第70話 トリルデン村にて①
がらがらと、馬車は慌ただしく街道を走っていく。
以前はゆっくりと側にある村などに立ち寄りながら辿った道だったが、さすがに今回はそんな悠長なことは言っていられない。
軍の支部があるところで、急いで馬だけを交換すると、すぐに南にあるトリルデン村へと急いだ。きっとグリゴアが狼煙で伝えておいてくれたのだろう。サインさえ決めておけば、山の頂上に作られた見張り用の砦から、煙の出し方で、馬よりも鳥よりも早く、国の端まで指令を伝達することができる。
夕暮れに、道の途中である軍の支部に入るなり、馬車の両側に兵が並び、すぐに馬を付け替えてくれた。また御者が車輪を疾走させ始める。
「まさか、ポルネット大臣まで来るとは思わなかったけれど……」
「ああ、だが好都合だ。これでレナのことを暴いて、陽菜の件についても問いただしてやれる」
そう馬車の向こう側に座り呟いているリーンハルトの顔は、どうやらこれを正念場と捉えているらしい。
「ええ、そうね」
窓の外を流れていく夕暮れの景色から差し込む光に、リーンハルトの左手でイエローダイヤモンドがきらきらと輝いている。その様に、そっと自分の左手に輝く青い指輪を見つめた。
(そうよ……。大丈夫よ)
きっと二人なら、この状況も乗り越えていける。
一度ぎゅっと、薬指の指輪を握り締めた。
(そして、陽菜! これで、今度こそあなたを家族の元に帰してあげる方法がわかるわ……!)
自分たちを引き裂くポルネット大臣の復讐のためだけに異世界から召喚された陽菜。
きっとこれがうまくいけば、彼女を平凡でも幸せだった高校生活の中へと帰してあげることができるだろう。
ガラガラと馬車は舗装された南への道をひた走り、前は三日かかった旅程を二日で走り抜けると、険しいガウゼン山地へと入った。
まばらに木が生えた奥には、以前行ったガウゼンの砦が深い谷を隔てて、今も威厳のある姿を保っている。
リエンラインの国を長く他国の侵略から守ってきた砦は、眼下に広がる深い渓谷から吹き上がってくる風にも負けず、ただ過ごしてきた時の重さを伝えている。
今にも木の間から獣たちが飛び出してきそうな道を強い振動に堪えながら登ると、やがて馬車は山の中腹の少し開けたところにある村へと入った。
かちゃりと馬車の扉が御者によって開けられて下りてみたが、前と同じだ。
灰色の屋根に黄色い壁の家々が、馬車が止まった広場を囲むようにして並び、軒先には、以前よりは数が減った玉葱や人参が吊されている。
きっとあれからの毎日で、少しずつ料理に使われていったからだろう。
しかし、家の庭に植えられていた雪割草や、広場の端に繁っていた山の枯れ草などは今は姿が見えない。
代わりに、村全体が柔らかな黒い土で覆われ、水銀に汚染された表土と入れ替えた様子が窺える。
リーンハルトに手を取られながら周りを見回していると、急いで村の奥から以前も案内してくれた男が駆け寄ってくるのが見えた。どうやら、やはり彼がこの村の纏め役らしい。
「国王陛下、王妃様! よくお越しくださいました!」
ざっと地面に手をつくようにして挨拶をしてくる。
「村の一部の者たちが、無理を言っていることがお耳に入ったのでしょうか!? 申し訳ありません……! 陛下は、私どもを心配して、村の汚染対策や医者の手配までしてくださったのに……」
心の底からすまないと思っているのだろう。
額を地面にすりつけるようにして謝罪している男に、イーリスはそっと手を伸ばした。
「顔を上げて。一部の方たちが、立てこもっていると聞いたのだけれど……。その後みんなの治療の具合とかは、どうなの?」
手配した医者でなにか不都合があったのだろうか。しばらくは軍医が診ていたが、さすがに本来の職務がある以上、長くこの村にだけ留まることはできない。
王室が交代の者を遣わして、その医者の一団がこの村の専任として患者たちを診ているはずだが――。
尋ねると、彼はより一層深く頭を下げた。
「いえ、最初の軍医の方も、今来ていただいている医者の方たちも皆親切に診てくださっています! みんな、治るところまではいかなくても、前よりは体が少し楽になったと喜んでいました! ですが、どうしても体のだるさがとれなくて、前よりももっとしびれや、足などの感覚が麻痺してきたという者たちが現れて……」
「治療が効かなかったということ?」
「いえ……! 医者の先生は、本当に色々と親身になってくれて、大多数は前よりも楽になってきたのです! でも、なかなかよくならない者の一人が胸が苦しいと言いだし……。一時倒れたことで、治らない者たちがパニックになって、このまま死にたくはないから聖女レナ様の薬がもう一度ほしいと叫びだしたのです!」
「それは……」
レナの薬は、その場しのぎで元気になる効果しかない。風邪などには効くだろうが、弱っている体に使えば、どんなことになるかもわからないのに……。
だが、後ろに止まった馬車から降りてきたレナを見つけたのだろう。ぱっと村の纏め役の顔が輝いた。
「あ! あなた様は、あの時の聖女様……! では、あの者たちをお救いに来てくださったんですね」
「え?」
レナにしてみれば、なんのことかわからなかったようだ。
だが、その姿に村の纏め役は後ろに声を張り上げた。
「おーい、お前たち! 願いどおり、陛下と王妃様がもう一人の聖女様を連れてきてくださったぞ! これで治るから、いつまでもそんなふうに引きこもって陛下たちを困らせるんじゃない!」
かなり誤解があるようだが、その男の声に広場の奥にある一軒の扉が開いた。
「聖女様だ……!」
よく見れば、そこは以前この男が案内してくれたベンという男の家ではないか。
あの時も足を引きずっていたが、今は杖をついているということは、どうやら前よりも悪化したらしい。
それでも、レナの姿を見ると、杖を足早に動かして必死な様子で近寄ってきた。
だが、杖を支えにしている手にもうまく力が入らないのか、動かすだけでも大変そうだ。
「せ、聖女様……」
それでも、必死でレナに近寄り、左手を伸ばしてきた。
「お、お願い、し、します……! 薬を……薬をください」
歩いてくる姿は、まるで死にかけた者が必死に縋ってきているかのようだ。
「ひっ!」
レナもその姿に鬼気迫るものを感じたのだろう。思わず後ろに一歩下がった。
「ずっと一緒に酒を飲んで、こ、この病に堪えていた友達が、この間、と、突然倒れたん……で、す。も、もうすぐ、治るって、た、楽しみにしていたのに……。急に胸が痛いと言いだしたら、その、あ、あと意識がなくなった……。お、俺は、し、死にたくないんです……、聖女様!」
「きゃあっ!」
突然男が縋るようにレナの服を掴んだのに驚いたのだろう。力が入らない手を持ち上げ続けているのが苦痛で、ついしてしまったのかもしれない。だが、周囲にいる兵たちが止めなかったのは、事前になにもせずに様子を見るように通達してあったためだ。
「お願いします……! もう一度、く、薬をください!」
きっと動きにくくて今までに何度も転んだのだろう。土にまみれた杖を持っていたせいで、乾いた泥で薄く汚れていたベンの手が、レナの高価な白いドレスを握り締めた瞬間だった。
「触らないで! 汚らわしい!」
ばしっという音が響き、レナの手が必死に縋ってくる男の手を弾き飛ばしたのは。
「あっ」
その瞬間からんという音が響き、ベンの力の入らない体は地面へと投げ出された。
「せ、聖女様……?」