第69話 出立
イーリスは落ちついた紫色の旅装に着替え、瑞命宮へと歩いてきていた。
重厚な茶大理石が覆う廊下の外では、やっと春になった日差しが、前よりも柔らかく降り注いでいる。
かつかつと靴音を鳴らしながら、金の百合が両脇に並んだ随命宮の廊下を歩いていく。
(グリゴア! やりすぎ!)
両脇に花の並木道といわんばかりに飾り立てられた百合たちに、思わず苦虫を噛みつぶしてしまう。しかし、角を曲がったところで、ふと足を止めた。
(いや、これはこれで――)
金色の百合がイーリスをイメージした花だろうことは間違いないが、それに周囲を包まれるようにして、アイスブルーの瞳にその色を映しながら立つリーンハルトの姿は、どこか神々しいような美しさだ。
銀の髪が金の花の中で揺れ、金と銀と青が一箇所で調和している様は、イーリスでさえ一瞬目を奪われてしまう。
「来たか」
しかし、いつもと同じ調子で顔を上げたリーンハルトの姿に、自分が見とれていたことに気がつき、とっさに顔が赤くなってしまった。
(こんな非常時になにをやっているのよ! 私!)
しかし、グリゴアがこの視覚的威力を狙って金の花を贈ったのかと思うと、でかしたという気持ちと眼福のチャンスを今日まで逃してしまったと、なにやら叫びたい気分だ。
なにしろ、しばしとはいえ花を優しげに見ていたリーンハルトの眼差しは、間違いなくその色にイーリスを重ねていたのだろうから。照れるようなもっと見ていたかったような――という複雑な心境だ。
その内心の葛藤をおくびにも出さず、にこっとイーリスは微笑みかけた。
「ええ。用意はできたわ。リーンハルトは、留守の代理はダンクリッド公爵様にお願いしたの?」
「ああ、叔父上に。留守にする時は、いつもお願いしているからな。快く引き受けてくれた」
「そう――」
リーンハルトの叔父上は、亡くなった兄である先代国王陛下ととても仲が良かったらしい。
そのため、親が亡くなってからは、後見人として家族同様にリーンハルトに接してくれているらしいが……。
(そういえば、叔父君一家は誕生日プレゼントがいつも花ではないのよね? 今年はなにをもらったのかしら?)
ふと気になったのは、家族は誕生日に花以外でもいいという特例を認めさせたのが、リーンハルトの従兄弟であり、ダンクリッド公爵の息子でもあるバルドリックの泣き落としだったからだ。
「ねえ……、バルドリックさんからは……誕生日になにをもらったの?」
それだけリーンハルトと仲がよいのだ。これからのプレゼントの参考にするのにいいかもしれないと思っておずおずと訊くと、その瞬間リーンハルトの顔が真っ赤に染まった。
「リ、リーンハルト……!?」
「な、なんでもない! 突然で、妙な物を思い出したから……!」
「妙な物? 誕生日プレゼントで?」
一体なんなのか想像もつかないが、見ている前でリーンハルトは盛大にむせている。思い出した物によほど焦って、気管支に唾を飲み込んでしまったようだ。
慌てて背中を撫でてあげれば、やっと落ちついたらしい。
「大丈夫だ。ただ――女性は見ないほうが、よさそうなものだったというだけで……」
ますますわからないが、多分男心をくすぐるようななにかだったのだろう。たとえば、前の世界なら、プラモデルとか、なにかミリタリー関係なのかもしれない。
――それにしては、顔が赤いような気もするけれど。
だが、急いで歩き出したリーンハルトにあわせて、イーリスもその側をついていく。
「では、しばらくの間遠出をするけれど、国務のほうは大丈夫なのね?」
「ああ。政務は叔父上が代理を務めてくれるし、貴族たちはグリゴアが取り仕切ってくれることになっている。二人が目をきかせていれば、俺がしばらく不在でも、なにもすることはできまい」
力強い言葉に、こくっと頷く。
「ましてや、今はバルドリックが帰ってきている。王族に連なる将軍が都にいる以上、誰も勝手なことはできん!」
本来ならば、叔父とその息子に権力と軍事力の両方が伴っているなど王権の安定から見れば、危ないことこのうえないのだろう。しかし、まったく二心のない二人だけに、その力がリーンハルトの強力なパックアップとなってくれている。
「陛下」
瑞命宮の管理官が恭しく挨拶をしてきた。
「お留守の間に、ご命じになられたものは必ず見つけてみせます。すべての職員を総動員してあたっておりますので――」
「うむ、お前なら、随命宮のどこでも探し出せると信じている」
「ありがたいお言葉でございます。必ずや、吉報をお届けいたしますので」
静かに身を屈めていく管理官の忠誠を、リーンハルトは一つ頷いて受け取った。
そのまま、かつかつと随命宮の通路から王妃宮へと渡り、正面の広間に待たせてある馬車へと近づいていく。
「イーリス様」
広場へ出ると、明るい日差しの中で、陽菜が見送りのために出てきてくれていた。
「陽菜、私がいない間、宮中の聖女の役割はあなたに任せるわ」
なにしろ、知らない間に立派に異文化交流の役を務めていた陽菜だ。明るい顔で屈託なく、今までになかった文化を紹介していく様子に、いつの間にか陽菜のもたらす「いいね」のファンになっている者も多い。
イーリスの言葉に、陽菜がにこっと笑った。
「任せてください! アンゼルと二人でより『いいね』を普及させてみせますから!」
なにやら帰ってきた時の様子が心配になる宣言だが、ある意味陽菜らしくてとても頼りになる。
「頼むわ。私も頑張ってくるから――」
(きっと、陽菜が帰れる方法を見つけるために――)
「イーリス様……」
ぎゅっと握った手にこめた思いが伝わったのだろう。
陽菜が一瞬イーリスの金色の瞳を見上げたとき、奥から衛兵たちに強引に手を取られたレナが連れてこられた。
「申し訳ございません。どうしても行きたくないと仰って……」
「ああ、かまわない。引きずってでも連れてこいと命じたのは、俺だからな」
リーンハルトの声に、レナが、手を離した衛兵たちの姿を忌ま忌ましそうに睨みつける。
そして、縋るようにリーンハルトを見上げた。
「陛下、どうしてこのような……」
「イーリスから知らせが行かなかったか? トリルデン村で、まだ具合の悪い病人がいるそうなんだ」
「それは……! 伺いましたが、聖女の私が今さら行くほどでもないかと……!」
必死に言い募る姿は、どうしてもトリルデン村には行きたくはないようだ。
その時、後ろからメイドと一緒にポルネット大臣が現れた。きっと、レナが連れて行かれる姿に、メイドが急いで連絡を走らせたのだろう。
「陛下……! これは、一体……!」
額に青筋を立てている姿は、どうやらよほど怒っているようだ。
「レナ様は、イーリス様と同じ聖女! それなのに、このような仕打ちは……!」
叫ぶように口を開いている姿の前に出る。
「ああ、急ぎのあまりせかしすぎたわね」
にこっと宥めるように笑いかける。
「でも、以前レナが治療したというトリルデン村の住人たちが、もう一度聖女レナに治療をしてもらいたいと言っているのよ? だから」
貝細工の白扇をぱんと手に叩きつけて閉める。
「一緒に来てもらえるわね? あなたが、奇跡を起こした土地ですもの――」
「それは……」
「行かないとは言わせないわ。聖姫を望んであなたが奇跡を起こした土地ならば、それが今どうなっているのか――。あなたは、見届けるべきよ」
イーリスの鋭い眼差しに、反論の言葉さえ出てこなかったのだろう。
そのまま後ろからいつもの従僕が、ギイトから話を聞いて、大急ぎで纏めた旅用の荷物鞄を抱えてくると、まだ嫌がるレナを無理やり馬車に乗せて、出発した。