちも、兵士たちに肩を貸してもらって立ち上がり、歩き出そうと振り返った時だった。
弾みで持っていた白い扇が、背負われたベンにあたったのは。
「あ、ごめんなさい――」
すぐに謝ったが、その瞬間イーリスの金色の瞳は大きく見開かれたのだ。