第63話 リーンハルトの誕生日⑤
なんの声か。
まだ開いたままだった窓から響いた絹を裂くような悲鳴で、慌ててイーリスは広間へと戻った。
駆け込んでみれば、貴族たちがさっきまで躍っていたかのように円になり、中央に倒れている人物の姿を囁き交わしながら見つめているではないか。
「なにがあったの!?」
叫んで近寄れば、大理石の床の上に倒れているのは、レナだ。その向かいに見下ろすように立っている陽菜の姿に、ただごとではないものを感じてしまう。
「陽菜!?」
まさかレナの重ね重ねの行動に怒って、つい殴ってしまったとか――?
(せめて一発でもと思うのはわからなくはないけれど! でも――せめて人目のないところで!)
とっさにそう思ったのは、ついさっきとった自分の行動のせいだ。
(いや、私じゃないし!)
陽菜ならば、いくら怒ってもそこまではしないはず!
心の中で、自分の言葉にツッコミを入れてしまうのは、身に覚えがあるからだ。
しかし、肩を掴まれて向き直った陽菜は、きょとんとした顔をしている。
「ああ、イーリス様」
見つめてくる顔は、いつもどおりの明るいものだ。
「たいしたことじゃないんですよ。イーリス様が出て行かれてから、皆さんでフォークダンスをしていまして」
「フォークダンス?」
は? という顔で目を見開いていたのだろう。鳩が豆鉄砲を喰らったように見えたのか。
陽菜はにこにこと解説をしてくる。
「はい。こちらの宮廷では、フォークダンスみたいな次々とペアを変えて踊るダンスはないそうてすね。
ですから、以前神殿のチャリティーイベントに来られた方たちにお教えしたら、気に入っていただけたみたいで。あちこちのサロンや催しなどで最近踊られるようになったのです」
――つまり、いつの間にか流行りを作りだしていたということか。
いつものことながら、陽菜の文化交流術には驚かされる。
(そうよね。結婚も家柄絡みが多くて。好きな人に申し込まなくても、公然と踊れるダンスなんてこちらではないもの!)
叶わぬ恋でも、一度だけでも意中の相手と踊ってみたい――ひょっとしたら、相手も自分に気がついて、次の機会が生まれるかもしれない。そんな切ない年頃の男女の気持ちにヒットしたのだろう。
見れば、周りでは比較的若い男女や新しいことが好きそうな夫人たちが躍っていた形跡がある。
(さすがは陽菜!)
文化交流術では、聖女として自分より上かもしれない。
「でも、これは一体……」
踊っていたのはわかったが、どうしてレナが床の上で横たわり、その白い脛を露わにしているのか。
「ああ、転ばれたんです。私が誘って一緒に躍ろうと輪に引っ張っていったのですが、どうやらこのフォークダンスをご存じなかったようで」
「こんな……! こんな野蛮で無礼な踊り、知るわけがないでしょう!」
陽菜の言葉が聞こえたのだろう。床にしたたかに打ちつけたらしい背中をさすりながら、翡翠の瞳で強く睨んでくる。
「ああ。知らなかったとは気づかず、申し訳ありませんでした。でも、恥ずかしがることはないんですよ。踊っている最中に失敗するなんて、よくあることですもの」
いたわるように陽菜が声をかけるが、後ろからこちらを見つめている貴族たちの視線で、レナは自分のドレスが膝までめくれあがっていることに気がついたのだろう。
慌てて、ばっと裾を下げると、顔を真っ赤にして体を震わせている。その翡翠色の瞳に浮かんでいるのは、涙だ。
「こんな――、こんな恥辱! 生まれて初めてですわ!」
慌てて駆け寄ってきた侍女の手を取ると、悔しげに陽菜とイーリスを睨みつけていく。
「私をこんな目に遭わせたこと、必ずや後悔させてあげますから!」
叫ぶとすぐに立ち上がり、扇を広げて自分の醜態を囁いている人たちの目から逃げるように身を翻していく。
その後ろ姿を見つめ、陽菜がぽつりとイーリスに囁いた。
「これではっきりとしました、イーリス様」
なにがだろう。しかし、見上げてくる黒い瞳は、ひどく真剣な色を帯びているではないか。
「彼女は、私たちと同じ聖女ではありません」